山東京山文・歌川国芳画/流行猫の戯『道行 猫柳婬月影』

山東京山文・歌川国芳画/流行猫の戯『道行 猫柳婬月影』/wikipediaより引用

江戸時代

馬琴の執拗すぎる攻撃を受け続けた山東京山|もう一つの『べらぼう』も抜群に面白い

大河ドラマ『べらぼう』で注目される山東京伝と曲亭馬琴の師弟コンビ。

古川雄大さん演じる京伝の姿は軽妙で愛くるしく、一方、津田健次郎さんが演じる滝沢瑣吉こと曲亭馬琴は、ぶっきらぼうでデリカシーがなく、とにかくクセが強い。

この二人、一体どんな関係だったんだ?

というと、史実では、二人の間にはもう一人の偉大な文人がいて、非常にややこしい関係が築かれていました。

京伝の弟である山東京山です。

実はドラマ以上に“性格に難あり”とも思える曲亭馬琴は、師匠である京伝を罵ることも憚らず、弟の京山はそれに激怒。

そうしたややこしい関係から、京山もまた文人として作品を残していくのですから、『べらぼう』の蔦屋重三郎と喜多川歌麿以上に興味深い間柄と言えるかもしれません。

本記事では、そんな山東京山の生涯に注目しながら、ドラマでは描かれなかった京伝と馬琴にもスポットを当てて参りましょう。

🏯 江戸時代|徳川幕府の政治・文化・社会を総合的に解説

 

教養ゆたかな岩瀬家に生まれる

明和6年6月15日(1769年7月18日)、江戸深川木場の岩瀬伝左衛門に男子が生まれ、相四郎と呼ばれました。

岩瀬家は教養溢れる家。

宝暦11年(1761年)には長兄の尋太郎が生まれており、相四郎よりも8歳年長にあたりました。

尋太郎とは、『べらぼう』でも活躍していた、後の山東京伝です。

『江戸花京橋名取 山東京伝像』

『江戸花京橋名取 山東京伝像』鳲鳩斎栄里(鳥橋斎栄里)筆/wikipediaより引用

安永元年(1772年)に生まれた妹・よねは、黒鳶式部(くろとびしきぶ)と号し、狂歌をよく詠みました。

そして天明4年(1784年)に黄表紙『他不知思染井』(ひとしらずおもいそめい)を発表しています。

彼女はいわゆる早熟の天才であり、その後も活躍が期待されながら天明8年(1788年)、17歳で亡くなっています。

惜しまれる話です。

当時の江戸では、早熟な少女の文才を愛でる自由な空気があったことが伝わってきます。岩瀬家には、文化を愛するおおらかさがあったのでしょう。

そんな岩瀬家の中心にいたのは、長男の甚太郎でした。目鼻立ちの美しい美少年に育った彼は、おおらかで才知にあふれ、弟や妹に優しく接したのでした。

甚太郎改め伝蔵と名乗るようになった彼は、安永7年(1778年)、18歳で黄表紙『お花半七開帳利益札遊合』を発表しました。

さらにはその2年後の安永9年(1780年)には『娘敵討古郷錦』と『米饅頭始』を刊行。

天明2年(1782年)頃には、「山東京伝」を名乗り出していました。

以降、甚太郎と相四郎の兄弟はそれぞれ「京伝」と「京山」と記します。

前述の通り、天明4年(1784年)には妹・よねまでもが、黄表紙デビューを飾っていたのでした。

山東京伝を描いた浮世絵
『べらぼう』古川雄大が演じる山東京伝は粋でモテモテの江戸っ子文人だった

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しかし、田沼時代がもたらした自由闊達な空気はやがて翳りを帯びてきます。

 


改革の世を生き抜く岩瀬兄弟

寛政元年(1789年)、山東京伝が挿絵を提供した黄表紙本が咎めを受け、過料(罰金)を払うことになりました。

人気作家だった恋川春町が幕府から咎められ、急死を遂げた同年の出来事。

『吾妻曲狂歌文庫』に描かれた恋川春町

『吾妻曲狂歌文庫』に描かれた恋川春町/wikipediaより引用

版元の蔦屋重三郎に励まされ、どうにか筆を執り続ける京伝は、気の弱いところもありなかなか辛いことでした。

翌寛政2年(1790年)、京伝のもとに堅苦しい武士出身の青年が弟子入りを志願してきました。

当時24歳だった曲亭馬琴です。

推薦もなしに突如押しかけてきた馬琴に京伝は困惑しながら受け入れました。

かなり癖のある性格ながら、京伝の代筆をそつなくこなし、頼りになることは確かでした。

 

兄弟の決断 兄は商人、弟は武士となる

寛政3年(1791年)を迎え、寛政の改革による弾圧はいよいよ苛烈になってゆきます。

蔦屋重三郎と共に山東京伝も厳しい取り締まりを受け、五十日間の手錠刑に処されたのです。

ニュースは江戸中に広まり、精神が繊細な京伝は大きなショックを受けました。

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岩瀬家では、今後の方針を定めようとしたのか。

堅実な転換をはかっています。

弟の山東京山は寛政3年(1791年)に叔母・猪飼氏の養子となり、篠山藩に仕えることに。

弟が武士となった一方、兄の京伝は寛政5年(1793年)、銀座に「京屋伝蔵店」を開きました。

歌川豊国『山東京伝の見世』

歌川豊国『山東京伝の見世』/出典:ColBase

文人として名高く、遊女を妻にした京伝です。トレンドに敏感な江戸っ子は、彼のセンスを真似るため店に足を運びました。

京伝は、主な稼ぎを商人として得るようになったのです。

そんな兄のもとへ、弟が帰ってきたのは寛政11年(1799年)のこと。

武士として8年間の勤めを終え、致仕してきたのでした。

危機を乗り越えていた岩瀬家は、商家として軌道に乗っている上、兄弟揃ってセンスも教養も錆びついてはおりません。

文化3年(1804年)、京山の店は江戸の大火で土蔵のみを残し燃え尽きました。

焼け跡でも商売を続ける兄・京伝と、弟の京山は共に歩み続けますが、どうしても許せぬ事態が発生します。

兄のもとに押しかけ弟子となっていた曲亭馬琴が、牙を剥き始めたのです。

 

京山が馬琴に激怒「あの恩知らずが!」

新吉原生まれの蔦屋重三郎は、遊郭発の文化を生み出し、そんな彼の目にかなったカリスマ文人が山東京伝でした。

生き方そのものが粋。

スマートな美男子。

天女のような新吉原の遊女を二度も妻に迎える京伝は、江戸っ子にとっては憧れの的です。

しかし寛政の改革以降、華やかな京伝の作品は規制の対象となり、本人の意欲も低下しています。

そんな時代に、新たなる戯作者として台頭してきたのが曲亭馬琴でした。

曲亭馬琴の肖像画

曲亭馬琴(滝沢馬琴)/国立国会図書館蔵

武士の出だけに教養がある。

中国の通俗小説も存分に吸収してきた。

おまけに執拗なまでのパワーを備えていて、師匠を追い抜いてもおかしくない勢いがありました。

そうして弟子が出世していくだけなら京伝も京山も納得できたことでしょう。

しかし、馬琴には悪癖がありました。

誰の得にもならない“同業者バッシング”を繰り返し、しかもその対象には、師匠である山東京伝も入っていたのです。

そもそも、京伝に押しかけで弟子入りしたのは馬琴。

偏屈な彼に縁談をまとめたのも、京伝と蔦屋重三郎たちでした。

それなのに馬琴は、京伝についてともかく陰険なことを書き散らかしました。

甘やかされたボンボンで、ものの値段すら知らない。

そもそも遊女を妻にするなんて、まともな人間のすることか?

遊女出身の妻を二度娶った京伝へあてこすりとしか言えないものを書くのです。

温厚で争いを避ける性格の京伝は諦めていましたが、弟の京山は怒りました。

「あの恩知らずが!」

馬琴は、性格に難がある生来のトラブルメーカーであり、妻とも周囲とも、とにかく揉めていました。

一方で山東京山は、家族にも仲間にも優しい人格者です。

要するに、馬琴が悪い。

なんであんな奴を弟子入りさせちまったんだ。そう悔やんでも、時既に遅しでした。

 


兄・京伝の遺作『骨董集』完成を見届ける

山東京山は兄ほど順調な道を歩んではおりません。

二度の結婚は失敗し、三度目でやっと落ち着いた。

ただし、遅咲きの芽は、兄と入れ替わるように芽吹いてもいます。

文化4年(1807年)には『復讐妹背山物語』を刊行。

馬琴ほどの売れ行きではないけれど、文人としてのキャリアを堅実に積み重ねてゆきます。

京山には、プロデュース力や企画をまとめあげる力がありました。馬琴には欠けている才能です。

そんな京山の才能が生かされた例として、兄・京伝による最晩年の作品があります。

文化12年(1815年)、京伝は心身の衰えを感じていながらも、最期の一仕事として考証随筆集である『骨董集』刊行に全力を注ぎ込みました。

山東京伝『骨董集』

山東京伝『骨董集』/国立国会図書館蔵

これまで得た知識の集大成であり、中身の確かさやデザインセンスは、京伝ならでは。

しかし、その話を耳にした馬琴が、持ち前の知識、パワー、粘着性をフル回転させ、ジャンルのかぶる『燕石雑志』をぶつけてきて、先んじて刊行したのです。

兄弟にとっては馬琴の動向など、知ったことではなく、とにかく書くしかありません。

京山は、懸命に執筆する兄を支え、見守り続けました。

半身に痛みを覚え、湯治しながら執筆に挑む京伝。弟の助力があって、どうにか『骨董集』の刊行にこぎつけました。

そして、その翌文化13年(1816年)、京伝は息を引き取りました。享年55。

続編を刊行するため、息絶える6時間前まで筆を執り続けた京伝。

死を前にしてそんな事ができたのは、弟・京山の協力あってのことです。遺稿の出版も果たしています。

そんな感動的な兄弟の絆を、またも邪魔するのが馬琴でした。

 

京伝・京山についてデタラメを書く馬琴

山東京伝には、歳の離れた恋女房がいました。

もとは新吉原の遊女であった百合です。

夫と恋に落ちて、愛し抜いた彼女は、夫の死後、泣き叫び続けました。

困り果てた京山は、ついに百合を物置に監禁してしまいます。

そして文化15年(1818年)正月、百合は夫から遅れること一年あまりで亡くなってしまいました。

馬琴がこの事態を見逃すわけもなく、文政2年(1819年)に『伊波伝毛乃記』という評伝を出版します。

「いわでものき」(言わないでもいいもの記録)というタイトルが付けられ、攻撃する気まんまん。

本の中で馬琴は「京伝の葬儀に参列した」と書いていますが、事実ではありません。息子の宗伯に参列させ、彼自身は欠席している。

にも関わらず、まるで見てきたようにスキャンダラスな暴露記事をかましました。

現代風にして記すと、以下のような内容となります。

「スクープ! あのカリスマ文人一家のドロドロ内部事情!」

京伝が死ぬと、京山が京橋から京伝の店に一家総出で引っ越してきた。

そして百合を物置に閉じ込め、狂って死ぬまで追い詰めたのだ。

百合は、京伝前妻の祟りにより狂ったとされる。前妻が病気で倒れたころから、京伝は遊女であった百合のもとへ入り浸っていたのだ!

おわかりいただけたであろうか……前妻が怒るのも最もなことだ。

京伝の不埒な好色が、このおそるべき事態を招いたのである――。

いかにも、因果応報が好きな、馬琴がこしらえたように思える話です。

京伝には実子がおらず、弟の京山一家が家業を継ぐことは悪いことでもない、当然の流れです。

京伝の二人の妻にしても、彼は前妻の死後喪に服し、歳月をあけてから百合と馴染んでいました。

つまり馬琴の大嘘。

京山からすれば、冗談じゃねえ、ふざけるな、このでまかせ野郎が!――と激怒しても仕方ない記述です。

2024年公開の映画『八犬伝』で馬琴は、己は何も悪事を成したことはないと、堂々と語っています。

映画『八犬伝』のレビュー/役所広司さん演じる曲亭馬琴と、内野聖陽さん演じる葛飾北斎。二人の偉大な戯作者と絵師、そのやりとりから目が離せない。大河ドラマ『べらぼう』と合わせて見るとより楽しくなれる作品。
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馬琴本人の認識はそうでしょう。

しかし、京山が聞いたら「嘘つきやがれ、馬鹿野郎!」と怒り狂いそうな言葉でした。

 


京山vs馬琴、歳老いてもまだ揉める

そんな馬琴のせいで、後世、山東京山の評判は落ち込むことになります。

しかし、それはあくまで当事者が亡くなってからの話。

偏屈で毒舌の馬琴は、文人仲間にも版元にも、煙たがられていました。

一方の京山は、兄から引き継いだ商売にせよ、文人家業にせよ、二足の草鞋をそつなくこなしています。

京山が兄から継いだのは家業だけでした。

「京伝」の名前は嫡男にゆずり、自分の名義で作品を手がけていたのです。

しかし今度は、兄の名を継がせたその嫡男が頭痛の種となりました。19歳から23歳までの4年間で200両もの大金を使い果たし、親としてもはや庇いきれなくなったのです。

天保2年(1931年)、京山は息子を勘当し、長女の婿を後継としました。

息子には困った京山ですが、娘はなんと長州藩毛利氏に仕え、寵愛を受けると、なんと京山まで三百石を下賜されます。

よほどそれが気に入らなかったのでしょう。馬琴は「女と坊主は玉の輿に乗るよな」と毒舌コメントを放ちました。

宿敵の馬琴も、家庭面では苦しんでおります。

天保6年(1835年)、病弱だった息子の宗伯が先立ってしまったのです。

馬琴の悲願は、武士としての滝沢家存続でした。そのためには御家人株を買うしかない。されど金はない。

自尊心の塊である馬琴は、恥辱にふるえながら孫のためにイベントを開きます。

書画会です。

大河ドラマ『べらぼう』でも他ならぬ山東京伝が開いていましたが、読者や文人を集めて食事をふるまい、書画を売るファンサービスです。

かつては京山が書画会を盛んに開催しており、それに対して馬琴は「インフルエンサービジネスに頼っている」と辛辣な批評を加えていました。

その馬琴が古稀を過ぎ、書画会を開催したのです。

馬琴は原稿料のみで暮らすことのできた最初期の日本人作家とされます。

しかし、それも我が子に先立たれるまでの話。孫に御家人の株を買うとなれば背に腹は代えられない状況です。

「ざまァみろ!」

京山は快哉を叫びました。二人ともいい歳をして、大人になりきれないものです。

都市部では寿命も伸びてきた江戸時代。文人同士はしつこくねちこく、さらなるバトルを繰り広げたのでした。

 

第三の男・鈴木牧之を挟んで過熱するバトル

山東京山のキャリアは奇妙なもので、馬琴との確執期間が長く、存在感を放っています。

そこへ、二人と同年代である第三の男が加わり、因縁の対決はさらに盛り上がります。

江戸から遠く離れた雪深い越後――そこに鈴木牧之(ぼくし)が暮らしておりました。

◆曲亭馬琴:明和4年(1767年)〜嘉永元年(1848年)享年82

◆山東京山:明和6年(1769年)〜安政5年(1858年)享年90

◆鈴木牧之:明和7年(1770年)〜天保13年(1842年)享年73

全員同年代かつ長寿。

彼らよりやや年上、浮世絵師の葛飾北斎も長寿を保っています。

宝暦10年(1760年)に生まれ、嘉永2年(1849年)に亡くなるまで絵筆を執り続け、百歳過ぎてまで描くつもりであったのです。

旺盛な執筆欲が生命力に結びついたのでしょうか。

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そんな江戸のクリエイターバトルに参戦してきた鈴木牧之は、もともと越後の裕福な商家の出。

家業をこなしながら書画をも嗜む、風流な文人でした。

なにせ当時の江戸は爛熟しつつある文化の時代です。

若い頃から父に俳諧を習い、江戸の文壇にも興味を抱くようになった鈴木牧之は29歳のとき、当時のトップスター・山東京伝に原稿を送りました。多額の謝礼つきです。

越後の雪深い様子をつづった絵や文を、江戸で出版したい――。

そんな夢を抱いていた牧之ですが、京伝のもとではなかなか出版にまで漕ぎ着けません。江戸や大阪の文人に託すも結果は同じでした。

そんなとき興味を示したのが曲亭馬琴です。

牧之はすでに48歳。ようやくこれで悲願がかなう!と感無量の牧之には画才もあり、馬琴の代表作『南総里見八犬伝』の挿絵を描いたこともあるほどです。

しかし、です。馬琴は、牧之の原稿を預かったまま、10年以上塩漬けにしました。

還暦を控えた牧之は、このままでは死にきれんと思ったのでしょう。

原稿をなんとかして欲しいと頼み込んだところ、馬琴は怒涛の塩対応。

「誰か別の人に頼みなさい」

そりゃないでしょうよ!

怒りと絶望に包まれた牧之は、どうにか伝手を頼って山東京山に行き着きました。

兄の京伝とも関係のある牧之の依頼とあって、京山は出版を請け負います。

しかし、大きな問題があります。

原稿を預けたままの馬琴と京山は犬猿の仲。

案の定、この話を聞いた馬琴は怒ります。なぜ、よりにもよってアイツなんだ!

そうして原稿の返却を拒否するのです。

牧之はまたも原稿を書き直す羽目になるのでした。通算五度も書き直したというのですから、牧之の執念もかなりのものでした。

 


『北越雪譜』にしつこく絡む馬琴、苛立つ京山

天保8年(1837年)、やうやく鈴木牧之による出版の目処がたちます。

馬琴は、事前にタイトルだけはつけていて『越後雪譜(ほくえつせっぷ)』とされました。

京山は『北越雪志』に変更しようとします。

しかし、版元との打ち合わせでこう言われました。

「いい内容ですね。ただ、タイトルは『雪譜』のほうがキャッチーで売れると思うんですよ」

なるほど、一理あるぜ。牧之も京山もそう納得して、タイトルは『北越雪譜』に決まります。この件は、馬琴にも承諾をとったはずでした。

それがいざ出版目前となると、馬琴は蒸し返す。

「『雪譜』とは、わしが名付けた」

てやんでぇ、いいかげんにしろィ!

京山はカーッと頭に血が登ったことでしょうが、ともあれ『北越雪譜』で押し切ります。

さすがにすべて片付いたのかと思いきや、馬琴の不可解な行動は続きました。

馬琴から、京山のもとにいる牧之宛の荷物が届きます。やれやれ、原稿か。京山が荷物を開けると、そこにあったのは馬琴の遺児・宗伯の遺稿でした。

一読した京山は、その才能を認めざるを得ません。

「あの人はもう歳だというのに、まるで鬼神の文才だ。筆を執っては三舎は避けるしかない(三舎を避ける=三日分の行軍距離、かなわない相手だという意味)。まったくかなわん」

そう認めつつ、ヤツは父親としてどうしようもないと貶す京山。

なぜ父として、生きているうちに息子の原稿を編纂して出版しなかったんだ!

それでも人の親か、このろくでなしが!

だいたい、なぜ牧之の原稿ではなく、息子の遺稿をオレに送ってくるんだ……まったくもって、わけがわからない。

鈴木牧之悲願の『北越雪譜』は刊行後、大ヒット。続編の刊行にまで至ります。

40年間、出版の夢を諦めず、71歳まで続編を描き続けた鈴木牧之こそ、なんとも見事な文人ではありませんか。

現在でも手に入る『北越雪譜』は、細やかな観察眼と、深い雪のなかにあるあたたかみを感じさせる名著です。是非とも手に取ってみてください。

鈴木牧之著『北越雪譜』

鈴木牧之著『北越雪譜』/wikipediaより引用

物を見抜く願力があり、面倒見もよい山東京山は、サポート役に回ることでキラリと光る才知がありました。

『北越雪譜』も京山あってこの傑作と言えるでしょう。

こうして三つ巴となった文人バトル。

当事者たちは古希を迎え、ようやく落ち着く……のかと思いきや、まだまだ続くのですから凄まじいというかなんというか……。

 

江戸の「猫じじ」、猫ブームをもたらす

人気漫画からアニメ化された『猫に転生したおじさん』が2024年に話題となりました。

おじさまたちが猫にメロメロになる様が微笑ましいもので、実は東アジア伝統ともいえる姿でもあります。

ヨーロッパで、猫といる人間といえば魔女が定番。

一方、東アジアでは、ネズミから書物を守るものとして、文人のお供でもあったのです。

山東京山こそ、江戸後期の「猫おじ」ならぬ「猫じじ」でした。

江戸時代初期、放し飼いが解禁されて以来、猫は増え続けながら北上し、江戸の街を闊歩するようになっていたのです。

猫ちゃん大好き。かわいいねえ、まったく江戸は猫の街だよ。

モフモフに魅了された京山は、こう書き記しています。

京山猫好き故、三匹養う――。

猫大好きで三匹も飼っていたんですね。

そんな京山は、売れっ子絵師と意気投合します。

江戸でも有名な猫道楽の歌川国芳でした。

「歌川派にあらずんば絵師にあらず」

そう言われるほど人気を博した歌川派の中でも、トップの絵師であった国芳もまた、猫を愛し、仕事机の周りには常に数匹いたほどでした。

国芳は、美人画でも、かわいらしい猫と戯れる江戸娘を描き、この頃には擬人化猫の絵がヒットを飛ばすようになっています。

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版元も、猫がブレイクすると当たりをつけたのか。

天保13年(1842年)、二人の猫好きがタッグを組んで『朧月猫草紙』を刊行しました。

加齢のためか、耳が遠くなった京山。そんな彼にあやしい医者が不思議な薬を調合する。

と、なんと猫チャンの言葉がわかるようになるではありませんか!

そして聞き取った、かわいいニャンコの大冒険――。

そんなモフモフと甘ったるいお話でした。

鰹節問屋に暮らしていた雌猫のおこまちゃんが、イケメンニャンコと恋をする。ファンシーで、国芳の絵がひたすらかわいい!

本が売りに出されると、江戸っ子は夢中になって読み漁りました。

まさしく企画の勝利でしょう。

江戸の貸本屋は、各家庭の女性が対応するのが常でした。子どもが興味津々で手を伸ばすこともよくあります。

そんな女性や子どもが国芳の愛くるしい絵に釘付け。

「おっかあ、これみて、かわいい〜!」

「どれどれ、あらッ! ギャンカワだねェ、ちょっとこれを読んでみようかぃ」

そうしてどんどん借りられてゆく。まさしくブルーオーシャンでした。

山東京山文・歌川国芳画/流行猫の戯『かゞ見やま 草履恥の段』

山東京山文・歌川国芳画/流行猫の戯『かゞ見やま 草履恥の段』/wikipediaより引用

山東京山文・歌川国芳画/流行猫の戯『道行 猫柳婬月影』

山東京山文・歌川国芳画/流行猫の戯『道行 猫柳婬月影』/wikipediaより引用

幕府の厳しい改革もあり、萎縮気味であった版元にとって嬉しいスマッシュヒットの誕生でした。

猫が題材ならば規制も受けにくい。

江戸は猫ブームを迎えるのですが、これに苛立つ男がいました。

馬琴です。

なにせ、京山本人も認めるように、文才では圧倒的に馬琴のほうが上。

それがこんなファンシー路線で一躍ブレイクするなんて……腹が立って仕方なかったことでしょう。

 

遅咲きの洒落た作家として幕末まで執筆

『朧月猫草紙』は、国芳のかわいらしい挿絵が人気を集めているともされました。

馬琴は怒りの矛先を国芳にまで向けます。

「国芳め、あいつは才能がない、錦絵以外は大きく落ちる、大したことがない!」

国芳は馬琴の作品である『椿説弓張月』や『南総里見八犬伝』の錦絵も手がけておりますので、そこは馬琴なりに配慮した批判なのでしょう。

歌川国芳『正一位為朝大明神肖像』

歌川国芳『正一位為朝大明神肖像』/wikipediaより引用

歌川国芳『本朝水滸伝剛勇八百人之一個・犬江親兵衛仁

歌川国芳『本朝水滸伝剛勇八百人之一個・犬江親兵衛仁/wikipediaより引用

しかし、負けず嫌いの馬琴はそこで終わりません。

「あんなもんはなァ、国芳の絵がいいから売れてんだよ!」

そう思ったのか。

馬琴はちゃっかり、過去に出版した猫本『猫児牝忠義合奏』の挿絵を国芳に頼み、再出版したのです。

勇ましい武者絵と物語絵では並ぶものなしと称された国芳一門。

その弟子たちは、いつしか猫絵もマスターしました。近年、開催が増えた猫がテーマの浮世絵展覧会は、国芳とその一門づくしです。

馬琴は目の酷使がこたえたのか、最晩年は失明し、亡き息子の嫁である路が口述筆記をこなすようになっております。

最大の作品である『南総里見八犬伝』は、そうして完成にこぎつけております。

そんな馬琴は、京山なんぞ、猫ブームの一発屋だと思いたかったことでしょう。

どっこい70代でブレイクを果たした山東京山は、精力的に執筆をこなします。

76歳から88歳まで、ざっとこれだけの作品を出版しているのです。

『教訓乳母草紙』
『教草女房形気』
『蜘蛛の糸巻』
『歴世女装考』
『琴声美人録』
『茂睡考』
『娘庭訓家鶏』

京山の作風は、平易で読みやすく、婦女子の心をくすぐるソフトさがあります。

しかも読めば教訓も身につく。現在の女性誌にも通じるファッショナブルなものでした。

それにしても、江戸娘のハートを掴むオシャレな本を、70過ぎた作家が手がけるなんて、凄まじいことではありませんか。

彼のそんな作風は、幕末へと向かいゆく時代とも噛み合っています。

都市部で女性の教育が高まり、識字率もあがっている。

そんな世相と一致。早熟の兄と晩成の弟でしたが、両者とも世相をうまく汲み取るセンスに恵まれていたのですね。

宿敵である馬琴は嘉永元年(1848年)に亡くなりました。それから京山は10年間生き、執筆を続けます。

そして安政5年9月24日(1858年10月30日)、当時大流行したコレラに罹り、京山は亡くなりました。

享年90。

幕末の大事件である【安政の大獄】の年まで生きていたのです。コレラさえなければ、もっと長生きできたかもしれません。

兄と比べて知名度は低い京山。

代表作もファンシーすぎるためか、まず教科書にも掲載されません。

活躍期間がズレたせいか、大河ドラマ『べらぼう』にも登場の機会はありませんでした。

とはいえ、江戸に猫ブームをもたらした功労者、いわば「猫じじ」として今こそ再評価したい人物です。

こんなクリエイターがいた江戸とは、なんとユニークで豊かな街であったのか!

そう思える人物でしょう。

なお、山東京山の『朧月猫の草紙』は、『おこまの大冒険: 朧月猫の草紙』として愛くるしい絵本になって出版されております。

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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