大河ドラマ『豊臣兄弟』では現在、豊臣秀吉による美濃攻略が描かれている。
後に織田信長が天下人となったことから、美濃の斎藤家が尾張の織田家に制圧されるのは、あたかも当然のごとく物語が進んでいる。
しかし、斎藤道三やその息子・斎藤義龍が健在の頃は付け入る隙がなく、織田家は信長のみならず父・信秀の代から何度も返り討ちにあっていた。
そんな強国美濃に大きな綻びが生じたのは、弘治元年(1555年)長良川の戦いで義龍が父の道三を討ち取ったときからであろう。
実は、その後の戦国史に大きな影響を与えていた、美濃の争乱を振り返ってみよう。
義龍の生い立ち
斎藤義龍の父親は誰なのか?
というと斎藤道三に決まっている……

斎藤道三/wikimedia commons
とは言い切れない事情が斎藤家にはあった。
義龍の生母である深芳野が、もともとは美濃守護・土岐頼芸 (ときよりのり) の愛妾であり、彼女が頼芸の子を身ごもったまま道三に嫁ぎ、その後「義龍を産んだ」とされる俗説がある。
つまり義龍の実の父親は土岐頼芸というものだ。
よって頼芸を排除して美濃を手に入れた斎藤道三は、義龍にとっては父どころか「父の仇」であるため、死へ追いやったという。
しかし、それはあくまで俗説。
道三が実父の可能性も高く、ほかにも「稲葉一鉄(良通)の妹が道三の正室となり、義龍を産んだ」という説もあるほどだ。
それよりも現実的に、義龍にとって懸念だったのは、斎藤道三が明智氏から新たに迎えた正室・小見の方(おみのかた)であろう。
彼女が斎藤孫四郎や斎藤喜平次を産み、そちらを跡継ぎにするのではないか?と義龍が警戒するほうが自然である。
そのため道三も事前に手を打っていた。
天文十七年(1548年)に義龍へ稲葉山城を譲り、自らは鷺山城(岐阜市)へ移って隠居したのだ。
義龍に家督を譲っておけば異母弟二人に対する脅威は減るだろう――そう考えたのかもしれないが、父に対する疑惑は晴れていなかったようだ。
そして義龍は凶行に出た。
美濃の国衆は義龍派
弘治元年(1555年)11月12日、斎藤義龍は、異母弟の斎藤孫四郎と斎藤喜平次を殺してしまった。
義龍は病気と称して城にこもり、見舞いに来た孫四郎・喜平次を配下の者たちに襲いかからせたと伝わる。
すでに家督も譲られていたのに、なぜ義龍はそんな真似をしたのか。

斎藤義龍/wikimedia commons
一説によると、道三が義龍から家督を奪い、孫四郎へ与えようとしていたというが真相は不明である。
むしろ最初から父親をも排除したかったのではなかろうか。
隠居してはいても、まだ美濃国内に影響力を持ち、義龍にとっては何かと邪魔な存在だったであろう道三。
それが斎藤孫四郎と斎藤喜平次を殺したことにより、義龍と道三の関係は修復のままならないところまで悪化、翌弘治二年(1556年)に長良川の戦いが勃発した。
娘の帰蝶(濃姫)を正妻に迎えるなど、道三と友好関係を築いていた織田信長の目線から見ると、この長良川の戦いは「悪逆非道の親殺し」のように映るかもしれない。
しかし、実際の兵力は、義龍側が圧倒的だった。
というのも、常日頃から道三に対して反感を抱いていた美濃の国衆を義龍が傘下に従えることに成功したためであり、戦いも呆気ないものだった。
道三は、義龍の手の者によって首を奪われ、舅の援軍に来ていた織田信長は間に合わず尾張へ撤退した。
織田家には再三仕掛けていた
名実ともに美濃斎藤氏の主となった斎藤義龍。
斎藤道三と比べて知名度は劣るが、能力が低くはなかったのであろう。
朝廷や幕府に己の存在を認めさせ、弘治四年(1558年)には治部大輔、永禄二年(1559年)には室町幕府の相伴衆に任じられている。
ならばなぜ、敵対する織田信長へ攻め込まなかったのか。
というと、何も仕掛けていなかったわけではない。

織田信長/wikimedia commons
実は以前から、義龍は尾張へ反信長工作を打っており、例えば弟・織田信勝や織田信広らの謀反も背後で支えていた。
しかし信長に見抜かれ、いずれも失敗。
他に呼びかけていたと思われるのが岩倉織田氏(織田信賢)だが、これも永禄元年(1558年)と翌年の戦いで信長に敗れ、尾張から追放されている。
問題はさらに翌年の永禄三年(1560年)だ。
同年5月の織田信長は、かつてないほどの窮地に追い込まれていた。今川家に尾張南部の城を奪われ、今川義元が大軍を率いてやってきたのである。
そう「桶狭間の戦い」だ。
義龍の死後2日後に攻め入る信長
もしも斎藤家と今川家が同時に攻めかかっていれば?
織田家は滅亡必死だったかもしれないが、それはあくまでゲームの世界であり、当時の美濃の国内外事情はそう簡単ではなかった。
西側には近江の浅井家、六角家があり、両家との関係悪化や再構築に追われていた。
永禄三年(1560年)には領内の禅宗寺院の争い「別伝の乱」も招いてしまい、その対応にも追われている。
実際、この乱により多くの禅僧が美濃を離れたとされ、一説には武田信玄のブレーンとして知られる快川紹喜もその一人だった。
しかも、問題は尾を引き、天皇や将軍まで巻き込んでしまい、解決できないまま永禄四年(1561年)5月11日、当の義龍が病死してしまうのである。
享年33。
死因はハンセン病などの病死説が有力だが、特定には至っていない。
結果、実子の斎藤龍興は若年(当時14歳)のうちに美濃斎藤氏を継ぐことになった。
★
残念ながら急死してしまった斎藤義龍が、天寿を全うするように50歳前後まで生きていれば、信長の美濃攻略はままならず、天下人となれたかどうかわからない――。
そんな歴史学者の見立てもあるほどで、もしかしたら東海エリアの有力大名で終わっていたかもしれない。
実際、義龍が亡くなった2日後の13日、信長はすかさず美濃へ攻撃を仕掛けている。
このときは美濃三人衆として知られる安藤守就や氏家卜全らが防戦するが、以降、織田家の攻撃や調略が激しさを増し、永禄十年(1567年)、ついに稲葉山城は陥落に至る。
参考書籍
横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興』(2015年9月 戎光祥出版)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(2005年3月 吉川弘文館)
太田牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
日本人名大辞典
【TOP画像】左から斎藤道三・斎藤義龍・織田信長/wikimedia commons
