絵・小久ヒロ

三好家

三好長逸は一体畿内で何をしていた?~三好三人衆其の壱

戦国時代、畿内を中心に活動していた「三好三人衆」と呼ばれる集団がいます。

三好長逸(ながやす・ながゆき)
三好宗渭(そうい)
岩成友通(いわなりともみち)

言わずもがな三好一族の武将であり、戦国ゲーム、漫画でちょいちょい見かけはするけれど、いざ「どんな人?」と問われたら答えにくい――。

今回はその中でも三好長逸(ながやす)について見て参りましょう。

 

信長上洛前にあった三好政権

まずはじめに三好三人衆の定義を今一度確認しておきますと……。

三好長慶の死後、若い三好義継を支えた三人

と言えます。

三好家には、他に悪名高い松永久秀や、その子・松永久通もいて、彼等が【三好長慶―三好義継】という【三好政権】を支えた屋形骨でした。

この三好政権とは、畿内に勢力を張り巡らせ、京都の支配権を確立した三好長慶らの勢力で、信長の上洛(1568年)まで続きます。

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彼等について、多くの戦国ファンは「足利義輝を暗殺した悪党ね」といったイメージをお持ちかもしれません。

悪い印象が先行して個々人のキャラが見えてこない、悪モブ扱いですが、その中で三好長逸は「一族の長老」として名声を確立しておりました。

実は、信長の上洛以前に、京都で基盤を成立させた勢力が三好長慶たちだったのです。

 

若い義継を支えた三好長逸

しかし、三好長逸についての素性は謎だらけです。

その父は孫四郎長光とも三好長則ともされ、生年はおろか没年すらも不明。
三好一族は、戦乱の畿内で落命する者が多く、生き延びただけでも敬愛されるような状況であり、長慶にとって長逸は頼れる親族でした。

当時の三好家は、足利将軍家と対立する立場であり、三好長逸も一族重鎮として度重なる戦いに参戦しております。

三好長慶不在の折は、芥川山城主を務めてもいて、信頼のほどが窺えるでしょう。

足利将軍家を圧倒して畿内を制し、信長に先駆けて天下人とも称されるようになった三好長慶。
しかし、その後継者である三好義興が急死したことにより、政権運営は大幅な方針変更をせざるを得ない状況に陥ってしまいました。

代わって後継者に選ばれたのが三好義継でした。
三好長慶の弟である十河一存(そごうかずまさ)の子です。

永禄6年(1563年)、この義継が16歳で家督を相続すると、三好長逸らは彼を支えることになります。

そんな折、勃発したのが【永禄の変】でした。

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誤解されがちな将軍・義輝暗殺の経緯とその後

将軍・足利義輝が、三好一派や松永らに殺害された【永禄の変】という大事件。

従来は、三好三人衆や松永久秀ら悪逆非道の仕業――として忌み嫌われるような描き方をされてきましたが、最近の研究結果によると、実は多くの誤解があるのでは?と指摘されるようになりました。

それは下記のようなものです。

①最初から義輝殺害が目的だったのか?
→実は、武力で圧力をかける「御所巻き」により、譲位を狙った可能性が考えられます。つまり暗殺ありきではなかったが、結果的にそうなってしまった。

②松永久秀は現地不在
→義継に同行していたのは、子の松永久通です。

③義輝殺害への反応が鈍い
→刀を手に取り敵を斬りまくったという義輝闘死のインパクトは非常に強烈ですが、当時の公卿日記等を見ると「えっ、誰かが死んだのやろか?」というような反応でした。義輝は在京期間が短く、影が薄かったようです。

④三好三人衆結成はこの後である
→三好長逸が京都にいたことは確かですが、三人衆となるのは事件後です。

無垢な少年当主の義継が、老獪な松永久秀や三好三人衆に担がれ暴走――そんな図式として語られがちなこの事件ですが、当時の史料や反応を見ていると、むしろ三好義継と松永久通、そして足利義輝らの対立が、血気盛んゆえに暴走してしまったようにも思えてきます。

実際、三好長逸が、事件の翌々日には義継代理として参内を果たしている姿が確認できております。
彼なりに、情勢を安定させるべく動いていたのですね。

一方、松永久秀は、息子の久通が、義輝の弟・一乗院覚慶(のちの足利義昭)も殺害しようとした際、阻止しております。
彼ら老臣からすれば、若い主君世代の暴走は幼稚で短絡的であり、ソフトランディングを画策していたのでしょう。

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家臣団の混乱 三好三人衆結成へ

足利義輝殺害について、周囲の反応は鈍かった。
それでも将軍の殺害ですから、じわじわと影響力は拡散していきます。

とりわけ松永久秀が延命させた足利義昭が脱出し、将軍権力の支持を訴え始めたことは厄介でした。

「松永久秀はどういうつもりだ!」
そんな不協和音が三好家臣団に響きわたり、松永久秀父子は権勢を失いつつあります。

その最中に結成されたのが、

三好長逸
三好宗渭
岩成友通

つまりは「三好三人衆」の登場です。

構図としては

松永久秀・久通
vs
三好三人衆

というわけですね。

結果的に、足利義昭を逃した久秀の判断は正解でした。
三好義継は久秀を選び、義昭を擁立した織田信長の後ろ盾も得ます。

新しく畿内を制するようになった信長と手を結んだのですね。

一方、大義名分を失った「三好三人衆」は、急激に力を失ってしまいます。

 

いったい三好三人衆とは何だったのか?

本圀寺の変】や信長包囲網に姿を見せることはありますが、その存在感の薄さは実際のところ「モブ」程度。
そしてそのまま、乱世でひっそりと消え去っていく。その去り際も侘しい。

三好宗渭は、永禄年間末期に病死。
岩成友通、天正年間に戦死。

三好長逸に至っては、死因も没年も未詳であり、まさにフェードアウトするように歴史の隙間から消えてしまったのです。

一体「三好三人衆」って何だったのでしょうか。

大仏殿を焼いたとか。将軍を弑逆したとか。
そんな印象が頭をよぎりますが、そもそもその時点では結成されていないし、むしろ義継はじめ若い世代に引きずられたようでもある。

信長の前に立ち塞がるわけでもない。

三好長逸が三好一族の長老であったことも踏まえますと、若い世代についていけなかった「悲しいおじさんの姿」も見えて来るのでした。

文:小檜山青

【参考文献】
『松永久秀と下克上』天野忠幸
『織田信長家臣人名辞典』
『戦国人名辞典』
国史大辞典

 



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