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【松永久秀】
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足利義輝との対立
細川晴元と戦っていたところ、ある勢力が敵陣に加わりました。
将軍・足利義輝です。

剣豪将軍と呼ばれた足利義輝/wikipediaより引用
剣豪将軍とも称される足利義輝の死については、陰湿な松永久秀のせいで非業の最期を遂げる印象があります。
しかし、三好家から見れば、義輝の動向の方がおかしく映る。
「細川との喧嘩に今さら将軍がのこのこ来られても、わけがわかりません!」というものでした。
かように混沌とする都周辺で、沸騰する諸勢力をにらみながら、文化活動も欠かさない。
そんな主君に尽くす久秀。
天文22年(1553年)ともなりますと【義輝が長慶を殺す】という噂すら流れ出すほどでした。
細かく言うと、挨拶に出向いたところで暗殺する――そんな風に囁かれたのですから、長慶からすれば腹が立つ話でしょう。
長慶は義輝を殺す気だったか?
いや、そうではありません。細川支援から手を引けば、それまでのことではあります。そこにはすれ違いがあったのでしょう。
将軍からすれば、権威を取り戻したい。
一方で他の勢力からすれば、鬱陶しい属性付きの支援者でしかない。
京都の人々にとっては、三好こそが支配者となりつつあった。
長慶にしても、幾度となく繰り返される和睦破りを我慢しながら、義輝には精一杯の譲歩をしていたのです。
しかしついに限界に達し、長慶は天文23年(1554年)、足利義輝を近江朽木に追放。
この一件に対する久秀本人の見解は、天文24年(1555年)、六角氏家臣・永原重興宛ての書状から伺えます。
「義輝側が、三好に対する約束破りをさんざんしてきて、細川支援をやめないわけです。
もう限界です。そのうち天罰が降るんじゃないですかね。
京都の平和が第一ですから、是非とも六角氏にはこちらについていただきたく願う次第です」
久秀は苦労を重ねつつ、そうした外交交渉を担っていたのです。
教養溢れる趣味もあり、文章も書ける、そんなスマート外交官としての像が見えてきます。
松永久秀には、連歌はじめ、当時必須とされた教養を身につけていたこともわかります。
着目したいのは【三好長慶には義輝を立てる意図がなかった】ということです。
このことが、いかに画期的であったか。
信長のそうした態度だけがCOOLで、三好長慶と久秀が悪とされるのであれば、それはなぜか?
やはりそこにはバイアスがあるのでしょう。

織田信長/wikipediaより引用
大和侵攻と支配
足利義輝が天文23年(1554年)に京を追放され、弘治という元号がたった四年で終わり、永禄と改元されたその年。
義輝は、断固として改元に従わないどころか、挙兵しました。
しかも、メキメキと力を伸ばす毛利元就も、改元を拒否。
京都の秩序に大名が従う――そんな時代はほとんど崩れつつありました。
各地で大名が力を伸ばし、時代は変わりつつあります。
こうなると、将軍の意味合いも変化します。
握ればキングメーカーとしての価値も生まれる。長慶も妥協を探る必要性が生じます。
長慶を利用して、幕府秩序の復活を狙う義輝。
義輝を利用して、諸大名にリードしたい長慶。
そんな同床異夢があるのです。
そうした状況の中の永禄2年(1559年)、松永久秀は大和の支配を任されました。
当時の大和は、多くの土豪が小競り合いを繰り返している状態であり、歴史ファンにとってはお馴染みの一族もうごめいておりました。
一例を挙げますと……。
割と知名度のある武将たちですが、彼らのルーツについては不明な点も多いものです。
筒井順慶については、どうしても「洞ケ峠(ほらがとうげ)を決め込む」優柔不断なイメージがあり、柳生は剣豪としての存在感が強い。
いずれもフィクションの影響を強く受けた存在です。
個人的な話となりますが、長年不思議に思うことはありました。
ストイックで剣聖のイメージが強い、あの柳生石舟斎。
そんな彼と、ムンムンとした悪党である松永久秀。
なぜ両者に繋がりがあるのか?
時代ものフィクションを読むたびに、接点が土地柄しかなく、人間性が真逆だった二人の関係に混乱していたのです。
その答えがようやくわかった気がします。
三好一族の総力を挙げ、平和の兆しすら見えない当時の大和へ、久秀らが安定をもたらすために攻め込んだ。
それが永禄年間の大和でした。
当時、現地で権勢を誇っていた安見宗房(やすみむねふさ)や、その右腕たる筒井順慶。
こうした諸勢力を、大和の国人に支援を得て討ち取り、安定的な支配を狙ったのです。
この大和侵攻にしたって、久秀は「支配の挙句、酒池肉林を楽しんだ」というどうしようもない印象があります。
実際は、そうではありません。
筒井氏が圧迫していた春日社を復興し、国人たちが参拝を遂げているのです。松永久秀は梟雄どころか、大和の救世主でした。
そんな中に柳生宗厳、後の柳生石舟斎がおります。
彼は戦乱に荒れ果てた大和を救う久秀に仕え、信頼を得ていったのです。大和の土豪で終わらぬために、久秀に期待と身を寄せたのでした。
戦乱の最中、久秀は倒れ、天下は荒れていきます。
石舟斎の子・柳生宗矩にとっての徳川家康は、父にとっての久秀でした。
大和の柳生庄に住んでいた一族が、天下人に剣術を指南するまでに上り詰める。その軌道の背後には、そうした眼力と信念がありました。
主君としてみても、松永久秀は悪人ではありません。
これまた個人的な話で恐縮ですが、以前、旅行で大和を訪れました。
寺社破壊の跡は見つからず、古代の息吹すら残る、神秘的な景色が印象的でした。
松永久秀は、それを破壊するどころか、むしろそれを守った一人だったのか? と思うと、感慨深いものがあるのです。
下剋上の先駆者
当時の大和の勢力は、まるでスズメバチの巣のよう――。
そんなエリアを支配するのは途轍もない困難を伴います。戦国時代ですから、全国的に戦乱の傾向があったとはいえ、やはり大和は難儀な土地でした。
それでも三好長慶が踏ん張れたのは天下のためでした。
では、いったい「天下」とは何か?
『信長の野望』ならば、全国マップを塗りつぶすこと。
そのイメージが、どうにもしみついてしまっているのかもしれません。
永禄4年(1561年)であれば、畿内を支配する者に天下人の資格があったと言えます。
勢力を伸ばした三好長慶とその君臣には、異例の待遇が授与されました。
◆三好義興(長慶の嫡男)と松永久秀、従四位下に叙せられる
→これより前、天文22年(1553年)に長慶、永禄三年(1560年)に三好長逸が従四位下
→同時に久秀は「源氏」姓の源久秀となる
◆御紋(桐紋)授与
◆義興に対する浅葱色の「御肩衣・御袴」着用許可
三好長慶一人の恩典であれば、そこまで重要でもないかもしれない。
しかし、後継者たる義興、そしてその義興を支える久秀までも含まれるとなれば、そこには血縁による継承が見えてきます。
義輝からすれば、王手をかけられたようなものと言えます。
傀儡となりつつあった。
ただ、同時に不安定要素もあるのでした。
そのひとつが、長慶の弟・十河一存(そごう かずまさ)の死です。
これも従来は、久秀が馬を用いて暗殺した逸話があったものですが、フィクションといえます。
動機も弱い。長慶の信頼を得ているからには、それを台無しにするような策を用いる必要性も感じません。
松永久秀は裏切りどころか、三好長慶・三好義興に対して一貫して忠義を示しています。
このころ久秀の役割は、秘書的なものではなく、武将としても発揮されておりました。
畠山氏に勝利し武名を挙げた1562年【教興寺の戦い】も、その一例でしょう。
とはいえ、才ある武将として評価されるには、それだけではもの足りないのが乱世のならわし。
求められる能力は他にまだありました。
「築城」です。
石垣をどう積むか?
鉄砲伝来にどう対応するか?
そうしたスキルがなければ、笑い者になりかねない。
この点から見ても、松永久秀は抜群のセンスがありました。それが発揮されたのが……。
多聞城は全く新しい夢の城
久秀の築城センスが発揮された城――それが永禄5年(1562年)棟上の多聞山城でした。
多聞とは毘沙門天のことであり、信仰心のあらわれとされています。
毘沙門天信仰と言えば、上杉謙信ですよね。
そんな軍神と、あの久秀が同じだなんて嫌だな……そんなイメージもあるかもしれませんが、久秀の信仰心を疑うのはやめておきましょう。
この城は、奈良の北にあります。毘沙門天とは北の守護神でもある。
奈良の北を守る毘沙門天に自らを重ねたい、そんな真剣な思いすら感じさせるのです。
こうして見ていると、松永久秀に対して、いろいろと本当に申し訳ない気持ちになってきました。
だってさ。彼は責任感が人一倍強いではありませんか。
松永久秀が手塩にかけ完成した多聞城は、大和の人々のみならず、宣教師も驚いたと言います。
・ヨーロッパの城のような高層構造
・白壁に黒い瓦という、モノクロームの洗練されたデザイン
・杉を豊富に使い、その香りでも訪問者を喜ばせる
・庭園と樹木も美しく整えられ、見ているだけで目の保養
内装の彫刻、絵画……何もかもが美しく、軍事面での備えもバッチリ。
同時代の人々にこう評されています。
夢のような城ではありませんか。
この多聞城は、後に織田信長がそのセンスに嫉妬……というと語弊がありますが、ともかくインスピレーションを受けた建築であることは確かなのです。
あまりに華麗な城は、華麗な才能あってのもの。久秀は当時随一のセンスの持ち主でした。カッコいい……。
建築だけではありません。
松永久秀は、文化芸術でも天下掌握をめざしていたような、洗練されたふるまいが見て取れます。
その一例が茶会でした――。
棟上げの翌年、永禄6年(1563年)に松永久秀は茶会を開催しました。
参加者は、もちろん当時の有力者たち。
そこには見る者の耳目を集める芸術品、美術品を並べておりました。
当時、中国・明朝では、こんなことが言われておりました。
「現地ではどうでもいいようなものでも、日本に持っていけば高値がつくからチョロいよね!」
しかし久秀のようにセンスある人物となれば、明から来た文物の中から、これぞというものをチョイスできたのです。
【明】という看板だけでもプレミアがつくのに、その最高級品を惜しみなく並べている。
これだけで、来場者の気持ちがたかぶるだけではなく、冷や汗もにじむようなことなのです。
一例として、牧谿(もっけい)作「煙寺晩鐘図(えんじばんしょうず)」(国宝・畠山記念館蔵)は、松永久秀が所有していたことがあります。
国宝級の美術品が集まる、日本一華麗な建造物での茶会――。
権力者とは、政治軍事だけでなく、文化芸術での支配をも同時に行います。
エリザベス1世は、シェイクスピアを援助し、その演劇鑑賞を好みました。ルイ14世は、バレエを踊ることでその華麗さを見せつけました。
日本では、茶会や能楽が、将軍や武将に愛されたものです。
久秀には、紛れもなくこうしたセンス、それも一流のものがありました。
久秀と宗教
織田信長と松永久秀――。
両者を並べて『ここまで重なるのか……』と感嘆してしまうのが、キリシタンへの待遇です。
永禄2年(1559年)、イエズス会所属の宣教師カスパル・ヴィレラ(ポルトガル人)が上洛。足利義輝と三好長慶から布教の許可を得ました。
外国人の動きというものは、どこに権力があるか見通す上でも重要です。
そして外国人が選んだ権力者は、天皇ではなく将軍でした。
しかも、将軍だけではなく長慶にも布教許可を求めておりました。つまり長慶も最高権力者の一人として認識されていたということです。
当時の宣教師は、プロテスタントの台頭に警戒を強め、明国を狙っていました。
しかしその反発を受けて、東の日本に狙いを定めたのです。

絵・小久ヒロ
久秀のキリスト教への対応は、現代人の視点から見ても面白いものがあります。
彼は大和支配でも顕著にその傾向が見られますが、日本古来の宗教を尊重し、保護しています。
熱心な法華宗信者でもあり、寺社仏閣の保護には極めて熱心に取り組んでおりました。当時の法華宗徒にとっては、信仰の保護者のような存在です。
この法華宗信仰は、母譲りでもありました。
久秀は大変な親孝行かつ家族愛の強い人物で、母の宗教を大切にし、病気平癒のために祈願をしています。
そんな久秀に、僧侶たちはキリシタンへの対応を懇願します。要は排除してくれ、というもの。
では後の豊臣秀吉や徳川幕府のような弾圧を行なったか? というと、久秀はそうではありません。
永禄6年(1563年)、結城忠正を経由して比叡山の訴えを受け入れた久秀は妥協案を出しました。
「宗論」です。
今でいうところのディベートですね。キリシタンを追放するための前段階として、そのワンステップを入れているのです。
後世の踏み絵による追放とは違う洗練性がありました。
この宗論はキリスト教代表者としてヴィレラが選ばれましたが、彼は殺害を警戒し、山口の受洗済琵琶法師・ロレンソ了斎が選ばれます。
そして行われた宗論で、審査に臨んだ結城忠正と清原枝賢はキリスト教に感服。
ヴィレラを奈良まで呼び寄せました。
忠正はアンリケ、高山飛騨守友照はダリオとして、キリシタンとなったのです。
高山友照とは、あの高山右近重友、洗礼名ジュストの父にあたります。
高山父子はその生涯をキリシタン信仰に捧げた人物です。
こうした人物を見て、久秀はどう思ったか?
宗教の自由を受け入れ、彼らの持つ知識を受け入れたのです。
もしも久秀が狭量であれば、高山右近も弾圧死していたかもしれない――そう思うと、感動すら覚えませんか。
戦国屈指の高潔な人物という印象すらあり、フィクションでもそのように描かれる高山右近。
それが、あの久秀の寛大さゆえに宗教に目覚めたというのは、目がさめるような思いです。
なお、内藤如安は、久秀の甥にあたります。

ジョアン内藤こと内藤如安を偲ぶ石碑(京都府南丹市)/photo by ブレイズマン wikipediaより引用
キリシタンと久秀。
両者をどう結びつけるべきか。
「クリスマスに休戦した」というエピソードぐらいの知識はあっても、困惑させられる要素ではありました。
その困惑も終わりにしましょう。
プロテスタント勢力の日本到達、カトリック側の奴隷売買といったどす黒い状況以前とはいえ、久秀は信仰の自由すら受け入れた、画期的な人物であったのです。
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