絵・小久ヒロ

三好家

三好長逸―三好三人衆の長老格は信長の力を読めずに消えていく

戦国時代、畿内を中心に活動していた「三好三人衆」と呼ばれる集団がいます。

三好長逸(ながやす or ながゆき)
三好宗渭(そうい)
岩成友通(いわなりともみち)

三好長慶の死後、家督を継承した若い三好義継を支えた三人。

松永久秀・久通父子ともども、三好政権を支えた屋形骨と言えますが、戦国ファンの皆様には「あぁ、足利義輝を殺した連中ね」という悪いイメージが先行してしまうかもしれません。

戦国ゲームや漫画でちょいちょい見かけはする。

しかし、いざ「どんな人物か?」と問われたら、一人一人のキャラは答えにくい。

今回はその中でも三好長逸(ながやす)について見て参りましょう。

 

三好一族長老として

三好長逸は、三好一族の長老として名声を確立しました。しかし、生没年すらわからない人物でもあります。

祖父の三好之長みよしゆきながは、子息と共に刑死しており、三好長逸の父はその四男・孫四郎長光とされています。

三好一族は畿内の戦乱の最中で落命する者が多く、生き延びただけでも長逸は敬愛される。三好長慶にとっても、長逸は頼れる親族でした。

畿内近郊の権力者として台頭してきた三好一族ですから、利害関係がぶつかる足利将軍家との対立は避けられません。

そこで長逸も一族重鎮として、度重なる戦いに参戦しております。三好長慶不在の折は、芥川山城主を務めており、非常に信頼されていたことがご理解いただけるでしょう。

 

義継を支え「永禄の変」へ

足利将軍家を圧倒して畿内を制し、織田信長に先駆けて天下人とも称されるようになった三好長慶。

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しかし、その後継者である三好義興が急死したことにより、政権運営は大幅な方針変更をせざるを得ない状況に陥ってしまいました。

そこで急遽、後継者として養育されたのが三好義継でした。三好長慶の弟である十河一存そごうかずまさの子です。つまり長慶と義継は伯父と甥の関係になりますね。

かくして永禄6年(1563年)、義継が16歳で家督を相続したときに支えとなったのが三好長逸たちです。

ただし、注意したいことがあります。それは松永久秀・久通父子のことです。

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三好長慶は、久通に目をかけておりました。我が子の世代同士で、支え合う体制の確立を意識しており、家臣団の中でも松永父子は重きをなしていきます。

そして義継の継承後、剣豪将軍・足利義輝が非業の死を迎える【永禄の変】が勃発するのでした。

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この事件は、注意が必要です。

 

誤解されがちな将軍・義輝暗殺の経緯とその後

将軍・足利義輝が、三好一派や松永らに殺害された【永禄の変】という大事件。

従来は、三好三人衆や松永久秀ら悪逆非道の仕業――として忌み嫌われるような描き方をされてきましたが、最近の研究結果によると、実は多くの誤解があるのでは?と指摘されるようになりました。

それは下記のようなものです。

①最初から義輝殺害が目的だったのか?

実は、武力で圧力をかける「御所巻き」により、譲位を狙った可能性が考えられます。
つまり暗殺ありきではなかったが、結果的にそうなってしまった。

②松永久秀は現地不在

義継に同行していたのは、子の松永久通です。

③義輝殺害への反応が鈍い

刀を手に取り敵を斬りまくったという義輝闘死のインパクトは非常に強烈ですが、当時の公卿日記等を見ると「えっ、誰かが死んだのやろか?」というような反応でした。
義輝は在京期間が短く、影が薄かったようです。

④三好三人衆結成はこの後である

三好長逸が京都にいたことは確かですが、三人衆となるのは事件後です。

無垢な少年当主の義継が、老獪な松永久秀や三好三人衆に担がれ暴走――そんな図式として語られがちなこの事件ですが、当時の史料や反応を見ていると、むしろ三好義継と松永久通、そして足利義輝らの対立が、血気盛んゆえに暴走してしまったようにも思えてきます。

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この事件からは、世代交代の失敗という図式も見えてきます。

ソフトランディングを目指したい親世代と、膠着を打破したい子世代が対立したんですね。

実際、事件の翌々日には三好長逸が義継代理として参内を果たしている姿が確認できております。彼なりに、情勢を安定させるべく動いていたのですね。

一方、松永久秀は、息子の久通が、義輝の弟・一乗院覚慶(のちの足利義昭)も殺害しようとした際、阻止しております。

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彼ら老臣からすれば、若い主君世代の暴走は幼稚で短絡的。

【永禄の変】とは、足利将軍家のみならず、その勢力を奪おうとする三好家の不安定な状況をも露呈させたのです。

 

家臣団の混乱 三好三人衆結成へ

足利義輝殺害について、周囲の反応は鈍かった。

それでも将軍の殺害ですから、じわじわと影響力は拡散していきます。

とりわけ松永久秀が延命させた足利義昭が脱出し、将軍権力の支持を訴え始めたことは厄介でした。

「久秀はどういうつもりだ!」

そんな不協和音が三好家臣団に響きわたり、松永久秀父子は権勢を失ってゆきます。長慶が目論んでいた体制が、崩れてしまったのです。

その最中に結成されたのが、

三好長逸
三好宗渭
岩成友通

つまりは「三好三人衆」の登場でした。

構図としては

松永久秀・久通
vs
三好三人衆

というわけですね。

結果的に、足利義昭を逃した久秀の判断は正解でした。三好義継は久秀を選び、義昭を擁立した織田信長と共闘を選びます。

一方、義継という主君だけでなく、時代を見据える能力も失ってしまった「三好三人衆」。

彼らは「信長包囲網」を形成するピースに過ぎない。織田家が凄まじい勢いで拡大していくのに対し、鈍い光のようになってゆくのでした。

 

信長包囲網の崩壊と共に消えゆく三人衆

義継の支持もない。
散々対立していた将軍家・足利義昭を今さら頼るわけにもいかない。

もはや三好三人衆は歴史の脇役に追いやられてしまいました。

彼らには、足利家ほどの権威も伝統もなければ、信長のような勢い、先進性もありません。

本圀寺の変】で義昭に襲いかかった際も、寡兵の明智光秀を相手に攻めきれないなど、ついに煮えきれない事態に陥り、当初は討伐を考えていた信長も率先して手を下すような対象でもありませんでした。

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織田家にとっては、その後、敷かれた信長包囲網の浅井長政朝倉義景の方が遥かに重要な問題でした。

しかし、その信長包囲網も天正元年(1573年)には崩壊します。

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・浅井朝倉の滅亡
・三好義継の滅亡
・足利義昭の追放

こうした周辺の強敵(包囲網)と共に、三好三人衆も丸ごと歴史の彼方へと追いやられていきます。

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信長を見誤ったことが終わりの始まりだった

三好三人衆の中で、三好宗渭の退場が最も早いと考えられております。

永禄12年(1569年)病死。

阿波でひっそりと世を去ったと『二条宴乗記』に記録があります。

そして岩成友通も天正年間に戦死します。

さらには三好長逸にいたっては、死因も没年も未詳なのです。

まさに消え去るような末路。信長の力を測りかね、松永親子と反目したことが三好家凋落の契機でした。

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文:小檜山青

【参考文献】
『中世武士選書31 三好一族と織田信長』天野忠幸
『松永久秀と下克上』天野忠幸
『織田信長家臣人名辞典』
『戦国人名辞典』
国史大辞典

 



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