織田信長の天下統一ストーリーは抜群に面白い。
何度も大ピンチに陥っては、その都度、死地から脱出し、ドラマ以上に驚きの展開で次のステージへと進んでいく――。
その際、主役の織田家を成長させる、最もちょうどいい“やられ役”が朝倉義景かもしれません。
大河ドラマ『麒麟がくる』ではユースケ・サンタマリアさんが演じられましたように、マンガや映像作品などの朝倉義景像をピックアップしてみると……。
・顔が意地悪そう
・名門を鼻にかけている
・弱国ではない、されど強くもない
・なんでも部下にやらせようとする
・とにかく、なんだかムカつく
とまぁ『こいつ倒したい!』要素がてんこ盛り。
しかも、その登場が信長の京都デビュー直後という奇跡のようなタイミングなのですから、まるで信長出世物語のために生まれてきたような御方です。
天文二年(1533年)9月24日はその誕生日。
本稿では、信長から見た朝倉義景ではなく、義景から見た義景――普段は脇役の彼に注目して、その生涯を追ってみたいと思います。
意外な義景像が浮かび上がってくるかもしれませんよ。
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父は名将・孝景
朝倉義景は天文二年(1533年)、朝倉氏十代当主・朝倉孝景の息子として生まれました。
母は広徳院(光徳院)という女性で、若狭武田氏の出身とされています。
戦国大名・武将によくあることで、幼少期の逸話はほとんど不明。
足跡がわかるのは天文十七年(1548年)、父・孝景の死去により家督を相続した頃からです。
当時15歳のため、従曾祖父の朝倉宗滴(教景)に政務・軍事を補佐され、しばらくはこの有能すぎる家老に支えられます。
※以下は朝倉宗滴の生涯まとめ記事となります
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当初は「延景」と名乗っていましたが、天文二十一年(1552年)に室町幕府十三代将軍・足利義輝から左衛門督と「義」の字を賜わって、「義景」に名を改めました。
この
”足利将軍家の通字である「義」”
及び
”一等官である左衛門督を与えられた”
というのは、歴代朝倉家の当主では異例のことです。
越前には多くの公家が避難
異例の通字を与えられたのは、以下のような理由があったからと考えられています。
なぜ「義」の字が与えられた?
御供衆や相伴衆というのは、将軍がどこかへ出かけるときにお供をしていく人のことです。
管領家や足利氏の血縁者など、将軍に近い人物が任命されることがほとんどでした。
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では、どうして孝景がその座につけたのか?
というと、近畿での戦乱から逃れようと、多くの公家が越前へ避難してきていたからです。
孝景の時代の越前は(戦国時代としては)比較的平穏、かつ京都からも行きやすかったことが主な理由でした。
孝景は膝下に逃げ込んできた公家たちを介して、幕府だけでなく朝廷とのパイプを持ち、社会的地位を高めることに成功。
これが次代の孝景にも引き継がれた結果が、「義」の字と左衛門督というわけです。
また、若い頃の義景は、朝倉宗滴という名臣に恵まれたことも非常に大きな幸運でした。
宗滴は、先述の通り朝倉氏の親族で、軍事にも政治にも非常に高い能力を発揮した人物です。
義景が当主になった後、宗滴存命中の越前は、他国の人間や公家からも非常に評判が高く、羨ましがられるような国でした。
しかし、宗滴に頼ったことが仇になってしまいます。
弘治元年(1555年)に宗滴が亡くなったのです。
親族衆の頼りは従兄弟の景鏡
義景が自ら政務を執るようになると、少しずつ歯車が狂い始めました。
宗滴が政治・軍事・外交など、重要な仕事をほぼ全てになっていたがために、それらを引き継げる人材がおらず、小さな問題が後を引くようになるのです。
また、義景にきょうだいがいなかったことも、立場が弱まる原因になりました。
姉妹がいれば政略結婚に利用できますし、兄弟も心強い戦力になりえます。まぁ、兄や弟の場合は、家督争いや家中分裂の可能性も出てきますが……。
いとこの朝倉景鏡(かげあきら)など、少し血縁の離れた親族はいたものの、やはり兄弟姉妹の存在は大きい。
更に悪いことに、息子にも恵まれませんでした。
最初の正室・細川氏は女子を産んだものの、産後の肥立ちが悪かったようで間もなく死去。二人めの正室として迎えた近衛稙家の娘は、美女だったものの子供ができず、実家に帰されています。
その後は朝倉氏の重臣・鞍谷副知の娘とされる小宰相を寵愛しました。
彼女は永禄四年(1561年)に義景にとって初めての息子・阿君丸(くまぎみまる)を産みましたが、本人は間もなく病死。
阿君丸も永禄十一年(1568年)に幼くして亡くなり、義景はすっかり気落ちしてしまいます。
すると義景は、二人目の側室とあんる斎藤兵部少輔の娘・小少将に溺れ、いわゆる酒池肉林に耽っていたともされています。
彼女との間には、元亀元年(1570年)に愛王丸という息子が生まれましたが……彼については後述しましょう。
義景の不運
◆子やきょうだいに恵まれなかった
永禄六年(1563年)以降は、若狭守護・武田義統が統率力を失っていたため、義景が軍事的に介入し、若狭での影響力を強めていきます。
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また、永禄七年(1564年)には加賀を攻めていますが、領土的に大きな成功は治めていません。
義景、そして朝倉氏の運命が大きく変わることになるのは、永禄八年(1565年)からです。
【永禄の変】が起きたのです。
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