津軽為信の肖像画/戦国時代に南部氏からの独立を企て、秀吉に認められた東北随一の謀将

津軽為信/wikipediaより引用

戦国諸家

東北随一の謀将・津軽為信|秀吉に近づき南部氏から独立 今も続く犬猿の仲?

12月5日は東北地方の戦国武将・津軽為信の命日です。

正確には慶長12年12月5日(1608年1月22日)であり、その生涯、東北エリアでは伊達政宗や最上義光並に戦国ファンの興味をそそる存在かもしれません。

というのもこの為信、主家の南部氏に対して戦いを挑んだかと思ったら、どさくさ紛れに秀吉からの認可を得て、無事に大名としての独立を果たしてしまうのです。

抜け目ないというか、“謀将”というか。

地元の方にはよく知られているように津軽と南部の不仲、その原因となった人物でもあります。

では為信は実際に何をしたのか?

生涯を振り返ってみましょう。

津軽為信の肖像画

津軽為信/wikipediaより引用

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そもそも津軽氏とは

まずは津軽氏の出自について、ほんのちょっとだけ前置きさせていただきます。

というのも「津軽氏の祖先は藤原鎌足」など、いわゆる名門説はありますが、まだ確証はできていないのです。

有力視されているのは、戦国時代中期にいた大浦光信の子孫とするもので、元を辿ると南部氏に行き着く。

大浦光信の肖像画

大浦光信/wikipediaより引用

また、大浦光信の孫である大浦政信が近衛家と親戚関係にあるとされ、近衛家もこれを認めているため、津軽家と近衛家との間ではたびたび婚姻が行われたとか。

しかし、後年に系図が改ざんされたという指摘があり、これまた真偽のほどは不明です。

つまり何かと怪しい。

まぁ、それでも戦国時代の公家としては、遠方で租税を確保してくれる武家を味方につけておいたほうが有利ですので、互いに利用しあったとも言えるでしょう。

東北地方では十三湊や酒田など、古くから開かれた港も存在しており、海路での付き合いはしやすかったのかもしれません。

こうした状況を踏まえておくと、津軽為信が東北に一大勢力を築くに至った経緯も俄然興味深くなります。

前述のとおり、南部と津軽が“犬猿の仲”であることに繋がるのです。

というわけで為信の生涯へと参りましょう。

 


津軽為信の生い立ち

血縁については不明点が多い津軽為信は、天文十九年(1550年)の元日に赤石城(青森県西津軽郡鰺ヶ沢町)で生まれたとされます。

父は堀越城主(弘前市)の武田守信。

母は武田重信の娘とされます。

為信は、永禄十年(1567年)頃には大浦為則の養子に入って大浦氏を名乗るようになりました。

大浦為則の肖像画

大浦為則/wikipediaより引用

南部氏の傘下にあった彼らは、どのようなキッカケかは不明ながら、独立を目指して戦を始めていきます。

まずは元亀二年(1571年)に南部家臣で石川城の南部(石川)高信を討ち、天正十六年(1588年)頃まで津軽方面へ侵出していきました。

 

豊臣政権への接近

津軽為信の動きは天正十七年(1587年)頃には中央にも聞こえていました。

というのも前田利家から南部信直への書状に次のような内容が記されているのです。

「南部氏の内部に反逆者がいると聞いた」

東国への惣無事令もすでに出された後ですから、違反者がいることを懸念しているのですね。

為信もどこかのタイミングでこれを知ったのでしょう。

すぐさま豊臣秀吉に鷹を贈るなどして、中央政権との親交に力を入れ始め、さらに外交力を発揮します。

天正十八年(1590年)に秀吉が小田原征伐を始めると、為信は南部信直よりも早く参上したのです。

豊臣秀吉の肖像画

豊臣秀吉/wikipediaより引用

南部氏にとっては、独立を企てて戦いを挑んでくる津軽が、秀吉に認められるとマズイことになる。

実際、為信は秀吉との交渉をまとめ、津軽の領地を認めてもらいます。

南部にしてみれば言語道断の話ですが、時すでに遅し――為信はこれを機に名字を「津軽」に改め、正式な独立大名としての歩みを始めます。

ただし、為信に認められた3万石の領地の内には、太閤蔵入地が設定されていました。

収穫を奪われるデメリットはある一方、為信が秀吉の「蔵入地代官を兼ねている」という立場を手に入れたことにもなります。

これまた南部側から見れば「ぐぬぬ」となるわけで……。

南部信直の肖像画

南部信直/wikipediaより引用

 

肥前名護屋でも抜け目なく

首尾よく豊臣政権に潜り込んだ津軽為信。

天正十九年(1591年)には近隣で起きた九戸政実の乱(九戸一揆)への参戦を求められ、このときは大谷吉継に従いました。

文禄元年(1592年)には文禄・慶長の役のため、肥前名護屋の秀吉へ陣中見舞いに訪れています。

ドローンで空撮した名護屋城の本丸と遊撃丸

ドローンで空撮した名護屋城の本丸と遊撃丸

名護屋には秀吉以外にも多くの大名が滞在していたため、為信はこれを好機と捉え、積極的に交流を図ります。

ほんと抜け目ない方で、秀吉とウマが合いそうです。

が、最大の目的である南部氏との和解までは達成できません。

為信は、南部氏と安東氏が和解したと聞き、

「誰かに仲介してもらえばウチと和解できるかも」

と考えたらしいのですが、さすがに経緯が経緯な上に、前田利家が為信の性格に懸念を抱いたことから、うまく行かなかったようです。

それを知った為信は利家とも関係を改善しようと試みたものの、やり方が相当まずかったらしく、前田家の家臣に追い返されてしまいました。

利家は多くの大名との連絡役を務めていましたので、

前田利家の肖像画

前田利家/wikipediaより引用

前田家臣たちも多少のトラブルは慣れていたはずなのに、それでも邪険にされるって相当ですよね……。

為信、いったい何をしたのでしょう。

しかし転んでもただでは起きないのが為信であり、以降、公家たちとも関係を築こうと努力を重ねます。

近衛家から牡丹の家紋と藤原姓の使用を許されたり、京都や大坂などに邸を築いて外交の窓口にしたり。

あらゆる方法で自分の地位を上げ、定着させようとしていたことがうかがえます。

 


徳川への接近

悪運が強く、粘り強い。

そんな津軽為信は地理的にも恵まれていました。

津軽は近畿から見ればはるか遠方ですから、秀吉の晩年~死後の政争に大きく巻き込まれずに済んでいるのです。

為信は、長男の津軽信建(のぶたけ)を豊臣秀頼の小姓として出仕させていたため、マメに情報を手に入れていたのも大きかったのでしょう。

関ヶ原の戦いでは、信建を人質に取られたような形になりましたが、津軽領周辺は圧倒的に東軍が多数。

そんな状況で津軽氏だけが西軍につくことは難しく、為信は三男の津軽信枚(のぶひら)を連れて西軍方の大垣城攻めに加わりました。

津軽信枚の肖像画

津軽信枚/wikipediaより引用

この戦は関ヶ原本戦よりも長引き、津軽軍も本戦には参加できなかったと思われますが、信枚が家康本陣にいたという説もあります。

ただし、戦後に信建が三成の息子を逃がしたことも影響したのか、津軽氏への恩賞は上州大館のわずか2000石だけに留まっています。

他の大名との兼ね合いも当然あったでしょう。

同時に「津軽は油断ならない奴」と警戒された感もありますね。

しかし、その辺の匙加減は為信としても自覚していたはずで、事を荒立てる気にはならなかったと思われます。

下手をすれば「津軽は取り潰し! 旧津軽領は南部に返す!」なんてことにもなりかねませんので。

 

息子の後を追うように亡くなる

徳川政権の樹立後、津軽為信は鷹岡城(現・弘前城)の建築を始めるなど、内政に力を入れました。

残念ながら自身の存命中に城は完成しなかったものの、現存天守のひとつとしてよく知られています。

現代では桜の名所として有名ですね。

弘前城と桜

弘前城(弘前公園の桜・外堀)

しかし、ここまで順調にやってきた津軽為信も、最晩年には一気に不幸に見舞われます。

慶長十二年(1607年)、京都にいた長男の津軽信建に先立たれてしまうのです。

為信は見舞いに駆けつけようとしていたのですが、間に合わなかったようで……よほど気落ちしたのか、同年12月5日に自身も亡くなってしまいました。

しかも亡くなるまで隠居しておらず、また後継者も定めていなかったため、この後、お家騒動が勃発してしまいます。

信枚(為信三男)

熊千代(為信長男・信建の遺児)

両者のどちらが家督を継ぐか?で揉めに揉めたのです。

主君として最も大事な仕事を放置しておくとは……何かと目端の利いた為信も、自身の死期まで冷静には判断できなかったんですかね。長男の死もありましたし。

長引けば改易もありえる状況の中、家督争いに勝利したのは、幕閣を多く味方につけた信枚でした。むろん津軽藩も無事に存続しています。

津軽氏と南部氏の対立はこの後も長く続き、江戸時代や幕末どころか今なお不仲の炎は燻っているとか。

青森県には「津軽弁」と「南部弁」という方言があり、通じない単語があるのもその影響でしょう(他に下北半島の「下北弁」もあります)。

無理やりポジティブに考えると「遺恨=歴史が語り継がれている」ということでもありますね。

為信も、今後ゆっくり解消されていくことを草葉の陰で見守っているのではないでしょうか。

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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