里見義堯

戦国諸家

安房の戦国大名・里見義堯の生涯~後北条氏を相手に引かず 混乱の関東を生き残る

1574年6月19日(天正2年6月1日)は安房の戦国大名里見義堯が亡くなった日です。

関東の戦国大名は、後北条氏が圧倒的存在であり、今川や武田、上杉との争いばかりに目が移ろいがちですが、その他にも魅力的な勢力は存在していました。

里見氏もその一つ。

彼らが勢力を築いた安房(千葉)というと、後北条氏の相模(神奈川)からかなり距離があるように思うかもしれません。

しかし、船を使えば目と鼻の先にあり、両勢力は長い間、味方そして敵として、対峙してきたのです。

後北条氏を相手に剛柔使い分けながら、戦国時代の荒波を生き抜いた里見義堯。

その生涯を振り返ってみましょう。

絵・小久ヒロ

 


生い立ちと家系

里見義尭は永正四年(1507年)、ときの里見家当主・義通……ではなくその弟・里見実堯(さねたか)の息子として生まれました。

当時は、既に応仁の乱は終わっていた頃です。

結果、将軍の権威は地に落ち、関東では後北条氏が勢力を伸ばし始めるようになっていました。

父の実堯が拠点にしていた金谷城は千葉県房総半島の西側にあり、船であれば、後北条氏の勢力圏である相模まですぐの距離。

そんな状況の下、義堯は大永元年(1521年)頃に元服したと考えられ、大永七年(1527年)頃には正室を迎えています。

正室の名前も残念ながら不明です。

戒名が「妙光院殿」、法名が「正蓮」とのことなので、いずれかの文字が実名に入っていたのではないでしょうか。

女性名としては「妙」か「蓮」あたりが妥当ですかね。

ちなみに彼女、里見家の家中では「国母」と呼ばれて慕われていたそうです。

それでも名前は伝わってないのが悲しいですね。まぁ、当時の慣習からして、尊ばれていたからこそ実名は避けたという可能性も考えられますが。

義堯には正室の他に側室が一人いて、六男四女とされる子供のうち、どちらが誰を産んだのか?という点は不明。

実は子供の数も曖昧なんですが、義尭の家庭は良好だったことが予想できます。

というのも、義尭が歴史上に現れるきっかけとなった事件が物騒すぎて……一体どういうことか?少し詳しく見ておきましょう。

 


天文の内乱

天文二年から三年(1533〜1534年)にかけて、里見氏の内部で起きた乱を【天文の内乱】といいます。

ややこしいことに同時期に【天文の乱(1542~1548年)】が同じ東国で起きています。

伊達政宗の曽祖父である伊達稙宗が原因になった争いであり、

伊達稙宗/wikipediaより引用

区別をつけるため【伊達氏天文の乱】【洞(うつろ)の乱】と呼ぶこともあります。

詳細は以下の記事にお譲りして

伊達稙宗と天文の乱
政宗の曾祖父・伊達稙宗のカオスな生涯~天文の乱を誘発して東北エリアを戦乱へ

続きを見る

【天文の内乱】を見て参りますと……。

天文二年(1533年)7月27日、里見氏の当主・里見義豊が、義尭の父である実尭を里見家の本拠・稲村城(千葉県館山市)に呼び出しました。

義豊とは、前当主・義通の子であり、義尭にとっては従兄弟になりますね。

どうやら義豊は、実尭の言動を「反乱の兆しではないか?」と考えて、呼び出したとのことでした。

実尭は、義豊から見て叔父にあたりますので、戦国時代であれば家督争いバチバチになる関係ではあります。

その一方で血の繋がりが濃い間柄でもありますから、穏当に行くなら何日か話し合いをして、誓書なり起請文なりを作り、「今後は怪しい動きをしない」と確約して手を打つところでしょう。

しかし、最初から始末する気だったようで……。

義豊から見れば「のこのことやって来た実尭と実尭の重臣・正木通綱」をまとめて殺害してしまうのです。

当時、義豊は扇谷上杉氏や甲斐武田氏と共に反後北条氏体制を作ろうとしていたのに、反対に実尭は後北条氏に接近しようとしていたため排除したと考えられています。

当主としては致し方ない判断かもしれません。

しかし、その理屈を通すには、義豊に問題があり過ぎました。

以前から強権的なやり方を押し通してきたため、実尭の謀殺をキッカケに里見氏内で不満が爆発したのです。

父を殺された義尭にとっては、またとない下剋上のチャンスとなりました。

 


乱を収めて家督を勝ち取る

父が殺害されたときに金谷城(富津市)にいた里見実堯は、まず上総の百首城(ひゃくしゅじょう・別名造海城・富津市)主である武田道存を頼ります。

彼は上総武田氏の嫡流です。

しかし、当時は真里谷城(まりやつじょう・木更津市)にいた同家の庶系・武田恕鑑(じょかん)が義豊の舅であり、道存のほうがやや弱い立場にありました。

つまり、父と重臣を失って大ピンチの義尭と、どうにかして庶流より優位な立場に戻りたい道存、二人の利害が一致したわけです。

次のような構図ですね。

里見義堯・武田道存
vs
里見義豊・武田恕鑑

そこで義尭が、北条氏綱に支援を要請すると、氏綱三男で玉縄城(鎌倉市)にいた北条為昌が派遣されてきました。

北条氏綱/wikipediaより引用

為昌は後北条氏の水軍を担当しており、かなり迅速に兵を送ってくれたようですが、この動きを察知した義豊が、義尭を討つべく侵攻してきます。

そして同年8月21日、義豊軍と、義尭&後北条連合軍が、北郡内妙本寺周辺で激突。

戦の記録は乏しく詳細は不明ながら、義尭軍が勝利したと考えられています。

というのも、これを機に里見氏内部でも義尭に味方する者が増え、9月下旬にもなると、義豊の味方は妹婿の一色九郎だけという状況に陥ってしまうのです。

そして、その一色九郎もすぐに斃れてしまい、義豊は孤立。

義豊もついに……と、すぐには討たれませんでした。

翌天文3年4月になり、義豊は武田恕鑑のもとで態勢を立て直し、再び義尭を攻めようとするのです。

ここまで来ると、義豊も気合いが入っていますよね。果たして、戦の結果は?

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