織田信長と織田信忠の親子は、どちらかというと似ていないところが多かったかもしれません。
同じものに対して、違った興味の持ち方をしていた話が多々あり、今回は「鷹」について注目。
天正六年(1578年)、信忠が岐阜城内で4羽もの鷹の子を育て上げ、信長に献上しました。
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難しい人工繁殖 最古の記録はあの宗滴?
鷹を育てるのは現代でも中々大変で、孵卵器を使い、人工的に孵化させてから育成となります。
戦国時代における猛禽類の育成はかなり難しいものだったでしょう。
ゆえに鷹匠という専門家が数多くいたともいえます。
越前の朝倉宗滴が鷹の人工繁殖に成功したとされていますが、これが世界最古の成功記録ではないかといわれているほどです。
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では信忠はどうしたのか?
というと『信長公記』には”鷹の子”とありますので、ヒナを見つけて育てたのだと思われます。
ただし、鷹といってもどの種類なのか、オスとメスは何羽ずついたのか、といった細かいことは書かれていません。
仮に、最も代表的なオオタカだとすると、4~5月に産卵して40日前後で孵化し、それからさらに40日前後で巣立ちの時期。生まれた年の8月ごろには、親元を離れて独立し、新たな縄張りを決めます。
鷹狩に使う鷹の場合は、9~10月頃に訓練をし、冬になってから狩りに用いていたようです。
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据え回し
『信長公記』には
「同年7月13日に、この4羽を二人の鷹匠に持たせ、安土にいる信長の下へ届けてきた」
とあり、その後、
「信忠が育てた鷹を用いて、信長が狩りをした」
と続きますので、おそらくは前年に生まれた鷹を信忠が育て、訓練が終わってこの年の鷹狩に使えるようになったので、信長に贈ったということでしょう。
この鷹を見た信長は1羽だけを受け取り、3羽は信忠に返したとか。
鷹匠二人にはねぎらいの言葉をかけ、褒美として銀子5枚ずつと衣服を与えたといいます。
3羽を信忠に戻したのは
『せっかくお前が苦労して育てた鷹だから、自分で多く使いなさい』
と伝えたかったのかもしれませんね。
鷹匠たちはおもわぬ褒美に、感動して帰っていったそうです。
陸奥の南部氏からも 使者は信直?
信長の鷹狩好きは広く知られていましたので、他の大名から鷹を贈られることもありました。
同年8月5日、今度は陸奥の南部氏が鷹を5羽届けてきたそうです。
このときの使者は「南部宮内少輔」と書かれていますが、実名がはっきりしていません。
南部氏の二十四代当主・南部晴政か、そのいとこで婿養子となった南部信直だと考えられています。
10日に、信長はこの使者を万見重元の邸に招き、接待するよう命じました。このとき、使者は直接信長に挨拶したといいます。
当主だった晴政が遠路はるばる安土に来たのなら、きちんと実名を書きそうなものです。
それでいて重臣である重元の屋敷に招いているあたり、この使者は信直の可能性が高そうですね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
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