朝倉義景

朝倉義景/wikipediaより引用

浅井・朝倉家

朝倉義景の生涯|信長を二度も包囲しながら逆に追い詰められた

2024/09/23

織田信長の天下統一ストーリーは抜群に面白い。

何度も大ピンチに陥っては、その都度、死地から脱出し、ドラマ以上に驚きの展開で次のステージへと進んでいく――。

その際、主役の織田家を成長させる、最もちょうどいい“やられ役”が朝倉義景かもしれません。

大河ドラマ『麒麟がくる』ではユースケ・サンタマリアさんが演じられましたように、マンガや映像作品などの朝倉義景像をピックアップしてみると……。

・顔が意地悪そう

・名門を鼻にかけている

・弱国ではない、されど強くもない

・なんでも部下にやらせようとする

・とにかく、なんだかムカつく

とまぁ『こいつ倒したい!』要素がてんこ盛り。

しかも、その登場が信長の京都デビュー直後という奇跡のようなタイミングなのですから、まるで信長出世物語のために生まれてきたような御方です。

天文二年(1533年)9月24日はその誕生日。

朝倉義景/wikipediaより引用

本稿では、信長から見た朝倉義景ではなく、義景から見た朝倉義景――普段は脇役の彼に注目して、その生涯を追ってみたいと思います。

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父は名将・孝景

朝倉義景は天文二年(1533年)、朝倉氏十代当主・朝倉孝景の息子として生まれました。

母は広徳院(光徳院)という女性で、若狭武田氏の出身とされています。

戦国大名・武将によくあることで、幼少期の逸話はほとんど不明。

足跡がわかるのは天文十七年(1548年)、父・孝景の死去により家督を相続した頃からです。

当時15歳のため、従曾祖父の朝倉宗滴(教景)に政務・軍事を補佐され、しばらくはこの有能すぎる家老に支えられます。

※以下は朝倉宗滴の生涯まとめ記事となります

朝倉宗滴
戦国越前の最強武将・朝倉宗滴が存在感ありすぎて後の義景滅亡に繋がった?

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当初は「延景」と名乗っていましたが、天文二十一年(1552年)に室町幕府十三代将軍・足利義輝から左衛門督と「義」の字を賜わって、「義景」に名を改めました。

この

”足利将軍家の通字である「義」”

及び

”一等官である左衛門督を与えられた”

というのは、歴代朝倉家の当主では異例のことです。

 


越前には多くの公家が避難

異例の通字を与えられたのは、以下のような理由があったからと考えられています。

なぜ「義」の字が与えられた?

◆孝景が室町幕府の御供衆、相伴衆に列していた

◆義景の正室に、管領・細川晴元の娘を迎えた

◆幕府側にとっても朝倉家の力が必要だった

御供衆や相伴衆というのは、将軍がどこかへ出かけるときにお供をしていく人のことです。

管領家や足利氏の血縁者など、将軍に近い人物が任命されることがほとんどでした。

では、どうして孝景がその座につけたのか?

というと、近畿での戦乱から逃れようと、多くの公家が越前へ避難してきていたからです。

孝景の時代の越前は(戦国時代としては)比較的平穏、かつ京都からも行きやすかったことが主な理由でした。

孝景は膝下に逃げ込んできた公家たちを介して、幕府だけでなく朝廷とのパイプを持ち、社会的地位を高めることに成功。

これが次代の孝景にも引き継がれた結果が、「義」の字と左衛門督というわけです。

また、若い頃の義景は、朝倉宗滴という名臣に恵まれたことも非常に大きな幸運でした。

宗滴は、先述の通り朝倉氏の親族で、軍事にも政治にも非常に高い能力を発揮した人物です。

義景が当主になった後、宗滴存命中の越前は、他国の人間や公家からも非常に評判が高く、羨ましがられるような国でした。

しかし、宗滴に頼ったことが仇になってしまいます。

弘治元年(1555年)に宗滴が亡くなったのです。

 

親族衆の頼りは従兄弟の景鏡

義景が自ら政務を執るようになると、少しずつ歯車が狂い始めました。

宗滴が政治・軍事・外交など、重要な仕事をほぼ全てになっていたがために、それらを引き継げる人材がおらず、小さな問題が後を引くようになるのです。

また、義景にきょうだいがいなかったことも、立場が弱まる原因になりました。

姉妹がいれば政略結婚に利用できますし、兄弟も心強い戦力になりえます。まぁ、兄や弟の場合は、家督争いや家中分裂の可能性も出てきますが……。

いとこの朝倉景鏡(かげあきら)など、少し血縁の離れた親族はいたものの、やはり兄弟姉妹の存在は大きい。

更に悪いことに、息子にも恵まれませんでした。

最初の正室・細川氏は女子を産んだものの、産後の肥立ちが悪かったようで間もなく死去。二人めの正室として迎えた近衛稙家の娘は、美女だったものの子供ができず、実家に帰されています。

その後は朝倉氏の重臣・鞍谷副知の娘とされる小宰相を寵愛しました。

彼女は永禄四年(1561年)に義景にとって初めての息子・阿君丸(くまぎみまる)を産みましたが、本人は間もなく病死。

阿君丸も永禄十一年(1568年)に幼くして亡くなり、義景はすっかり気落ちしてしまいます。

すると義景は、二人目の側室とあんる斎藤兵部少輔の娘・小少将に溺れ、いわゆる酒池肉林に耽っていたともされています。

彼女との間には、元亀元年(1570年)に愛王丸という息子が生まれましたが……彼については後述しましょう。

義景の不運

◆子やきょうだいに恵まれなかった

永禄六年(1563年)以降は、若狭守護・武田義統が統率力を失っていたため、義景が軍事的に介入し、若狭での影響力を強めていきます。

また、永禄七年(1564年)には加賀を攻めていますが、領土的に大きな成功は治めていません。

義景、そして朝倉氏の運命が大きく変わることになるのは、永禄八年(1565年)からです。

【永禄の変】が起きたのです。

 

義昭の救出から関わっていた?

将軍・足利義輝が暗殺されたこの事件。義景は武田義統からの書状で知りました。

事件が起きたのが5月19日、書状が5月20日ですので、かなり早い段階です。

義輝の叔父にあたる大覚寺義俊が上杉謙信に充てた書状では、

「義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)が奈良を脱出して近江国に移ることになったのは、朝倉義景の干渉による」

とされています。

これが事実ならば、義景はおそらく事件を知らされてすぐに、将軍方の家臣と連絡をとったのでしょう。

足利義昭を救出した和田惟政、細川藤孝あるいは三淵藤英らのうち、少なくとも一人と繋がっていたと見て良さそうです。

義昭は近江で還俗し、当初は六角氏の助力を受けて上洛しようとしていました。

 


義昭の越前入りが運命を大きく変える

しかし、翌永禄九年(1566年)になると、六角氏は永禄の変で義輝を殺した三好三人衆、及びそれを黙認していたと思われる松永久秀と結び、義昭の立場や生命が危うくなります。

義昭は、次に若狭武田氏を頼りましたが、先述の通りここは既に家中すらまとめきれていない状態。そこで、比較的近隣で落ち着いている越前と朝倉氏を頼ることになったのです。

義景は、いとこの朝倉景鏡を使者として遣わし、義昭を歓迎しました。

当初、義景と義昭は互いに協力し、うまくやっていこうとしていた形跡があります。

例えば永禄十年(1567年)に朝倉氏の家臣の一人・堀江景忠が加賀一向一揆方につき、謀反を起こしたときのこと。

この謀反自体はすぐに収まりがついたものの、加賀一向一揆そのものは100年自治をしてきたような強固な団体です。元々、先代・朝倉孝景からの因縁もありました。

これに対し、義昭が仲介に入ることで、無事に和解が成立しています。義景の娘と、本願寺顕如の長男・本願寺教如の婚約もその一環で結ばれました。

自分の立場と力を証明することができた義昭は、次に元服をして正式に将軍候補になろうとします。

義昭は既に30代に入っていましたが、長く仏門に入っていたこと、永禄の変以降の立場の不安定さなどから、これまで元服していませんでした。

義景の元に身を寄せることによって、ようやく世間的な大人の仲間入りをすることができたのです。

永禄十一年(1568年)4月、関白・二条晴良を下向させて元服式をしています。

義景は同時期に、管領代の地位を与えられました。義昭が発する御内書に義景が副状をつけたこともあり、当時の義景と義昭の関係はおおむね良好だったことがうかがえます。

 

上洛に積極的になれない理由が二つ

こうなると、義昭としては上洛戦に期待したいところ。義景だけでなく、朝倉氏の一族とも交流し、上洛を促すようになります。

しかし、朝倉氏としては上洛に積極的になれない理由が二つありました。

一つは

「そもそも上洛戦は現実的なものか?」

という疑問です。

義昭は十三代将軍・足利義輝の弟であり、十二代将軍・足利義晴の息子ですから、将軍位を継ぐ正当な理由はあります。

しかし、当時の京都・近畿周辺は三好三人衆と松永久秀らによって占拠されているような状態。上洛戦をするならば、当然彼らとの衝突は避けられません。

本拠が雪深い越前であるが故に、朝倉氏が長期遠征を行うことができる時期は限られています。

もしも上洛戦の最中に冬を迎えてしまえば、国に戻れず右往左往する中、背後の三好・松永軍から手痛い攻撃を受けるかもしれません。

もう一つは、このタイミングで

愛息・阿君丸(くまぎみまる)を亡くしていた

ことです。

永禄十一年(1568年)6月のことで、義昭の元服からさほど日が経っていない頃のことでした。

一般的に、阿君丸の死をきっかけに、義景は政務や軍事への意欲を失っていったといわれています。亡くなって間もなくならば、なおさらのことだったでしょう。

とはいえ、義昭としてもあまり悠長にはしていられません。

永禄十一年(1568年)2月には、三好方が担ぎ上げた足利義栄(よしひで)が十四代将軍として将軍宣下を受けていたからです。

義栄は義昭のいとこですので、血筋としては足利家の直系から遠くなるのですが……やはり、実力者の後ろ盾があると話が進みやすいですね。

ここで明智光秀が織田信長を頼るよう進言したといわれています。

光秀の前半生については謎も多いのですが、この点から「朝倉家臣を経て織田家に仕えた」という説が根強いですね。

 


浅井と共に織田軍挟撃を試みるも

義昭は、光秀の助言を受けて岐阜に移り、織田信長は妹の嫁ぎ先でもあった浅井長政などの協力も受けて、永禄十一年(1568年)9月に上洛戦を敢行。

庇護者を変えただけで、義昭の望みはあっさり叶ってしまったのでした。

おそらく、このことは義景の自尊心をいたく傷つけたと思われます。

信長は上洛後、諸大名や武将を上洛させるため、義昭の名で文書を出しているのですが、義景はこれを無視。【朝倉氏vs織田氏】という争いへ発展していきます。

話が前後しますが、義昭が織田家へ到着した頃、義景は「若狭武田氏の内紛を収めるため」として、若狭の諸城を攻めていました。

若年の当主・武田元明を「保護」という名目で一乗谷に連れ去り、若狭と武田氏を事実上乗っ取っています。

しかし、当然ながら武田家臣の中には、義景の支配を拒む者もいました。

粟屋勝久もその一人。

勝久は元亀元年(1570年)、信長が徳川家康と共に越前へ攻め込んできたとき、織田方に協力しています。

信長は、朝倉方の天筒山城、金ヶ崎城を攻め落とすなど、破竹の勢いで進撃しました。

しかし、そこから朝倉の本拠地・一乗谷まで一気に攻め落とすのは、途中、山間部を越えていかねばならず、信長がどのような戦略を考えていたかはわかりません。

なぜなら浅井家が突如として織田家を裏切り、攻撃どころではなくなってしまったからです。

※左下の赤い拠点が天筒山城と金ヶ崎城で、右上が一乗谷城

浅井長政は織田軍の背後を衝こうとして、軍を北上させました。

一方、その報を聞いた信長は一瞬、躊躇するものの、撤退を即断。今日では「金ヶ崎の退き口」とか「金ヶ崎の戦い」と呼ばれている撤退戦が始まります。

撤退戦で大切なのは、一番うしろで敵を引きつける役の殿(しんがり)です。

その大役に選ばれたのが豊臣秀吉であり、明智光秀であり、彼らが朝倉軍と戦いながらジリジリと京都を目指す間に、信長は別ルートで一足先に京都への帰還に成功しました。

このとき、義景も出兵しておりましたが、途中で引き返していました。

代わりに、織田・徳川軍の追撃は景鏡に任せ、そして織田軍の主要舞台を取り逃がしております。

実はこの後に行われた、同年6月

◆姉川の戦い(織田・徳川vs浅井・朝倉)

も、朝倉軍の総大将は義景ではなく、景鏡でした。

姉川の戦いは浅井・朝倉軍の敗北に終わりました。

しかし、敵も味方も決定的なダメージまでには至らず、ここから両氏と織田家との戦いは本格化。

次なる一手を先に仕掛けたのは、浅井・朝倉連合軍からでした。

 

第一次信長包囲網

元亀元年(1570年)9月――。

信長が大坂で石山本願寺と相対していた【野田城・福島城の戦い】タイミングを狙って、浅井朝倉連合軍は、近江の宇佐山城へ攻めかかりました。

この城には信長の重臣・森可成と、信長の弟・織田信治が入っており、彼らは坂本へ打って出て戦います【宇佐山城の戦い】。

戦いは、浅井・朝倉軍の勝利に終わり、両軍は、そのまま京都へ迫るかに見えました。

しかし、信長が神速のスピードで大坂から坂本へ移動。

思わぬ織田軍の登場に焦った浅井・朝倉軍は比叡山に入り、小規模な戦闘をしながら大きな戦乱には発展せず、ほぼ数ヶ月間が籠城のまま過ぎました。

途中で信長が延暦寺側に交渉したり、朝倉軍に決戦を申し出たりはしていましたが、決着には至らず、11月下旬を迎えます。

旧暦の11月下旬ですから、新暦では既に年末。

越前への帰路が雪深くなっていてもおかしくない時期でしょう。

この浅井朝倉の【比叡山籠城】については、最終的に足利義昭の調停による「停戦・双方の撤退」という形で終わっているのですが、その経緯が史料によって少々異なります。

信長公記では【朝倉義景が将軍に泣きついて調停させた】ということになっています。

しかし、他の記録では【信長が朝廷へ工作し、勅命講和を引き出した】というのもあります。

戦争が続いて困っていたのは……おそらく信長でしょう。

確かに朝倉軍は雪という不利がありましたが、浅井軍、本願寺を中心に敷いた第一次信長包囲網は有効に機能しており、金ヶ崎の退き口以来の千載一遇の好機を逃したのかもしれません。

義景の行動から受ける印象が、どことなく「覚悟が足りない」というのは、こうした煮え切らない状況の積み重ねが影響しているのかもしれません。

 


重要拠点の延暦寺も焼き討ちされ

浅井と共に近江・坂本の織田拠点を打ち破りながら、信長の思わぬ行軍の速さで結果的に和睦へと持ち込まれてしまった浅井朝倉軍。

むろん、両者、このまま引くワケがありません。

元亀二年(1571年)1月。

信長は、羽柴秀吉に命じて越前~近江間の交通を妨害し始めました。

物資の流通が停滞し、次第に圧迫されていった浅井・朝倉両氏は、8月に織田領の横山城・箕浦城を攻撃しますが、逆に敗れてしまいます。

※右側の黄色い拠点が横山城と箕輪城で、左側の赤い拠点が比叡山延暦寺

また、両氏へ協力したとみなされた比叡山も、同年9月に信長から焼き討ちを受けて壊滅しました。

当時、山上に天台宗の僧侶たちはほとんど住んでおらず、人的被害は後世でいわれているほどのものではなかったとする説もあります。

しかし義景や長政からすれば、二度と同じ手を使うことができず手痛いところです。なにより比叡山延暦寺は、政治の中心・京都に楔を打ち込むためには格好のロケーションでした。

その後しばらく、主に北近江を舞台として、浅井・朝倉vs織田の散発的な戦闘が続きます。

元亀三年(1573年)7月には信長が浅井氏の本拠・小谷城を攻めようとしたため、長政は義景に救援を依頼。

義景が出馬して小谷城に入ったものの、このときも打って出ようとはしませんでした。

援軍としてやってきたのに引きこもってばかりで、相手からの申し入れに返事すらしない……となると、何より悪影響を受けるのは自軍の将兵です。

わざわざ出向いてきているのに、手柄を挙げる機会すらもらえない。せめて好機をうかがう素振りだけでも見せていれば、話は違っていたかもしれません。

 

信玄、激怒!

ともすれば日和見主義にも見え、なかなか戦わない主君にはついていけない――そんな懸念が表面化してきたのは、同年8月のことでした。

義景の家臣である前波吉継や富田長繁などが、次々と織田方に寝返ったのです。

義景はそれでもだんまりを決め込みました。挽回しようとか、揺さぶりをかけるとか、際立った動きが見られません。

その間に信長は虎御前山へ砦を築いたり、「日時を決めて決戦しよう」と申し入れるなどの動きを見せましたが、今回も義景は無視しています。

9月16日、信長は新しく築いた砦に秀吉を残し、横山城へと兵を引きました。

この翌月には、ついに武田信玄が西上していましたので、その兆候を知らされてのことかもしれません。

これを機に、義景は浅井軍と共に岐阜へ攻め入ろうとしましたが、虎御前山砦の秀吉隊に敗れてしまいます。

それだけならよかったものの、ここでやる気がなくなってしまったのか、12月3日には将兵の疲労と降雪を理由として、勝手に撤退してしまうのです。

これには武田信玄が激怒しました。というのも、朝倉軍撤退の少し後に、三方ヶ原の戦いで徳川軍を破り、さらに西へ向かっているのです。

つまり義景が撤退しなければ、そのまま武田・朝倉・浅井の三氏で織田・徳川を包囲することも不可能ではありませんでした。

これに対して義景がどのような返事をしたのか。そこはわかっていませんが……信玄の怒りようもわかるというものです。

翌元亀四年(1573年)2月、信玄は気を取り直して再び義景の出兵を求めましたが、これにも応じませんでした。

3月には将軍・義昭が信長と絶縁。

4月には武田信玄が西上の途中で病死。

どこかで、義景が動いてよさそうなものですが……どのタイミングでも、そうはしませんでした。

 

浅井の援軍に来てすぐに撤退

一方、信長は義昭を追放し、武田はしばらく動かないと見て、いよいよ浅井・朝倉征伐にかかります。

改元を挟んで天正元年(1573年)7月、再び浅井氏の本拠・小谷城へ迫りました。

今度も義景は援軍として出馬しますが、これまで散々好機を逃してきたせいで、既に大多数の家臣から見限られていました。

一族筆頭ともいえる朝倉景鏡は「度重なる出兵で疲弊している」として、出陣命令すら拒否しています。それでも2万ほどは集まったそうですから、日頃の行いが良ければ精強な大軍になったことでしょう。

頼みの綱だった朝倉軍の状態を見てか。

浅井氏の家臣からも織田氏へ寝返る者が増えてきていました。

8月半ば、信長は暴風雨の中を自ら出馬し、朝倉方の大嶽(おおずく)砦を攻め落とします。

信長の機転もあって恐怖に駆られた朝倉軍。義景は早くも越前への撤退を決めますが、それを信長に読まれていました。

信長公記によれば、当初、織田方の軍勢は朝倉軍の撤退を見逃し、追撃に出遅れたそうですが……それでも朝倉軍は追いつかれ、一乗谷までの道中でも多大な将兵を失いました。

生き残った者も次々と逃亡し、義景が一乗谷城へ着いた頃には、ほんの十数人程度の側近しかいなかったとまでいわれています。

さすがに誇張が含まれているでしょう。しかし、軍事行動が成り立たない程度の人数になってしまっていたというのは間違いなさそうです。

義景も「もはやこれまで」と思ったか。

自害しようとしたところを近臣の鳥居景近や高橋景業に止められ、そこに朝倉景鏡がやってきたため、思いとどまります。

景鏡は、一乗谷城から出て、ひとまず東雲寺に逃れることを提案しました。

 

賢松寺で自刃 最期まで煮え切らない

義景は、景鏡の提言を聞き入れてその通りに行動し、次は平泉寺の僧兵に援軍を頼みます。

しかしここも既に信長の調略を受け、織田方についていたため、逆に襲われる事になりました。

次に義景は賢松寺に逃れると、ここで最後の裏切りを受けます。

なんと、景鏡が織田方につき、賢松寺を襲ったのです。

幾度も総大将を任せてきた親族の裏切りに、いよいよ腹を決めたのでしょう。

義景は賢松寺で自刃し、ここに戦国大名・朝倉氏は滅亡しました。

享年41。

それにしても、あまりに煮え切らない態度に、イライラとさせられた方も多いかもしれません。

朝倉孝景や朝倉宗滴など、名将を産んだ朝倉家で、どうしてこのような当主に育ってしまったのか。

その原因について、

「それまでの越前がうまく治まっていたがために、軍事的な才能が育たなかった」

「実は六角氏からの養子だったために家中の心が離れた」

といった見方もあります。

確かに、存命中の宗滴が有能であるがゆえに他の者へ仕事を任せることができず、次世代への引き継ぎができなかったこと、さらには親族が少なかったことなどは、義景だけの責任ではありません。

それらを差し引いたとしても、攻め時・退き時の判断があまりにも鈍く、また、家中の統率に心を砕いた節が見られないのは残念なことでしょう。

一言で言えば「向いてない」。

義景が風雅を愛し文化面に秀でていたことを考えると、大名家のトップではなく、二番・三番手の重臣にいたら、うまく才能を活かせたかもしれません。

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【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
太田牛一/中川太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon
朝倉義景/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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