大河ドラマ『豊臣兄弟』で足利義昭が思わぬ人気を博しております。
尾上右近さんの歌舞伎役者らしい堂々たる発声や所作が魅力的だからでしょう。
一般的に足利義昭といえば、織田信長に担ぎ上げられながら、身の丈に合わない欲を出して京都から追い出される、悲劇で滑稽な将軍として描かれがちです。
しかし、実際はそれほど単純ではありません。
なぜ足利義昭は、最大の味方であったはずの武田信玄が西上作戦を取りやめ、自身が圧倒的な不利に陥っても信長と戦い続けたのか。

足利義昭坐像(等持院霊光殿安置)/wikimedia commons
その経緯を振り返ってみましょう。
かつては信長を「父」と呼んでいた
永禄十一年(1568年)10月、織田信長は大軍を率いて足利義昭を奉じ、上洛を成功させました。
この時点での二人は、まさに互いを必要とする間柄。
義昭は信長のことを「御父(おんちち)弾正忠殿」と呼ぶほどの喜びようで、信長もまた義昭の権威を利用して畿内平定を進めます。

織田信長/wikimedia commons
しかし、すぐにその関係はギクシャクし始めました。
足利将軍家の復興を願う義昭と、将軍をカードのように扱う信長では当初から価値観の相違が激しく、信長は将軍の政治行動を縛るための法度を次々と突きつけたのです。
◆永禄十二年(1569年)1月「殿中御掟」九ヶ条→将軍の独断による奉公衆の任免を制限
◆永禄十三年(1570年)1月23日「五ヶ条の条書」→将軍が諸国へ出す御内書(手紙)に信長の副状(添え状)を必須とする
将軍にもかかわらず外交権を事実上封じられてしまった義昭。
研究者の藤井讓治氏はその著書『天皇と天下人』において、信長の要求は義昭の私的な政治空間を解体し、信長主導の統治に組み込むためのステップであったと指摘しています。
信長の傀儡であることが明白であり、どうしたって義昭に屈辱を感じさせることにもなりました。
第二次信長包囲網 義昭の暗躍
織田信長が浅井長政、朝倉義景、石山本願寺といった勢力と戦い始めた元亀元年(1570年)以降、足利義昭は水面下で独自の外交を展開し始めます。
俗に「第二次信長包囲網」と呼ばれるものですね。
義昭は、畿内で釘付けにされていた織田軍の隙を突くようにして、甲斐の武田信玄に対して何度も強く出陣を要請しました。
当初は慎重な様子だった信玄も、駿河侵攻以来、徳川との関係は最悪の状態であり、ついに義昭の誘いに応じる姿勢を見せ始めます。

絵・富永商太
それに反応して、自然と動きが活発化してしまう義昭。
その機先を制するかのように、信長は元亀三年(1572年)9月、義昭に対して有名な「異見十七ヶ条」という糾弾状を提出しました。
不公平な恩賞や朝廷への不敬、さらには「幕府の重臣を冷遇し、身近な側近ばかりを重用する」といった義昭の悪行を具体的に挙げ、辛辣な批判を並べたのです。
もはや「諫言(かんげん)」の域は超え、将軍として失格だ!と公言するような内容でした。
しかしそんな折、信長を奈落の底へ突き落としかねない事態が訪れます。
元亀三年(1572年)10月3日、ついに武田信玄が西上作戦を開始したのです。
三方ヶ原の勝利が義昭を突き動かす
遠江、三河、美濃の三方面へ向け、甲斐を出陣した武田軍は、徳川家康と直接対陣するまで瞬く間に徳川方の拠点を攻略。
次々に城を落としてついに浜松城までやってくると、元亀三年(1572年)12月22日、三方ヶ原の戦いで両軍は激しくぶつかり合いました。
結果は、徳川・織田連合軍の敗北。

“しかみ像”としてお馴染み『徳川家康三方ヶ原戦役画像』/wikipediaより引用
しかも武田軍に木っ端微塵にやられる大敗であり、その一報が京都へ届くと、義昭の決意は固まったともされます。
「織田信長では、武田信玄に勝てない!」
そんな風に確信したというもので、義昭は元亀四年(1573年)2月、信長に対して公然と挙兵に踏み切りました。
当の信長は、このときどうしたか?
というと、最初は驚くほど慎重で、融和的な態度を見せました。
人質を出して和睦を請うなど、将軍との全面対決を避けようと試みたのです。
しかし、これを一蹴したのは義昭でした。「春には信玄が京都に到達する!」という期待があったのでしょう。
信長は「これは将軍の本意ではなく、近臣の謀略に違いない」という大義名分を掲げつつ、威圧のために元亀四年(1573年)4月4日、上京の町を焼き払いました。
いわゆる「上京焼き討ち」です。
信長はさらに正親町天皇の勅命を仰ぐことで、4月7日に一度は和睦を成立させました。
そのわずか5日後のことです。
信玄の死を知って なぜ戦ったのか
元亀四年(1573年)4月12日、武田信玄が信濃駒場で病没しました。
西上作戦を取りやめた武田軍は甲斐へと撤退。
反信長勢力の精神的支柱であり、軍事的な主軸であった信玄の死は、本来であれば義昭にとって絶望を意味するはず。
しかし、驚くべきことに義昭は同年7月3日、再び挙兵し、宇治の槙島城に立て籠もるのです。

足利義昭/wikimedia commons
一体なぜなのか?
信玄の病没で勝機が薄れた今、表立って信長に逆らっても負けるのは必然でしょう。
考えられる理由の一つは“情報の遮断”です。
武田家が信玄の死を「三年の秘喪」として隠蔽したため、義昭のもとには「信玄は病気だが健在」とか「一時的な後退に過ぎない」という誤報が届けられた可能性は否定できません。
しかし、より本質的な理由は、義昭の「将軍としての自負」にあったとも指摘されます。
研究者の天野忠幸氏は著書『三好一族と織田信長』の中で、こうまとめています。
義昭にとって信長はあくまで「将軍に仕える一武将」であり、その武将が将軍を法度で縛り、政治から排除しようとすること自体が、中世の論理では許しがたい「逆意」であった。
義昭にとって、信長との戦いは単なる権力争いではなく、足利将軍家という「伝統的正義」を守るための避けられない戦いだったというわけですね。
もちろん勝算もなかったわけではありません。
義昭の背後には石山本願寺や西国の雄・毛利、あるいは阿波三好家といった勢力が控えていました。
織田家と離れても諸勢力を集めれば信長を打倒できる!という計算があったのかもしれません。
室町幕府の終焉と「天正」への改元
しかし、織田信長の行動はとにかく冷徹かつ迅速でした。
元亀四年(1573年)7月、信長は大軍で槙島城を完全包囲。

槙島城跡近辺の公園内にある槙島城記念碑/wikipediaより引用
猛攻を受けた義昭は、わずか2週間後の7月18日に降伏へと追い込まれてしまいます。
信長は義昭の命を奪うことはせず、2歳の幼児(義尋)を人質として受け取った上で、京都から追放しました。
義昭は、妹婿の三好義継を頼って河内国の若江城へ。
将軍が不在となった京都において、信長は名実ともに最高権力者としての地位を確立します。
そして同年7月28日、信長の奏請により、元号が「元亀」から「天正」へと改められました。
金子拓氏は『織田信長 不器用すぎた天下人』において、この改元こそが「中世(室町幕府)との訣別」であり、信長が新たな時代の統治者として自立した瞬間であったと強調しています。
追放後の義昭「鞆幕府」の執念
京都を追われたことで、一般的に室町幕府は滅亡したとされます。
しかし、義昭自身はその後も「征夷大将軍」の官職を保持したまま、各地を流浪しました。
天正四年(1576年)2月、足利義昭は毛利氏を頼り、備後国の鞆(広島県福山市)へ拠点を移動。
将軍としての職権を行使し続け、全国の諸大名に「信長討伐」の御内書を出し続けました。
「鞆(とも)幕府」とも呼ばれます。
上杉謙信が信長と断交して北陸へ進撃したのも、石山本願寺が最後まで抗戦を続けたのも、その中心には常に義昭が発し続けた「将軍の権威」がありました。
その権威が、全国の諸将に対してどこまで有効だったのか。
今となってはそれを知る術はありませんが、義昭は、意地でも信長だけは許せなかったのでしょう。
天正十年(1582年)6月、「本能寺の変」で織田信長が世を去り、その後、豊臣秀吉の時代になると、足利義昭はようやく将軍職を辞し、京都への帰還を果たします。
義昭は自らの信念を曲げることはなく、死ぬまで「足利将軍」としての矜持だけは保ち続けたのです。
なお、義昭追放に大きく関わった武田信玄の行動については別記事「武田信玄の最期」や「信玄が家康を攻撃した理由」をご覧ください。
参考文献
藤井讓治『天皇と天下人』(2011年5月 吉川弘文館)
池上裕子『織田信長』(2012年12月 吉川弘文館)
天野忠幸『三好一族と織田信長 「天下」をめぐる覇権戦争』(2016年2月 戎光祥出版)
金子拓『織田信長 不器用すぎた天下人』(2017年3月 河出書房新社)
岡田正人 編『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣)
柴裕之『戦国武将列伝 別巻1 織田編』(2025年8月 戎光祥出版)
太田牛一 著/中川太古 訳『現代語訳 信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
【TOP画像】足利義昭坐像(等持院霊光殿安置)/wikimedia commons
