土曜日の再放送に合わせて、大河ドラマ『豊臣兄弟』をマンガで振り返る――。
第17話は物議を醸した「武田信玄の最期」と「浅井長政の最期」に注目でしょう。
「餅を喉詰まらせて亡くなる御屋形様」と「一人で介錯しようと苦しんでいた長政の首を突如現れたお市の方が刀を振り下ろす」という展開。
さっそく本編へ参りましょう!
神出鬼没

◆「第二次信長包囲網」とは浅井、朝倉、本願寺、足利義昭らと共に武田信玄が信長を囲んだ包囲網のこと。
そのために三淵藤英が一人でやってくるならまだしも、足利義昭までもが従者として京都から甲斐へやってきたのですから大変なものです。
途中の近江・美濃・尾張・伊勢は織田の勢力圏で、三河・遠江は徳川の勢力圏。
一体どう移動したのか……。
三方ヶ原

◆徳川家の登場人物が、家康と重臣・石川数正に限られているため、最強武将・本多忠勝の出番が削られている本作。
後に徳川を出奔して豊臣秀吉に臣従する数正が目立つのも仕方ないんですけどね。寂しさはありますよね。
毒味役

◆個人的には「そんなにわかりやすく口元にご飯粒つけて御屋形様の前に出るのか?」ということが気になってしまい……。
死因

◆今回、物議を醸したシーンの一つ。
武田信玄の「餅詰まり死」を皆さんはいかがお考えでしょう?
「ドラマはフィクションだからアリ」とはよく言われます。
しかし、何でもかんでもアリなはずもなく、「当時でも実際にあり得た状況をフィクションで盛り込む」のであれば誰もが納得しているはず。
果たして、信玄が一人で餅を食べて喉を詰まらせ、山県昌景が気づいたときには死んでいた――という状況は当時あり得たのか?
悲報

◆史実では、元亀三年(1572年)12月に勃発した三方ヶ原の戦い後、足利義昭は二条御所で蜂起します。
しかしその後、武田軍の動きが停滞。
元亀四年(1573年)4月に織田信長が上洛すると、義昭もいったんは和睦を結んで矛を収めるしかありません。
実は同月に信玄は病没しており、武田軍も甲斐へ帰国しました。
不思議なのはここからです。
信玄の死が秘匿とされたため把握できなかったのか、元亀四年(1573年)7月、義昭が再び蜂起するのです。
二条御所を側近に任せ、自らは槇島城へ籠もる。
程なくして織田軍に敗れ(槇島城の戦い)、京都から追放されるのでした。
許して朝倉

◆史実では、朝倉景鏡によって自害へ追い込まれたとされる朝倉義景。
本作では、立ち上がったところを背後から景鏡に首を落とされるという衝撃的な死でした。
兜を被ったままの義景の首をどう斬ったのか。
信玄の「餅詰まり死」がインパクト強すぎたせいで目立たなくなってしまった、地味に不思議な死がここにもありました……。
切腹

◆そもそも浅井長政はなぜ介錯させる家臣もおかず、一人で切腹に及んだのか。
お市の方がとどめを刺すのであれば、最初から彼女がその役割を担っていればと思いましたが……劇的に現れるシーンとしたかったのですかね。
なお、一人の切腹がどれだけ大変か?というのは、以下に関連記事がございます。
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切腹のルールと恐ろしい現実|もしも一人で実行したら地獄の苦しみが待っている
続きを見る
介錯

◆刀を構え、振り下ろす姿勢がおぼつかない様子だったお市。
「危なっかしくて見てられない><;」と思いましたが、一番の恐怖だったのは長政本人だったでしょう。
というわけで、武田信玄の西上作戦から始まった今回の『豊臣兄弟』。
そもそも信玄はなぜ徳川領へ攻め込んだのか、という疑問はありませんか?
実は織田信長を挟んで三角関係にあり、非常に複雑だった「武田―織田―徳川」の情勢。
よろしければ別記事「信玄が家康を攻めた理由」をご参照ください。

絵・富永商太
では、また来週!
◆『豊臣兄弟』総合ガイド|秀吉と秀長の生涯・家臣団・政権運営等の解説
参考文献
太田牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
岡田正人『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣)
文:五十嵐利休
【参考】
豊臣兄弟/公式サイト


