長良川の戦い

左が斎藤道三で右が斎藤義龍/wikipediaより引用

斎藤家

長良川の戦いで道三と義龍が激突! 親子で分裂した斎藤家はその後どうなった?

2025/05/28

戦国時代は「他人を巻き込んだ盛大な親子兄弟ゲンカ」が至るところで起きていました。

親子兄弟だけでなく、祖父、孫、おじ、甥なども含めればかなりの数にのぼるでしょう。

その中でも有名どころの一つが【長良川の戦い】。

1556年5月28日(弘治2年4月20日)に起きた戦いで

「斎藤道三が息子の斎藤義龍と戦い敗死した」

としてよく知られており、大河ドラマ『麒麟がくる』でも大きな注目を浴びました。

そして、その後の信長による美濃攻略の転機ともなった、この合戦を、前後の事情からおさらいして参りましょう。

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道三vs義龍 長良川の戦いはなぜ起きた?

コトの発端は、斎藤義龍が父を疑いだしたことにあります。

斎藤義龍/wikipediaより引用

斎藤義龍の母・深芳野 (みよしの)は、斎藤道三の主君だった土岐頼芸から譲られた女性でした。

彼女はこのときすでに頼芸の子供として義龍を身ごもっており、道三の元に来た後で生んだ……という話を、誰かが義龍に吹き込んだのです。

もちろん反対意見もあり、

「いやいや、道三様はもっと早くから深芳野と通じていました。だから義龍様は間違いなく道三様の御子です」

と言う人もいました。

しかし、義龍にとっては前者のほうに信憑性があるように思えたか……あるいは実父など誰でも構わなかったのでは?という見方もあります。

要は、土岐源氏である土岐頼芸の血を引いている設定のほうが、美濃の国衆にはウケがよい――だから、たとえ義龍本人が道三の子だと思っていても、実父は土岐頼芸にしておこうと考えたというのですね。

大河ドラマ『麒麟がくる』でもこの設定が用いられておりました。

 


道三に贔屓されていた弟たちを殺して挙兵

道三も道三で、義龍への態度は温かいとはいえませんでした。

斎藤道三/wikipediaより引用

一応家督を譲りはしたのですが、嫡子である義龍よりも次男以下(斎藤孫四郎斎藤喜平次)を気に入っており、一時は義龍を廃嫡しようという動きもあったとか。

これも「一説には」のレベルなのですけどね。

いずれにせよ自身の立場を危ぶむ義龍は二人の弟を殺すと、いよいよ父との対立は避けられなくなり、長良川の戦いに至ったというわけです。

岐阜城天守閣から眺めた長良川・鵜飼い大橋(現在の岐阜県岐阜市)

戦い自体はあっけないものでした。

既に家督は義龍に譲られている上に、かつて道三は美濃をだまし討ち同然で奪っていたので、味方をする国衆(地元の小領主)はほとんどいなかったといわれています。

一方、義龍には土岐家の旧臣たちがつき、開戦の時点で数倍もの兵力差があったとか。

川を挟んでの戦はただでさえ難しいというのに、これほどの兵力差があっては道三が勝つ見込みはゼロでした。

 

戦後の義龍は頭を丸め内政に勤しんだが

織田信長は、この知らせを聞いて急ぎ兵を出しました。

織田信長/wikipediaより引用

しかし、舅との連携を取る前に義龍軍が道三の本陣に到達。

両軍揉み合う展開の最中に道三は首を討たれ、義龍の勝利となります。

ときに蝮は63。

当時の寿命的にそう長生きできる歳ではなく、義龍は無理して討つ必要はなかったはずです。

それでも力尽くで事を収めようとしたあたり、やはり恨みが大きかったのでしょうか。

ただし義龍も、親を殺したわけですから勝利に浮かれてい様子もなく、父の首を確かめた後、頭を丸めています。

その後は長年の内乱で荒れた美濃の国を立て直すべく、内政に勤しみました。

長良川と岐阜城

重臣の意見を容れるため合議制を設け、家臣の不満や不公平さの是正に努めたといわれています。

こういった働きが朝廷にも認められて官位をもらいましたが、長良川の戦いから5年後、35歳の若さで急死してしまいました。

 

跡を継いだ龍興はどうにもならない凡将だった

本当に突然のことだったらしく、家臣団は右往左往。

跡を継いだ斎藤龍興は何をするにも後手後手にまわるような人でしたので、斎藤家は一気に傾いてしまいます。

斎藤龍興・浮世絵(落合芳幾画)/wikipediaより引用

それでも、竹中半兵衛(重治)のようにお家を支えようとしてくれた人もいたのですが…….真偽はさておき、稲葉山城乗っ取り事件のようなダイナミック諫言をされても反省せず、信長に滅ぼされることになります。

稲葉山城
稲葉山城乗っ取り事件|半兵衛がわずかな手勢で成功させた 真偽怪しい伝説の中身

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龍興自身は長島へ逃げた後、越前の朝倉家へ身を寄せたようで、その朝倉家と織田家との戦いに出陣した際やっぱり討死しました。

美濃を失ったとき20歳、討ち死にしたのが26歳だったそうですから、道三→義龍→龍興の順でどんどん寿命が短くなっていったことになりますね。

「親の因果が子に報う」という言葉がこれほど当てはまる家もそうそうない気がします……。

なお、本文では触れませんでしたが、斎藤道三の救出に向かった織田信長は、その後、義龍の軍に囲まれそうになり、劇的な撤退戦を行っています。

その際、信長は危険を冒して殿(しんがり・最後尾)を務めたといい、以下の記事にまとまっています。

織田信長のイラスト。赤い背景を背に、鋭い眼差しで前を見据える戦国武将の姿を描いた作品で、『信長公記』の主題を象徴するビジュアル。
道三敗死で信長が殿を担った長良川|信長公記第24話

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本当だったら、カッコよすぎるのですが、出来すぎた話にも見えてしまうところが……。

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【参考】
国史大辞典
戦国合戦史研究会 『戦国合戦大事典 岐阜県 滋賀県 福井県』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
斎藤道三/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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