松永久秀像(高槻市立しろあと歴史館蔵)

松永久秀像(高槻市立しろあと歴史館蔵)/wikipediaより引用

三好家

松永久秀は本当に「東大寺大仏殿を焼いた」のか? 大仏殿の戦い その真相

永禄10年10月10日(1567年11月10日)は「大仏殿の戦い」が勃発した日である。

大和(奈良)の東大寺で、松永久秀が三好三人衆と激突。

後に茶釜の自爆エピソードで知られる狂気の久秀が、この戦いでも「東大寺の大仏殿を焼く」という凶行に走ったとされ、フィクションなどでは今なお“梟雄”扱いされる原因の一つにもなっている。

果たして、その評価、正しいのか?

実はこの戦い、同年4月から半年以上も戦闘が続いていたのであり、悪逆非道な久秀が、突如怒り狂って焼き討ちをしたわけでもない。

しかし現実に、東大寺の大仏殿は燃えていて、火をつけた者がいるのも事実である。

では一体、誰の仕業だったのか?

松永久秀の行動を中心に当時を振り返ってみよう。

松永久秀像(高槻市立しろあと歴史館蔵)

松永久秀像(高槻市立しろあと歴史館蔵)/wikipediaより引用

※三好三人衆とは三好長逸・三好政康・石成友通のこと

 


東大寺に陣取る三好三人衆

松永久秀にせよ、三好三人衆にせよ、元々は三好長慶の配下である。

いわば両者は同僚であったが、永禄7年(1564年)に長慶が亡くなると、敵対関係へ。

永禄10年(1567年)、久秀が三好家を継いだ三好義継(長慶の甥)を味方につけて優勢となり、多聞山城へ入ると、同年4月、城へ迫ろうとする三好三人衆が東大寺に陣を張り、両軍の戦いは始まった。

以下の地図のように、多聞山城と東大寺大仏殿は目と鼻の先にある。

距離にして2kmもないほど近接していた両軍。

永禄10年5月に入って間もなく、三好三人衆の岩成友通と池田勝正が東大寺「念仏堂」「二月堂」「大仏の回廊」に陣を張ると、それに応じて松永久秀は戒壇院へ。

すわ一触即発のポジション――かと思えば久秀が多聞山城に戻って、三好三人衆の攻撃を跳ね返したり、敵の武将を引き抜いたり、後方に火を放って撹乱させたり。

決定的な戦いには至らない。

同時に「いつ大仏殿が焼かれてもおかしくない」ような緊張状況は続いており、実際に戒壇院の授戒堂や千手堂など、各所で火災は頻発していた。

こうした小競り合いを繰り返しながら、やがて戦線は硬直して、次に事態が大きく動くのは約4ヶ月後、9月に入ってからのことだった。

東大寺南大門

 


三好三人衆に対して夜討ち

三好三人衆との交戦を続けながらも抜け目のない松永久秀。

永禄10年(1567年)9月には、紀伊の有力寺院である根来寺や、飯盛城の松山安芸守を味方に引き入れるなどの調略を進め、さらには上洛を画策する織田信長からも支援を得る。

信長は、足利義昭を引き連れての上洛後、状況が整えば奈良へ向かう予定としていた。

足利義昭(左)と織田信長の肖像画

足利義昭(左)と織田信長/wikipediaより引用

そして迎えた永禄10年10月10日(1567年11月10日)、久秀は、東大寺に陣取る三好三人衆に対して夜討ちを敢行する。

このときの攻撃で上がった火の手が大仏殿を焼失させた。

しかし記録は様々で、久秀だけが悪逆非道として描かれているわけではない。

個々に見ていこう。

 


日記等に残された大仏殿の炎上記録

『多聞院日記』

久秀の攻撃により穀屋(穀物倉庫)や三月堂が燃え、大仏の回廊へ火が回ると、午前2時頃、一瞬にして大仏殿を焼き尽くした

→久秀の攻撃により、別の場所で火が起き、大仏殿へ延焼

『東大寺記録写』『二月堂修中連行衆日記』

久秀が三手に分かれて攻め寄せると、西の回廊から火が上がり、大仏殿が燃えた

→久秀の攻撃により、別の場所で火が起き、大仏殿へ延焼

『寺辺之記』

防御に窮した三好三人衆が大仏中門堂へ火をかけ撤退

→三好三人衆が大仏殿の前にあった中門堂へ放火

『日本史(フロイス)』

三好三人衆の軍にいたキリシタン兵が火を放つ

→キリシタン兵士が信仰の証として放火

『和州諸将軍伝』……三好三人衆の捨てた篝火(かがりび)が鉄砲の火薬に燃え移って大仏殿へ延焼

→篝火の失火から延焼

東大寺盧舎那仏像

東大寺盧舎那仏像

いかがであろう?

久秀が悪意を持って「大仏殿を焼こう!」とする記録などなく、場合によっては三好三人衆の手によると記されているものもある。

東大寺の大仏殿炎上については、もしかしたら信長の【比叡山焼き討ち】と同じイメージをお持ちの方もいるかもしれないが、現実は、あくまで戦闘中に偶然起きた火災だった。

東大寺大仏殿の戦いで、松永久秀と三好三人衆の決着はついていない。

ゆえにその後も両軍は勢力争いを続けるのだが、2ヶ月後の同年12月、隣国の堺で面白い事が起きている。

なんとクリスマスに休戦を実施したのだ。

聖夜から翌日昼にかけて両軍の信徒たちが堺の会合所でミサを行い、その後は持参した料理を食しながらデウスについて語り、歌まで歌っていたという。

両軍ともにキリシタンの多い勢力だったことから成立したもので、なんだかホッコリする話である。

こうして平和だけをもたらしてくれる宗教であれば、その後もキリスト教は広がったのかもしれない。

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編集管理人・五十嵐利休。 1998年に大学卒業後、都内の出版社に勤務。 書籍や雑誌の編集者を務め、2013年に新聞記者の友人と武将ジャパンを立ち上げた。 月間の最高アクセス数は960万PV超。 現在は企業のオウンドメディア運用やコンサルティング業務もこなしている。

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