大河ドラマ『麒麟がくる』で、吉田鋼太郎さんの演じた松永久秀が、戦国ファンのみならずお茶の間でも話題になりました。
梟雄イメージじゃない!
それどころか非常に思慮深くて外交力、政治力も有している。
そして織田信長とぶつかった後の死に様が圧巻だった――。
信長と久秀、二人の関係性は非常に複雑かつ印象的ですから『麒麟がくる』でも大きな見どころでした。
史実における松永久秀の実像も、最近の研究で変わりつつあります。
気品。
知性。
そしてワイルドさ。
歴史の歯車が一つ変わっていればイケメン智将で描かれてもおかしくなかったのではないか? と、そう思わされるのです。
本稿では、天正5年(1577年)10月10日に亡くなった、松永弾正久秀の生涯を史実ベースで振り返ってみます。
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松永弾正久秀? ああ、ギリワン・ボンバーマンね
松永久秀――。
戦国ファンならば、その名を聞いただけでニッコリしてしまう、愛されキャラであります。
と言っても織田信長や真田幸村などのヒーロータイプとはまるで違う。
凶器攻撃と火を噴くパフォーマンスを駆使しそうな戦国随一のヒール枠。
『信長の野望』シリーズのステータスでは、義理が最低の「1」であります。
端的に言えば「裏切る人」であり、史実では、信長に二度従い、二度反旗を挙げたことで有名ですね。
かつて義理「2」としてヒール役を背負わされていた最上義光も、今ではすっかり評価が見直されていて、だからこそ久秀には頑張ってもらいたい――。
そんな風に思わせる最も象徴的なエピソードが、松永久秀の死に様でしょう。
【平蜘蛛の茶釜を抱えて爆死する!】
まるでマンガのような伝説で、今なお戦国ファンには「ボンバーマン」として人気を博しております。
しかし……。
近年の研究で、松永久秀はそこまで悪くなかったのではないか?とされ始めたのです。
ヒールな彼が大好きであった私も、これには驚いております。
では進んだ研究とは一体どんな内容なのか?
江戸時代と戦国時代の価値観は正反対
これは日本に限ったことではありませんが、乱世と太平の世で価値観が逆転することはままあります。
戦国時代には褒められた「戦場で敵を欺く」機転も、江戸時代に真似られたら大変。
そこで用いられたのが儒教道徳でした。
武士階級だけでなく庶民まできっちりと統制する必要があり、例えばこんな場面が考えられます。
【殺し / 仇討ち】
・「主人殺し」のような、目上の立場を傷つけた場合は武士以外でも死罪となる
・「仇討ち」は、基本的に目上の親族のみにできる
→子が親の仇討ちをする、弟が兄の仇討ちをする等
こうした価値観の変遷が起き、戦国武将の評価についても、現在と江戸時代ではかなり異なっておりました。
【江戸時代で不人気枠の武将たち】
・織田信長
→残虐とされた行為が注目されたせいか、意外と評価が低い
・直江兼続
→「大御所様(徳川家康)に喧嘩を売って主家(上杉家)を滅ぼしかけた」という奸臣評価も
・松永久秀
・斎藤道三
・伊勢宗瑞(北条早雲)
→正体不明なのにのし上がってきた、つまりは目上に背いた、そんな枠はともかく嫌われる
【例外】
・真田昌幸
→大名家の祖先であるため庇われる
→真田幸村ともども社会のガス抜き(反徳川アイコン)として高評価
・最上義光
→昭和期から評価が下落し逆転した、極めて稀有な例
現在は、織田信長も直江兼続も大人気の武将ですよね。
つまりは明治時代以降に再評価が進んだわけですが、そんな中で松永久秀は最後まで取り残された枠と言えましょう。
彼のぶっ飛んだヒールっぷりやエピソードが強烈かつ面白いがために、そのままにされていたのかもしれません。
では、実際のところはどうだったのか?
どこから来たのか? 松永久秀
実は松永久秀は、生年すらハッキリとはしていません。
大名家の男子ならば、祈祷、瑞祥、祝福と共に誕生が記録されます。
それがない場合には、没年から逆算するしかありません。
久秀の誕生年とされる永正5年(1508年)は、まさしくこの逆算によるものです。
生年が不明ですから、誰の子であるかもわかりません。
出生地すら、三説が混在しております。
【松永久秀の出生地三説】
・山城国(京都)西岡の商人説
→斎藤道三の商人設定を流用したように思える
・阿波国説
→傍証が不足している
・摂津五百住(いおずみ)の百姓説
→江戸時代初期に同地出身「松永」姓の人物が、久秀との血縁関係を認識していた記録が残されている。悪名をふまえると、わざわざ無関係な人物が名乗るとも考えにくい
傍証の数を考えますと、出身は摂津五百住(いおずみ)なのでしょう。
百姓のやや上程度の身分であり、土豪の類ではないかと思われます。
それではちょっとつまらないと考え、後世の人々が話を盛りたくなる気持ちもわからなくはありません。
そんな願望が、彼の伝説にはつきまとっています。
三好長慶、世に出る
松永久秀は、ヒールとしての輝きゆえに色々と誤解が多いと指摘してきました。
それは主君だった三好長慶についてもそういえます。
三好長慶は、久秀よりも一回りほど遅れた、大永2年(1522年)に誕生。
幼名・千熊丸というこの少年は、苦難の少年時代を送りました。
天文元年(1532年)、11歳の時、父・三好元長が本願寺の一向一揆勢により、堺で自害してしまったのです。
そこにはややこしい構造がありました。
三好元長
vs
細川晴元
vs
本願寺証如
弱体化した足利将軍家に代わって勃興した三つ巴。
まだ幼い長慶は、パワーバランスの中でなんとか助命され、その後、元服までたどり着いたものの、じっと息を潜めているしかありません。
天文8年(1539年)18歳で手勢を率いて上洛を果たし、やっと一勢力として認められます。
長慶は、何かあれば阿波国に逃げることはせず、近畿で勢力を築き上げようと決意。
周囲の大名を警戒し、外交を行い、内政や軍事の充実をはかりつつ、飛躍のときを待つのでした。
こうした最中の天文10年(1541年)、久秀は仕え始めたとされています。
君臣一体となって、三好家の勢力は伸びていきました。
反比例するかのように、細川氏の力は低下。
ここで、我々後世の人間に、こんな考えが浮上してきます。
あのお坊っちゃま(そうかな?)の三好長慶が伸びていく。
その背後には、謀将・松永久秀がいたはずだ!(そういうものかな?)
三好長慶が伸びたのも松永久秀のお陰という考え方――そんな後世のバイアスは、取り除いて考えてみましょう。
実は、久秀の動きはそこまで特定できるものでもありません。
はじめは右筆、そのあと訴訟取次の奏者。
軍事活動が目立ち、一国一城の主にまでのぼりつめたのは、むしろ弟・松永長頼でした。
松永久秀がそんな秘書的裏方だったなんて嫌だ、遣り手の強引営業マンであって欲しい……そんな願望は横に置いときましょう。
私個人としましては、久秀の教養と態度に感銘を受けました。
出自を考えますと、それまで相当な努力を重ねて教養や芸術センスを身につけたと思えるのです。
教養の欠如は、この時代となるともう話にならない。
意識的に身につけようと動き、努力せねば、ここまで洗練されるものではありません。
松永久秀・悪人説の一要因として『性技テキスト』の執筆があげられます。
これも、あくどいナンパマニュアルだと解釈すればそうなるかもしれません。
しかし、東洋医学の知識も含まれており、寝室でのマナー破りをしないためのマニュアルならば、むしろ紳士的ではありませんか。
久秀の妻の数は、少なくとも二人が確認されてはいます。
側室もいたようですが、さほど多いとも思えません。
正室:松永女房(久通の母)
継室:広橋保子
久秀による、広橋保子の追悼は、きめ細やかなものでした。
そこからは、深い愛を感じさせるほどで、洗練された紳士のような実像が浮かび上がってくるのです。
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