大河ドラマ『豊臣兄弟』で義兄・織田信長を裏切り、やがて滅亡へ追い込まれていく浅井長政。
ドラマでは、二人が“相撲”を通じて親睦を深めるように描かれ、さらに長政が自害を決意する場面でも豊臣秀吉・秀長兄弟と相撲を取る演出があった。
なぜあれほど相撲のシーンにこだわったのか?
というと、織田信長が大の相撲好きだからであろう。
実際、何度も大会を開いたことが『信長公記』にも記されていて、天正六年~天正九年は毎年、特に天正八年(1580年)の5~6月は3回も開催していた。
なぜ、ここまで入れ込んでいたのか。
実際に長政と相撲をとったことはあるのか。
当時を振り返ってみよう。
強者を公明正大に採用できる
信長が家督を継いでから、休むことなく合戦が続いていた織田軍。
特に天正六年(1578年)辺りまでは各地での戦闘激化により、多くの将兵を失っていた。
武将を補充するのは意外と難しい。
すでに実績を持った者が他家から鞍替えしてくる場合は受け入れやすいが、名もなき者を突然召し抱えては、既存の家臣たちからの反感もあり統制が乱れる懸念が否めない。
そこで信長は、相撲大会という形で人材を見出す場を設けたのではなかろうか。

勝川春章の相撲絵/wikipediaより引用
相撲大会であれば、誰の目にも明らかな強者を堂々と雇用することができる。
研究者の金子拓氏も『織田信長 不器用すぎた天下人』の中で、信長の相撲大会を、消耗した軍事力を補うための仕組みとして位置づけている。
単なる余興ではない。
実戦向きの身体能力を有した人材を、家臣たちの前でスカウトする場だったのだ。
後述するが、信長は、家臣同士でも相撲を取らせており、その場には息子の織田信忠や織田信雄らも同席させていた。
一門や家臣団の結束を強めるためのレクリエーション的な機能も果たしていただろう。
信長と長政は実際に相撲を取った?
大河ドラマ『豊臣兄弟』では織田信長との相撲シーンが目立った浅井長政。
史実であんなことはあり得るのか?
浅井家が織田家と良好な関係を築いていた永禄年間、両者が会う機会は確かにあった。

浅井長政(左)と織田信長が衝突/wikipediaより引用
特に永禄十一年の上洛戦では、長政も信長に協力しており、両者が接触する機会はあったと考えられる。
しかし、当時の信長はまだ「天下人」としての地位を確立する過渡期。
安土時代のように大規模な相撲大会を主催する余裕はなく、当時はあくまで武士のたしなみや、寺社の奉納行事としての性格が強かった。
ゆえにドラマの中で二人が相撲を取ったというのも、あくまで演出であろう。
「二人が相撲を取ったことはない!」とは証明できないことだが、逆に「相撲を取った」という記録も見当たらない。
1,500人も参加した安土の相撲大会
天正六年(1578年)6月15日、信長は近江国内から相撲を取る者およそ1,500人を集め、安土で大規模な相撲大会を開催した。

安土城図/wikipediaより引用
このときばかりは、あまりの熱狂ぶりに信長も大興奮。
取組が終わった後も信長自身が冷めやらぬ様子で、優れた取組を見せた者にその場で褒美を与えたことが記録されている。
さらに同年8月15日には規模を拡大して周辺諸国からも力士を呼び寄せ、『信長公記』によると「相撲奉行」という役職まで設置し、厳格なルールの下で取組を管理させていた。
もはや単なる余興ではなく、組織的な催しだったと言える。
研究者の谷口克広氏は『信長の政略』で、相撲の勝者や優秀者に与えられた恩賞が金銭に限らず、知行・衣装・軍扇など名誉性の高いものに及んだ点に注目している。
相撲の勝者を武将と同等に遇するという、信長らしい実力主義の表れでもあった。
100石で召し抱えられた布施五介
『信長公記』では天正七年(1579年)7月6日と7日、8月6日、天正八年(1580年)5月5日にも相撲大会が開かれたことに言及。
さらに天正八年(1580年)5月17日には再び近江中の力士を集めて大規模な会が開かれた。
このとき織田信長は布施五介という者を100石で召し抱えている。

織田信長/wikimedia commons
五介は、最後まで勝ち抜いた者ではなかったようだが、おそらく勝者だけが出仕できるというシステムではなく、配下の武将たちも気に入った者を雇ったのかもしれない。
布施五介以外にも、青地与右衛門や永田刑部といった名が見える。
彼らはもともと身分の高い者たちではなかったが、相撲の取組において信長の目にとまり、直臣として取り立てられた。中には、のちの戦いで武功を挙げ、歴史に名を残すことになった者も含まれている。
同年6月24日には再び近江中の力士が集められた。
人数の記録はないが、ほぼ一日中取り組みが行われたとあるため、前回に匹敵する人数が集まったと思われる。
『信長公記』上で最後の相撲は天正九年(1581年)4月21日であり、このときの規模は明確でない。
安土で開催した真の狙いは?
『信長公記』上で確認できるだけでも、信長は少なくとも20回以上の相撲大会を開催、あるいは観戦している。
天正九年(1581年)「京都御馬揃え」の後にも、二条御新造で公家たちを招いて披露した。
日本の相撲の歴史は1500年以上。
自身の武威を示すだけではなく、伝統文化を洗練させて京都の知識層や朝廷に見せることで、「天下の主」としての正当性をアピールする意図だったのではなかろうか。
研究者の和田裕弘氏は『信長公記―戦国覇者の一級史料―』の中で、信長が好んだ相撲が、後の大相撲へつながる流れの一つになったとも指摘している。
なお、こうした相撲大会の趣旨が人材登用であることに疑いはないが、その大半が安土で開催されていたことにも意義があるかもしれない。
安土城が完成したのは天正七年(1579年)5月のこと。

安土城・天主跡
着工は天正四年(1576年)1月であり、同年2月には信長が安土の地へ移り住み、相撲大会が頻繁に行われるようになったのが天正六年である。
この流れから推測するに、信長は安土城と城下町を広く喧伝するため、相撲大会を開いたのではなかろうか。
人が集まれば、物も金も動く。
力士を目当てにした見物人や商人が数多くやって来れば、必然的に織田家の国力も上がるという寸法である。
織田信長クラスになると、相撲大会は国家運営規模での趣味だった可能性が高い。
なお、信長の生涯については別記事「信長が家督を継いで天下人となり本能寺の変で討たれるまで」をご覧ください。
参考文献
金子拓『織田信長 不器用すぎた天下人』(2017年3月 河出書房新社)
谷口克広『信長の政略』(2013年9月 中央公論新社)
和田裕弘『信長公記―戦国覇者の一級史料―』(2018年9月 中央公論新社)
太田牛一著・中川太古訳『現代語訳 信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
堀新編『信長徹底解読:ここまでわかった本当の姿』(2014年10月 毎日新聞出版)
岡田正人編『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣)
日本史史料研究会監修・渡邊大門編『信長軍の合戦史』(2016年8月 吉川弘文館)
