寛永七年(1630年)4月30日は織田信雄(のぶかつ)の命日です。
名前からお察しのとおり織田信長の息子。
数多いる信長の息子の中でも割と有名なほうですが、しかし、それを素直に喜んでもよいものかどうか。
というのもこの信雄、親の信長とは異なり、フィクションなどでは“愚将”として扱われるケースが多いのです。
しかしその一方、彼の血筋が現代にまで伝わっており、つまりは織田信長の血脈も伝えるという意外なファインプレーも称賛されるところ。
アホだけど血は伝えた――果たしてそんな評価は正しいのか?
織田信雄の生涯を振り返ってみましょう。

織田信雄/wikipediaより引用
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織田信雄の幼名が茶筅丸なのは?
織田家には、兄・信長への謀反を企み、謀殺された弟がいます。
織田信勝です。
こちらも同じ「おだのぶかつ」なので混同される方もおりますが、実は「信雄」の読み方が「のぶお」なのか「のぶかつ」なのか、あるいは信長の次男なのか三男なのか、割と大事なことはハッキリしていません。
逆に幼名がはっきり伝わっているのが不気味なほどです。
信長は子供の名前に妙なセンスを発揮する人でした。
長男の織田信忠は「顔が奇妙だから」奇妙丸。
三男の信孝は「三月七日生まれだから」三七丸。
そして次男とされる信雄が茶筅丸。
「髪の毛を結ったら茶筅(ちゃせん・お茶を点てる道具)みたいになりそうだから」という身も蓋もない命名をされています。
誰も止めなかった……んではなく、止められなかったんですかね?
他にも「母親が”鍋”だから」というわけのわからん理由で「酌」と名付けられた人もいます。昨今話題のキラキラネームとはまたちょっと違う、ぶっ飛んだセンスです。

織田信長/wikipediaより引用
一方、女の子には比較的普通の名付けをしているので、余計に信長のセンスがわかりません。
「男は元服すりゃ名前変えるんだから、幼名なんざテキトーでいいんだよテキトーで」だったのか。
「バッカ、お前、女の子は嫁ぐんだからまともな名前にしなきゃマズイだろ!」だったのか。
天才のアタマの中は、凡人には測れないですね。
名門北畠の養子になったはいいが
さて、戦国時代もしくは織田家がお好きな方には「ああ、あのアホね」の一言で片付けられてしまう織田信雄。
三谷幸喜さんの映画『清須会議』でも妻夫木聡さんが、なかなか馬鹿っぽく演じられてましたね。
史実においては、最初のうちは比較的まともでした。
彼は、織田家による【伊勢方面攻略】の一環として、同地の大名である北畠家の婿養子に入り、実質的には乗っ取ります。
その後、武田信玄に寝返ろうとしていた家臣を粛清。
そこまではよかったのですが、その後、信雄のバカ殿伝説が始まってしまうのです。
まず天正七年(1579年)、信長に”無断で”伊賀(現・三重県西部)に攻め入り、
ものの見事に返り討ちに遭いました。
信長に「何やってんだド阿呆! 親子の縁切るぞ!!」と、書状でこってり絞られるほど。
基本的に身内や家臣に甘い信長がいきなり縁切りを言い出しているのですから、その怒りの程が窺えるというものです。
まぁ、仕方ありません。このとき、信雄が養子入りするときにつけた柘植保重という重臣が討死しており、そりゃあ信長もキレる大失態でした。
信長がピリピリしていた時期
ついでにいうと、この時期の信長は結構ピリピリしていたと思われます。
中国の毛利氏攻略の途上で、別所長治や荒木村重などが謀反を起こし、苛烈ともいえる処理をして間もない頃です。
天正七年の後半には、いわゆる”松平信康自刃事件”も起きています。
この件について、信長がどの程度関与していたのかは現代でも不明ですが……最近は浜松の徳川家康派と岡崎の松平信康派に分かれ、徳川家分裂の危機だった、という見方が優勢なようですね。
当然、信長のもとにも家康や娘・徳姫(信康の正室)の周辺から、なんらかの情報は入っていたでしょう。

松平信康/wikipediaより引用
そんなタイミングで息子の織田信雄が必要性の薄い戦を勝手にやり、あろうことか敗北の上に大事な家臣を討ち死にさせたのですから、ブチ切れるのも当たり前のことです。
若い頃から必死に親族や家臣の取りまとめをしてきた信長からすれば、
「俺の息子ともあろうものが、家臣の重要性すらわからんとは言語道断!!」
となるでしょう。
もっと気の短い人なら、信雄から全ての権限を取り上げて、別の息子なり弟なりに伊勢を与えていたかもしれません。
信雄が伊勢国司の家柄を(乗っ取ったとはいえ)継いでいたために、そういう手荒な手段が取れなかった……とも考えられますが。
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