・尊氏(初代)
・義満(三代)
・義政(八代)
あたりは歴史の授業でもお馴染みですが、
・義教(六代)
・義昭(十五代)
ぐらいになると戦国ファンにしか注目されず、その他の将軍ともなれば名前すら浮かんでこない方もいるのでは?
しかし、大河ドラマ『麒麟がくる』の放送を機に、一気に知名度を上げた方もおられます。
十三代将軍・足利義輝です。
ドラマでは、威厳ある姿で明智光秀の前に登場したかと思えば、一転、悲哀と苦悩に満ちた姿で視聴者の心をザワつかせた、向井理さんの迫真の演技。
史実でもそうだったのか?
天文15年(1547年)12月20日、室町幕府・第13代将軍に就任した、足利義輝の生涯に注目してみましょう。
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本拠地を追い出されていた足利義輝
なぜ足利将軍は存在感が薄いのか?
特に9代~14代はその傾向が強いものですが、大きなカギは【応仁の乱(1467年~)】です。
この大乱により、8代将軍・足利義政以降、幕府の権威が大きく失墜しました。
つまり室町幕府は、1338年(1336年)~1573年まで約235年も続いていながら、ほぼ半分以上の将軍が戦乱に巻き込まれていたんですね。
もちろん皆ボケっとしていたわけではなく、何とかすべく努力していたのですがことごとく失敗しています。
多くが将軍の跡取り問題の飛び火ですから、自業自得ではありますが、他の守護や国衆の争いにも巻き込まれ続け、大変な時代ではありました。
今回の主役、義輝のお父さんである12代・足利義晴も将軍復権に力を注いでいます。
しかし、この人は先々のことを見通す力が足りなかったようで、京と近江(滋賀県)を行ったりきたりしながらしょっちゅう戦をしておりました。
相手は管領(幕府のナンバー2)の細川家で、どっちが京や朝廷を手中に収めるかでてんやわんや。
ますます京は荒れていくわ、出たり引っ込んだりで将軍の威厳もボロボロになるわ、そもそも義晴の前の足利義稙(よしたね)が後柏原天皇の即位式に出損ねていた後遺症を受けるわ。
足利家自体が散々な有様だったのです。
義晴は自ら戦に出たり勇猛な人ではあったようですが、そのツケが息子である義輝にもまわってしまいます。
塚原卜伝も認める本物の剣豪将軍に
義輝が将軍職についたのは天文十五年(1546年)、11歳のときのこと。
父親が上記の通り京に出たり入ったりしていたため、このときは近江にいました。
そしてお父さんの死を契機に、自分は何とか京に戻ろうと画策します。
天文二十一年(1552年)に細川家や三好家と和睦を結び、一度京に入ることはできました。
しかし、実態は傀儡のお人形さん。
再び戦になり、またもや近江へ逃れます。
こうした災難の連続に、自身を鍛え上げねば――と思ったのか、あるいはもともと才能があったのか。
逐電中の義輝は、ひたすら武芸に励みました。
当時の剣豪・塚原卜伝から免許皆伝を受け、一説には剣聖・上泉信綱にも剣を教わったそうです。
そして義輝は、ここからウルトラCを繰り出すのでした。
三好と和睦し結婚も済ませ
足利義輝は、争いを繰り広げていた三好長慶と和睦を結ぶのです。
それというのも、近江で頼りにしていた六角家が
「将軍様も三好殿も、そろそろ平和的に解決したほうがよろしいのでは……」
と間に入ってくれたから。
後世からすれば「なら早くやれよ」とツッコミたくなるものの、六角家も家格に比して戦はさほど強くなかったため、仲介に入るタイミングも難しかったのでしょう。
こうして義輝がやっと京に落ち着いたのが永禄元年(1558年)。
まだまだ三好家の勢力は強いものの、義輝は父祖以来の悲願を達成すべく、バリバリ働きます。
まずは後回しにしていた正室。
この頃義輝は23歳ですから、当時の基準としてはやや晩婚です。
摂関家の一つ・近衛稙家(たねいえ)の娘を妻に迎えることができ、まずは朝廷とのパイプを持つことに成功します。
近衛稙家が義輝の母方の伯父さんで、近江と京をの間も随行してくれていたためスムーズに話が進んだようです。
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