北畠具教の肖像画

北畠具教/wikipediaより引用

戦国諸家

伊勢の戦国大名・北畠具教の生涯|信長に乗っ取られた南北朝以来の名門武家

2025/05/30

戦国大名たるもの武術を学んでおいて損はない。

それを極めるまでの必要はあるのか?

例えば足利義輝は「剣豪将軍」と呼ばれるほど剣術に長けた武将でしたが、最後は三好勢の大軍に取り囲まれ、呆気なく討死してしまいます。

確かに、一介の武将や足軽でしたら、武芸は出世の武器となるでしょう。

しかし将軍や大名のように上に立つ者は、政治経済や外交を練り上げる戦略や、戦場で勝利するための戦術を学ぶほうがよほど重要だ――と、足利義輝に限らず、そうツッコミたくなる武将は他にもいます。

伊勢の戦国大名・北畠具教(とものり)です。

戦国ファンの皆様でしたら剣術好きとしてお馴染みの存在でしょうか。

確かにゲームなどでは個人的武力が飛び抜けているけれども、軍勢を動かす能力はやはり低く評価されている。

そんな印象が強いかと思いますが、果たして史実ではどうだったのか?

北畠具教/wikipediaより引用

本記事でその生涯を振り返ってみましょう。

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伊勢北畠氏とは

“北畠氏”と言えば、戦国時代以外で「聞いたことがある」という方も少なくないでしょう。

そう、伊勢北畠氏は、南北朝時代に南朝方の中心だった北畠親房の子孫であります。

親房の長男は鎮守府将軍として有名な北畠顕家。

北畠顕家/wikipediaより引用

具教は顕家の子孫ではなく、親房の三男・北畠顕能(養子説あり)の末裔でした。

建武五年(=延元三年・1338年)ごろに顕能が伊勢国司に任じられたと考えられており、以降この地に根付いて勢力を築いていった一族です。

つまり、戦国時代には珍しく「朝廷から正式に任じられた国司が武力と実権を持っていた」のが伊勢北畠氏というわけです。

具教の時代の本拠は大河内城(三重県松阪市)ですので、そこが同家終焉の地となります。

ということで具教の生涯に注目してまいりましょう。

 


生い立ち

北畠具教は享禄元年(1528年)あるいは享禄4年(1531年)の生まれ。

父は伊勢北畠氏の七代目・北畠晴具(はるとも)でした。

母は三管領の一角である細川京兆家の十五代・細川高国の娘ですから、両親ともに超名門です。

具教が生まれた頃の伊勢は、おおまかに

北部:国人が群雄割拠状態

南部:北畠氏

といった勢力図になっており、晴具は勢力を拡大すべく、北伊勢の国人たちとたびたび争っていました。

天文5年(1536年)に晴具が出家。

このあたりで当主の座は具教に代わったと思われますが、戦国時代あるあるで、出家イコール引退ではありません。

具教とその兄弟が成長し、朝廷から官位を得ていくのと並行して、晴具は北伊勢の国人たちと戦い続けました。

そして晴具は永禄元年(1558年)、北伊勢の有力者・長野氏を降伏させることに成功。

具教の次男である具藤(ともふじ)を養子に送り込んで楔を打ち、伊勢北畠氏の勢いは増していきました。

 

剣術の達人?

詳しい時期は不明ながら、北畠具教は剣豪・塚原卜伝(ぼくでん)に兵法と剣術を教わったといわれています。

特に剣術については奥義「一の太刀」を伝授されたという説もあり、かなりの腕前だったようで。

卜伝は具教の用意した屋敷に長期間滞在し、指南したとのことです。

塚原卜伝/Wikipediaより引用

彼は若い頃にいわゆる武者修行のような形で全国を行脚しており、その途中で伊勢に立ち寄ったのでしょう。

卜伝の流派・新当流というと剣術のイメージが強いですが、他の武器や兵法なども含まれていました。

具教も、個人の武術と軍を率いる戦術、両方を学ぶため卜伝を招いたのかもしれませんね。

卜伝は室町幕府十三代将軍・足利義輝にも剣を教えたとされています。

剣豪将軍と呼ばれた足利義輝/wikipediaより引用

義輝は天文五年(1536年)生まれで具教と歳も近く、いずれか一方が「アイツが名高い剣豪に剣を伝授されたならば私も負けていられない」と考えて、呼び寄せたとしたら面白いですね。

義輝=後醍醐天皇と敵対して室町幕府を作った足利氏の末裔

具教=後醍醐天皇に味方し続けた北畠氏の末裔

生まれからして何やら因縁めいていますので……と実は具教は卜伝だけでなく、新陰流の創始者・上泉信綱からも剣術を学んだとされるので凄まじい気合いです。

上泉信綱/wikipediaより引用

上泉信綱も永禄七年(1564年)6月17日に本覚寺で義輝に剣を披露。

永禄十二年(1558年)~元亀二年(1571年)あたりまで近畿にいたようですので、その間に伊勢で具教に教授したのかもしれません。

そこまで剣術好きな北畠具教は、一体どれほどの剣の腕前だったのか?

というと残念ながら明確な答えはありません。

武家を束ねる大名であるからには、武芸に優れているべしと考えるのも自然なこと。

純粋に自分を鍛えるためだったことも十分に考えられます。

永禄六年(1563年)に父・晴具が亡くなった際、服喪のためとして朝廷の官職から退き、嫡子・具房に家督を譲りました。

具教も実権は手放していませんので、後年の家督争い防止の意味合いが大きかったと思われます。

 

織田軍に攻められる

こうして父の背中を見ながら心身を鍛えていた北畠具教に、じわじわと新たな脅威が迫ります。

永禄十年(1567年)春から、滝川一益を先陣とした織田軍の伊勢侵攻が始まったのです。

滝川一益/wikipediaより引用

一益は調略も併用しながら北伊勢の攻略を進めており、具教もジリジリと脅威を感じていたことでしょう。

その結果、

◆長野氏には信長の弟・織田信包(当時は信良)

◆神戸氏には信長の三男・織田信孝

がそれぞれ養嗣子として入ります。

完全にお家乗っ取りです。

なんせ北畠氏から長野氏へ入っていた具藤は追放されてしまっている程で、生命があっただけまだマシとも言えるでしょう。

あるいは「弟の命を取らないでおいてやるから伊勢をよこせ」といった含みがあったのかもしれません。

滝川一益が北伊勢を攻略している間に、織田信長が本人自ら長島本願寺(長島一向一揆)へ攻撃していたのです。

もはや北畠氏に一刻の猶予はないも同然でした。

 


弟の裏切り

織田氏の脅威に耐えきれなくなったのは、北畠具教本人ではなく周囲のほうが先でした。

永禄十二年(1569年)5月、具教の弟で木造城主の木造具政 (こづくり ともまさ) が、家臣たちの進言を受けて織田家に内通してしまったのです。

そして信長は永禄十二(1569年)年8月、いよいよ北畠討伐軍を起こしました。

織田信長/wikipediaより引用

具教は具房と共に大河内城(三重県松阪市)に籠城するしかありません。

戦闘の経過についてはリアルタイムの史料がほぼなく、『信長公記』や『勢州軍記』で食い違う部分があり、判然としていません。

ざっくりまとめると、信長は夜討ちや兵糧攻めなどの手を尽くすものの結局、大河内城は落ちなかったとされています。

秋雨で鉄砲が使いづらかったのも理由の一つ。

守る北畠氏も、大河内城にかなり潤沢な武器や兵糧を用意していたのでしょう。

彼らには通常の武家だけではなく、公家や国司としての誇りや意地もあったのかもしれません。

最終的には同年10月に和睦しましたが、これは朝廷の仲裁によるものという説もあり、両者とも納得していなかったはず。

和睦の条件は

◆大河内城を織田氏に明け渡すこと

◆信長の次男・茶筅丸(具豊のち信雄)を具房の養嗣子とすること

伊勢の統治を任された信長次男・織田信雄/wikipediaより引用

であり、北畠氏にとっては「命があるだけありがたいと思え」と言われているようなものでした。

とはいえ北畠氏は表立って争うことは選ばず、具教も元亀元年(1570年)に出家して矛を収めています。

また、(1573年)の織田軍による長島本願寺攻めの前には、具教・具房父子が織田方として調略に動いたこともあったようです。

調略についてはあまり良い結果は得られなかったようですが、この頃の北畠氏と織田氏は比較的友好的な関係だったといえるのではないでしょうか。

天正三年(1575年)には具房が北畠氏の家督を具豊に譲り、具教のいる三瀬館(多気郡大台町)に移りました。

ここで伊勢国司としての北畠氏は滅んだとも捉えられます。

 

裏工作で身を滅ぼす?

北畠具教は大人しく信長に従ったのか?

というと、それよりもマズイことに、その後「具教は武田信玄と通じた」とか「熊野勢の蜂起を進めた」などの風聞が立ち、信長に疑われてしまいます。

よりにもよって信玄との接近は信長にとっては最大の懸念事項。疑いを持たれるだけでも危険です。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用

そしてその懸念は当たってしまいます。

天正四年(1576年)11月25日、具教は、信長の命によって北畠氏の旧臣らに襲撃されました。

具教は自ら剣を取り、19人を切り伏せるという凄まじい死闘を演じ、力尽きると、旧臣の藤方刑部少輔に討ち取られてしまうのです。

息子の具房は助命されたものの幽閉され、結局、解放された後、天正八年(1580年)1月5日に京で亡くなります。

北畠氏の旧臣に担がれることを警戒したのでしょう。

いくら剣術を磨いても、結局、戦略や戦術に長けていない限り、大名としては心もとない……とは、なんとも切ない終わりですね。

最後に……この先は余談です。

具教の剣の師匠とされる上泉信綱の弟子には

◆疋田流(疋田新陰流)の開祖・疋田景兼

◆タイ捨流(新影タイ捨流)の開祖・丸目長恵

◆柳生新陰流の開祖・柳生宗厳

などがいて、彼らの流派も枝分かれなどを経て現代に伝わっています。

後に具教の墓を作ったり供養したりした地元民がいたようなのですが、もしかするとその中には

「我が流派があるのは、信綱様に一の太刀を伝えてくださった具教様のおかげ」

と考えた門徒たちがいたのかもしれません。

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【参考】
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長軍の司令官: 部将たちの出世競争 (中公新書 1782)』(→amazon
『戦国武将事典 乱世を生きた830人 Truth In History』(→amazon
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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