東北の名門武家といえば?
奥羽の伊達氏か最上氏か――両家を思い浮かべる方が圧倒的に多いかと思われますが、血筋的に全く遜色なく、本州最北端エリアで一大勢力を誇った一族がいます。
南部氏です。
新羅三郎で知られる源義光(甲斐源氏)の流れを汲み、波乱続きの鎌倉時代や室町時代も生き残った、この南部氏。
戦国時代には
・南部晴政(24代当主)
・南部信直(26代当主)
という著名な武将も輩出しており、『信長の野望』などの戦国ゲームでご存知の方も少なくないでしょう。
今回は、そのうち南部信直に注目。
晴政と共によく聞く名前ですが、いったい両者はどんな関係だったのか?
信直はどんな人物だったのか?

南部信直/wikipediaより引用
その生涯を振り返ってみましょう。
信直が後継者候補となるが
前述の通り南部氏は、武田信玄で知られる甲斐源氏・源義光の子孫。
義光から数代後の南部光行が始祖となり、さらに数代進んで、南北朝時代に東北エリアでの基盤を固めたとされます。

南部光行/wikipediaより引用
以来、200年以上にわたって陸奥地方(青森県・岩手県・秋田県)で勢力を広げてきたわけですが、戦国時代に入り、南部信直が同氏を継ぐまでには少々ややこしい経緯がありました。
その流れ、ちょっとシッカリめに見ておきましょう。
まず信直は天文十五年(1546年)、父・石川高信(田子高信)の子として生まれています。
高信は南部氏じゃないの?
というと父は南部政康(南部氏22代当主)の次男であり、別の苗字を名乗ったのですね。
なぜなら政康の次に当主の跡を継いだのが、高信の兄である南部安信(23代当主)であり、その後、高信は田子城に入って田子(たっこ)を名乗るなどして、南部信直も若い頃は「田子信直」だった時期がありました。
いったん流れを整理しておくとこうです。
◆南部氏の略図
源義光
│
│
│
加賀美遠光
│
南部光行(加賀美遠光の三男で南部氏の祖)
│
│
│
南部政康(南部氏22代当主)
│
南部安信(南部氏23代当主)―弟・高信(信直の父)
安信が跡を継いだことで、高信と信直の親子は、相続最前線から一歩後退します。
そしてそのまま安信の系統に男児が続けば、信直が南部氏を継ぐことはなかったでしょう。
では、なぜ信直に出番が回ってきたのか。
というと、安信の次の24代当主である南部晴政が男児に恵まれなかったのですね。まぁ、いつの時代もよくある話です。
南部政康(南部氏22代当主)
│
南部安信(南部氏23代当主)
│
南部晴政(南部氏24代当主)※男児に恵まれず

南部晴政/wikipediaより引用
そこで永禄八年(1565年)ころ、信直が晴政の養子となって、晴政の長女を正室にしました。
信直にとって晴政は従兄弟であり、その娘と結婚することで信直は宗家の跡取り候補となったわけで……あらためて南部氏の略図を確認するとこうです。
◆22代以降の南部氏略図
南部政康(南部氏22代当主)
│
南部安信(南部氏23代当主)――弟に高信(信直の父)
│
南部晴政(南部氏24代当主)――従兄弟に信直
│
南部信直(後継予定)
しかし、ここからが波乱の展開でした。
危うく御家騒動へ
晴れて、晴政の跡継ぎとなった南部信直。
しかし、それからわずか数年で廃嫡とされてしまいます。
理由は超単純。
晴政に、待望の世嗣・鶴千代(晴継)が誕生したのです。

南部晴継/wikipediaより引用
おまけに晴政の娘だった信直の正室も亡くなってしまい、もはや信直に居場所はなく、元亀三年(1572年)ごろ田子城主へ戻りました。
親戚である主君に後から実子が生まれ、養子のお役は御免になった――この手のケースはいつの時代も御家騒動になりやすく、どこでも起きる話ですよね。
信直はスンナリと身を引いたほうでしょう。
そして25代当主となった南部晴継の血脈が続けば、信直も南部氏支城の一城主として生涯を終えたかもしれません。
状況が急変したのは、天正六年(1578年)から八年(1580年)にかけてのことでした。
南部晴継と晴政が、相次いで死去したのです。
二人の死亡時期については諸説ありますが、1~2年の間隔で亡くなったとなれば信直にとって都合の良すぎる展開であることから、暗殺説なども囁かれています。
なんせ、あまりにも棚ぼたな展開ですもんね。
とはいえ、南部氏としても後継者を立てないわけにはいかず、誰を次にするか? 家老たちの間でしばらく揉めることとなりました。
・晴政の長女と結婚していた信直
・晴政の次女が嫁いでいた九戸実親(九戸政実の弟)
両者のいずれかを当主とするか――それで意見が割れたのです。
このとき武力抗争があったとする史料と、「それは後世の創作だ」とする見方があり、正確なところは判然としていません。
いずれにせよ、最終的に選ばれたのは南部信直でした。
南部政康(南部氏22代当主)
│
南部安信(南部氏23代当主)
│
南部晴政(南部氏24代当主)
│
南部晴継(南部氏25代当主)
│
南部信直(南部氏26代当主)
なお、敗れた九戸実親は、天正十九年(1591年)の【九戸政実の乱】に加わり、豊臣秀吉に滅ぼされています。
そう、このころ東北エリアにも秀吉の覇権が届こうとしていたのです。
豊臣政権への接近
豊臣秀吉が関白に就任したのは天正十三年(1585年)7月のこと。
このことを知った南部信直は、翌天正十四年(1586年)の夏、家臣の北信愛を前田利家の下へ送り、こう申し出ています。

前田利家/wikipediaより引用
「関白殿下に従いますので、お取次をお願いいたします」
奥州名産として知られる駿馬や鷹、あるいは太刀などの献上品もきっちり持参。
殊勝さが認められ、信直は同年8月に秀吉の朱印状をもらい、領土を安堵されています。
実は『信長公記』にも記されているように、南部氏は天正六年(1578年)8月にも織田信長へ鷹を贈っています。
このときの使者が他ならぬ信直だった可能性もあり、早い段階から中央との繋がりを意識していたことが伺えるのは、鎌倉時代以来の名門武家だったからこそかもしれません。
同じく名門武家である最上義光も早くから中央との繋がりを意識し、徳川家康との関係も強めていました。
信直も、豊臣政権とは友好関係を保ち、たびたび鷹を求められたり送ったりしていました。
しかし、それだけに不思議なことがあります。
このころ南部氏に対して内戦を起こし、独立を画策していた津軽為信にキッチリしてやられてるのです。
一体どういうことか?
津軽為信に出し抜かれ
天正十八年(1590年)のことでした。
豊臣秀吉が北条氏を討つべく【小田原征伐】の軍を起こしたとき、南部信直の計算が狂います。
地元エリアで対立していた津軽為信が、信直よりも早く小田原へ参上し、南部領から攻め取った領地について秀吉から安堵されたのです。

津軽為信/wikipediaより引用
秀吉にとって東北はあくまで遠方のことであり、細かい事情を知らなかったためでしょう。
信直からすると領地を一方的に取られるわけで、許しがたい事態です。
しかも秀吉からは「南部家臣の妻子を三戸へ集めるように」とも命じられました。
要は、東北の支配を引き締めるための人質政策ですね。
南部氏の結束を強める意味合いもありましたが、これまで同エリアで行われていなかった人質の提出は、地元領主たちの反発を招いてしまいます。
それが【九戸政実の乱】へと発展し、信直の次の大仕事となってしまいました。
九戸政実の乱
奥州仕置の後、天正十九年(1591年)に反旗を翻した九戸政実。
もちろん豊臣政権から咎められ、秀吉の名のもとに討伐軍が編制されました。
同時期に葛西・大崎一揆なども起きていたため、秀吉は一気に片付けてしまおうと考えたのでしょう。
九戸鎮圧については
・浅野長政
・蒲生氏郷
・堀尾吉晴
・井伊直政
なども加わり、わずか数日で九戸城は落とされています。
当然のことながら信直も参戦し、近隣諸侯も同様でした。そう、あの津軽為信もです。
両者が接触したかどうかは不明ながら、やはり信直としては嫌な気持ちになったでしょう。
合戦の詳細は以下の記事にお譲りして、
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秀吉と敵対した最後の武将・九戸政実! 6万の大軍を相手に九戸城5千で籠城す
続きを見る
話を先へ進めますと、この後、南部氏には稗貫・和賀の2郡が与えられて10万石の大名となりました。
乱で荒れた九戸城は討伐軍の手ですぐに修繕され、後に信直が「福岡城」と名を改めています。
後年、筑前(黒田氏)の福岡城のほうが有名になったこともあってか、南部氏の城については旧名「九戸城」と呼ぶことが多いようです。

九戸城の堀/wikipediaより引用
九州の福岡はもともと”福崎”だったのを、黒田長政が移封された後(関ヶ原の戦い後)に改名したものなので、信直が名付けた福岡城のほうが先なのですけれどね。
名護屋での外交
こうして何か釈然としないものも抱えながら、豊臣政権に加わっていた南部信直。
遠隔地で雪深い土地であったためか、文禄元年(1592年)に始まった文禄の役においては、当初、渡海命令が下されませんでした。
しかし信直は、国内の前線基地となっていた肥前名護屋の地に出向いています。
豊臣秀吉のご機嫌取りだけでなく、他の大名と親交を持つ絶好の機会としたのです。
秀吉の目が届く場所ではお互いに迂闊なこともできませんし、むしろ疑われずに関係を作れると思ったかもしれませんね。
まずは秋田(安東)氏との和睦を試みています。
南部氏と秋田氏とは建武新政期から因縁の仲であり、一朝一夕にはうまくいかない状況でした。
しかし豊臣政権下では表立って争うことはできないため、信直はいっそのこと関係を改善する機会だと考えたようです。
そして同じく名護屋に滞在していた徳川家康の仲介で、秋田実季と「入魂」の関係となり、後に娘を実季の弟・英季に嫁がせるまでに改善しています。
南部家臣の中には割り切れない者もいたようですが、致し方ないことでしょう。
むしろ信直の切り替えが早すぎるともいえます。
一方、津軽為信も家康に仲介を頼んで南部氏との関係改善を画策していましたが、前田利家の忠告で棚上げとなりました。
信直としては、自分から和解を持ちかけるのは面白くないが、向こうから申し出てくるならそうしてもいいとは思っていたようです。
しかし利家が「津軽は二面性があって信用できない」と警戒、家康にも忠告したため、お流れになったようです。
そんな信直にとって最大の成果は、東北の目付役になっていた蒲生氏郷との関係かもしれません。

蒲生氏郷/wikipediaより引用
前年から起請文を交わしたり、嫡子・南部利直と氏郷の娘の縁組について相談をしたり、関係強化を図っていて、その延長線上といえるでしょう。
信直の書状では、氏郷の姪(姉の娘)である武姫を氏郷の養女とし、信直の長男・利直に嫁がせる話が出てきています。
後にこの結婚は実現し、二人の間には二男一女が誕生しました。
そして長子の南部重直があとを継ぎましたので、この結婚成立が南部氏にとって一番の”戦果”かもしれません。

南部重直/wikipediaより引用
文禄・慶長の役の噂話
南部信直は名護屋滞在中、国元へ多くの手紙を書いていました。
その中には当時の噂話や空気感も載っていて興味深いものです。
一時「唐(明)が降伏し『日本之唐』になる」という噂が立っていたとか。
しかし、5月頃には
「渡海していた大名が帰ってきたが、皆疲れ果てている。しかしそれを秀吉に知られると罰せられるため、誰も何も言わない」
という状況だったことも記されています。
誰かに見られたら危ういものですね。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
当時の苦況が伝わってくるばかりでなく、以下の文面からは、不満を抱いていたこともわかります。
「秀吉の周りの者は小者から大身になった者が多く、(我々のような)長く続いている家をバカにしている。
そのような者たちと付き合って恥をかきたくはない。
だから月に一度、前田利家殿にあいさつをする以外は付き合いをやめている」
豊臣政権の悪いところが出ているというか。
文禄・慶長の役という無茶を強行したせいで、加藤清正や福島正則あるいは黒田長政などが、石田三成や小西行長らに反発していたことはよく知られますが、そもそも政権自体がこの調子では……。
その後、南部軍に対しては、文禄二年(1593年)に渡海命令が出され、実際に朝鮮へ渡っています。
しかし、もともと200人程度しかいなかったためか、翌文禄三年(1594年)の春には帰国。
信直は名護屋へ行く前辺りから中風に罹っていたともされるため、その影響もあったのかもしれません。
関ヶ原の前に亡くなる
慶長三年(1598年)春にも南部信直は上洛を果たします。
しかし、いよいよ病が重くなり、翌慶長四年(1599年)10月5日に九戸城で亡くなりました。享年54。
慶長三年の夏に秀吉が亡くなり、豊臣政権内がきな臭くなっていく渦中でのことです。
幸い国元で亡くなったこと、息子の南部利直と共に徳川家康へ接近していたことから、信直死後の南部氏も混乱することなく東軍方として動いています。

南部利直/wikipediaより引用
「北の関ヶ原」こと慶長出羽合戦や、岩崎一揆にも南部軍が出陣し、所領を安堵されました。
信直も草葉の陰で喜んでいたことでしょう。
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参考文献
- 遠藤ゆり子・竹井英文 編『戦国武将列伝1 東北編』(戎光祥出版, 2023年, ISBN-13: 978-4864034401)
出版社: 戎光祥出版公式サイト(書誌情報)|
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