延元3年/建武5年(1338年)5月22日は北畠顕家の命日です。
世の中には「デキすぎて現実味がない」というタイプの人がいますが、南北朝時代においてはこの顕家がまさにそう。
公家にもかかわらず軍事的な統率力が突出しており、内政もバリバリこなすというチートぶりで、最近は漫画『逃げ上手の若君』にも登場し、知名度が上がってきましたね。
しかし、この時代は戦国期に比べて注目度は低く、一体どんな人なの?という方も多いかもしれません。
見目麗しく「花将軍」とも呼ばれながら享年21の若さで散った、貴公子・北畠顕家の生涯を振り返ってみましょう。

北畠顕家/wikipediaより引用
「陵王の舞」を披露
北畠顕家は文保二年(1318年)、公家である北畠親房の長子として生まれました。
幼少期の逸話は乏しいものの、元服後に後醍醐天皇の北山行幸にお供した際、宴席で「陵王の舞」を披露し、その出来を称賛された逸話がよく知られています。
顕家には美形説が定着しているのは、この舞姿が絶賛されているためかもしれません。
それから程なくして後醍醐天皇が倒幕の意志を明らかにし、笠置山が落ちて後醍醐天皇が隠岐へ流されたあたりまでの顕家は、まだ若年だったせいかその動向は不明です。
元弘元年(1331年)11月に参議・左近衛中将の官職を辞したことだけはわかっています。
この直前に笠置山が落ちていたため、後醍醐天皇に倣う意志でもあったのでしょうか。
父・親房も、世話役を務めていた世良親王の早世によって出家しており、この時期は父子揃って宮中から離れていたことになります。

北畠親房/wikipediaより引用
あるいはこの頃から護良親王などと連絡を取って、密かに倒幕計画を進めていたのかもしれません。
元弘二年(1332年)12月末に顕家は参議・左近衛中将に還任しているので、このあたりで何かしらの目処が立ったのでしょうか。
奥州将軍府
時は流れて元弘三年(1333年)5月、鎌倉幕府が滅亡し、【建武の新政】が始まります。
北畠顕家は同年8月5日に従三位・陸奥守の官位を与えられ、後醍醐天皇の皇子・義良親王を奉じ、父・親房と共に同年10月に京を発つと、陸奥に下るよう命じられました。
当時の国司(◯◯守)は在京のまま仕事をするスタイルが定着していたので、この2ヶ月の間は京都から命令書を出し、その後、後醍醐天皇のゴリ押しで現地に向かっています。
これは「奥州に小さな政府を作る」という建武政権の狙いによるものです。
陸奥守の位階は従五位相当ですので、顕家は、位よりもかなり低い役職を任されたことになります。
「僻地の仕事を任せるけど位は高くしておくから大人しく従ってくれ」ってことなんでしょうかね……。
ちなみに、奥州へ行く前に顕家は、日野資朝の娘を妻にしていました。

日野資朝/wikipediaより引用
貴族の慣習からしても、当時の交通事情を考えても日野氏は同行しなかったと考えられるので、名目上の正室だった可能性は高そうです。
彼女は後年、顕家が討死した近辺を尋ねたという伝承もありますので、夫婦の交流は図られていたかもしれません。
ついでに少し、顕家の妻子関係の話もしておきましょう。
顕家には、正妻・日野氏の他に関係があったとされる女性の名が複数伝えられていますが、息子・北畠顕成の母親や出生地についてはよくわかっていません。
顕家の在京期間の短さや、顕成に関する記録の少なさからすると、日野氏出生の可能性は低いでしょう。
任国では父の補佐を受けながら、現在の宮城県に国府を置いて、新たな政務機構を設けるなどの功績はありました。
ただし、どこに本拠があったのかは不明で、現在の多賀城市か仙台市あたりと目されています。
奥州は長く僻地とみなされた土地ではありますが、塩釜など古くから知られた歌枕も多いので、直に見られることは喜んだかもしれませんね。
平野の広さにも目を見張ったのではないでしょうか。
東北の諸勢力を吸収し 従二位へ昇格
元弘三年(1333年)11月中旬からは、地元の武士たちが北畠顕家のもとを訪れ、臣従を誓うようになっていきます。
その中には後に顕家軍の一翼を担う結城宗広・伊達行朝・南部師行などもいました。
結城宗広は、倒幕の時点では新田義貞に従い、その後、上洛して北畠氏に接近したといいます。

新田義貞公肖像/wikipediaより引用
顕家は、北条氏から没収した各郡の地頭職を奥州の武士に与えたり、尊氏の領地を顕家に従う武士に与えたり、人心掌握に務めました。
この頃の尊氏は、建武政権と敵対してはいませんでしたが、護良親王との対立により不穏な空気は流れ始めていて、牽制の意味もあったのでしょう。
しかし万事順調というわけにもいきません。
赴任したその年の12月には、津軽大光寺楯(元・青森県平川市)で北条氏の残党による反乱が発生。
これに対し顕家は自ら出馬を決め、翌建武元年(1334年)4月から討伐を開始し、同年11月には攻略しました。
比較的遠方の福島や宮城に置いた地頭も動員しての討伐であり、それだけ規模が大きく重要な戦だったということになりますね。
彼らを服属させることができていたのは北畠父子の能力のなせる業でしょう。
もちろん戦功を上げた者には土地や地頭職などを与え、きちんと報いています。
この鎮圧により顕家の能力を認めた武士たちも次々に麾下へ入り、東北の宮方勢力は着々と成長していきました。
朝廷もこれらの働きを称え、建武元年(1334年)12月に顕家を従二位へ昇格させています。
父の補佐や皇子の威光もあるとはいえ、当時15歳程度の若者がやったこととしては驚異的であり、そこはきちんと評価されたようです。
漫画『逃げ上手の若君』では、顕家が弓の名手ということになっていますが、史実ではどうだったかわかりません。
貴族であっても武官であれば弓は必須なので、顕家が標準以上に扱えた可能性はあるでしょう。
古いところでは『源氏物語』でも賭弓の場面がありますし、武芸に長けていないと、奥州の屈強な武士からナメられて統治しにくかったはずです。
尊氏軍を猛追
このように北畠顕家の近辺は順調でした。
しかし建武政権は徐々に先行きが怪しくなっていきます。
建武二年(1335年)7月に北条氏の残党が【中先代の乱】を起こし、その鎮圧にやってきた足利尊氏がなかなか京都に戻らず、後醍醐天皇が不快さを露わにします。
それでも尊氏は上洛せず、さらに乱のドサクサに紛れて鎌倉に預けられていた護良親王を暗殺させていたことがわかり、後醍醐天皇は新田義貞に尊氏の討伐を命令。

護良親王/wikipediaより引用
しかし義貞が尊氏に敗れて西に戻り、尊氏がそれを追いかける形で西へ向かいます。
一報を受けた顕家は、建武二年(1335年)12月に足利尊氏を追撃して東海道を西上しました。
11月付で鎮守府将軍の職が与えられていたので、職責のうちでもありますね。
なお、このときの顕家軍の進軍速度は「20日で600km」とされるものすごいスピードでした。
単純計算一日30kmですので、不可能ではないですが、相当な進軍速度です。なぜ二つ名がつかないのか不思議なほど。
しかも顕家軍の場合は
・道中には足利方の勢力圏がある
・現地で略奪しながらの行軍
・真冬
という、悪条件だらけの上でこの速度です。
超速移動の理由はいくつか考えられており、その一つが東北原産「南部馬」の力でした。
「顕家軍の通った後には草一本残らない」
奥州は、古来より名馬の産地――奥州藤原氏の時代に多く繁殖され、一頭の地力もさることながら、換え馬を豊富に用意できたのでしょう。
『太平記』では、後述する二回目の顕家の進軍について「通った後には草一本残らない」と書かれていることから、単に略奪しただけでなく
「南部馬が多かったので、あたり一面の草を食べ尽くされた」
という意味が含まれているのかもしれません。
また、古来より日本では
・馬を去勢しない
→荒っぽい馬が多い
→そのぶんパワーもスピードも出る
→選りすぐりの一頭が「名馬」と呼ばれる
という流れがあったため、顕家軍には気性が荒くて剛健な馬が揃っていたのではないでしょうか。
特に荒い馬だと味方の歩兵まで踏み潰すレベルだったとされ、北条氏の残党狩りが早く進んだのもそれが理由なのでは……という気がしてきてしまいますね。
また、関東~甲信では古い時代から「勅旨牧」「諸国牧」という“税”のために馬を育てる牧場がありました。
顕家は都にいた頃近衛少将を務めており、父の親房も近衛府で務めていた時期があります。
おそらくその中で、各地の牧を取り仕切る馬寮の役人と話すこともあったでしょう。
となると北畠父子が東国の牧場の位置を知っていても不自然ではなく、そこから迅速に替え馬を徴発できたのではないでしょうか。
日本在来馬は「粗食に耐え」「傾斜地に強い」という特長もあり、さらには陸奥への道が整備されていたことも大きいのでしょう。
源頼朝の奥州藤原氏討伐の後、当時の葛西氏は現代の石巻市あたりに本拠を置いていたと考えられています。

毛越寺に所蔵されている奥州藤原氏・三衡(上が藤原清衡、向かって右が藤原基衡、左の法体姿が藤原秀衡)/wikipediaより引用
葛西氏は、頼朝がいったん安房に逃げてから房総半島を北上して武蔵に入る際、出迎えたとされる家。
奥州着任後の動向は詳細不明ですが、少なくとも鎌倉から葛西氏本拠までは、ある程度の進軍ルートが維持されていたのかもしれません。
また、石巻から陸奥各地への連絡=街道もそれなりに整備されていたはずです。
じゃないと「いざ鎌倉!」ができませんし。
顕家の陸奥将軍府は前述の通り多賀城・仙台あたりですので、鎌倉や京都からみると、葛西氏の根拠地より手前。
となるとやはり、上方へ続く道は整備されていたでしょう。
また、伊達氏のように鎌倉初期からこの地に根付いていた家もあります。
伊達氏が頼朝からもらった土地は現代の福島県伊達市近辺。
後述しますが、顕家は後に伊達氏の領地内にある霊山城を拠点にしており、
このあたりも他と比べて交通事情が良かったと思われます。
仮に数字を盛るとしても、こうした諸々の状況と顕家の指揮能力が良い方向にブーストした結果が「20日で600km」という誰も更新できない記録を生み出したのかもしれません。
すみません、馬の話がいささか膨らみ過ぎてしまいました。
北畠顕家の話へ戻しましょう。
京都にて
北畠顕家が西へ向かっている間、新田義貞と足利尊氏が激突しました。
すると、尊氏方に寝返る武士も現れ始め、義貞軍は京都へ敗走。
足利軍も、それを追って京都に入り、後醍醐天皇は京都から坂本へ逃れています。

後醍醐天皇/wikipediaより引用
そこで顕家軍が建武三年(1336年)1月13日に琵琶湖の東へ到着すると、後醍醐天皇は大喜びし、日吉大社で戦勝祈願をしたそうです。
顕家は、主人の義良親王や父の北畠親房と共に後醍醐天皇と再会し、麾下の士気も上げ、京都奪還を目指しました。
新田軍・楠木軍と協力して足利軍と激突。
かなりの損害を与え、九州へ敗走させることに成功すると、同年1月30日に後醍醐天皇が京都に還御し、2月初旬には論功行賞が行われました。
むろん顕家にも恩賞があり、右衛門督と検非違使別当を兼ね、3月には権中納言も与えられ、さらに常陸・下野二国をも賜わっています。
奥州再び
延元元年(1336年)3月頃には再び奥州へ向かうよう命じられ、北畠顕家は再び北へ向かいました。
ちなみに同じ頃、尊氏は九州で兵を集めることに成功しており、再起を図る状態。

広島県尾道市の浄土寺に伝わる足利尊氏肖像画/wikipediaより引用
当時の通信事情ではタイムラグができるのは仕方ないとはいえ、尊氏の首を取れたわけでもないのに、後醍醐天皇は西への備えが弱いまま――安心するのが早すぎであり、顕家軍は奥州への道中、鎌倉で斯波家長軍により関東各地で足止めを食らっていました。
家長は足利方の人で、尊氏が西へ向かった後の鎌倉を統治していたためです。
彼も『逃げ上手の若君』に登場していましたね。
顕家軍が、4月16日に鎌倉近辺の片瀬川で斯波家長らと戦闘していると、同時期に常陸や下野の国人が天皇方から離反。
さらに北関東の瓜連城(茨城県那珂市)が足利方の佐竹氏に落とされ、関東全域で後醍醐天皇方が不利に傾いていきます。
これを受けて顕家軍は鎌倉や常陸を攻略し、4月下旬に宇都宮へ入りました。
厳しい状況ではありましたが、味方についてくれる人もいました。
戦国時代でも登場する相馬氏の多くが足利方につく中、相馬胤平という武士がただ一人、顕家のもとへ馳せ参じたのです。
顕家もこれを評価し、左衛門尉の官職を推挙しています。この「味方には迅速に報いる」あたりが、奥州武士が顕家の支配を受け入れた理由なのでしょう。
その後、顕家は、那須城など周辺の足利方の城を攻略しながら北上を続け、5月末~6月初旬に多賀へ戻りました。
なお、同時期の近畿では【湊川の戦い】が起き、楠木正成が自害しています。
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湊川の戦いで南北朝の勇将たちが激突!尊氏 師直 義貞 正成 それぞれの正義
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奥州の事情も変わりつつありました。
顕家が上方で頑張っていた延元元年(1336年)1月には、津軽で岩楯城主・曽我貞光が尊氏に調略されて寝返り、その鎮圧のため南部氏が出兵しています。
さらに、顕家在京中の奥州を任されていた留守氏が内部分裂を起こしていました。
これらをまとめると、顕家の留守中に北関東~奥州における天皇方勢力がかなり減ってしまっていたということになります。
京都争奪戦
この間、上方では戻ってきた足利方と比叡山に逃げた後醍醐天皇方の間で、8~9月にかけて京都争奪戦が繰り広げられていました。
後醍醐天皇は比叡山の僧兵を戦力に数えようとしたものの、それも失敗。
尊氏は、後醍醐天皇を討死させるまでは考えていなかったようで、休戦が提案され、10月に和睦が成立しました。
条件は、後醍醐天皇の退位と持明院統の豊仁親王が即位することであり、新田義貞など宮方の多くは反対していました。
しかし、後醍醐天皇は新田勢に尊良親王・恒良親王を奉じて北陸ヘ向かうよう命じ、この条件で和睦を受け入れてしまいます。
こうして11月には後醍醐天皇が譲位し、豊仁親王が光明天皇となり、新しい皇太子には後醍醐天皇の皇子・成良親王が立ちました。
一時的には持明院統へ皇位を譲った形ですが、自分の皇子の血筋が残ったことで後醍醐天皇は矛を収めてもおかしくないところでした。

しかし、後醍醐天皇は同年12月下旬に京都を脱出し、吉野へ逃げて自らの退位を否定。
さらに年が明けないうちに奥州の顕家に上洛と京都奪還を命じる使者を立てました。
ですが、奥州の事情は前述の通り。
上洛命令が届く直前の延元二年(1337年)1月、顕家は義良親王・結城宗広とともに多賀の国府から伊達行朝の霊山城に移り、大勢を立て直そうとします。
1月15日から合戦が始まっており、後醍醐天皇からの使者が顕家のもとに到着した頃には、上洛に応じたくても応じられない状況になっていたのです。
しかし2月になると後醍醐天皇だけではなく、越前にいる恒良親王からも上洛の要請が届くわ、3月には上方に残っていた父・親房からも手紙が来るわで、なんとも苦しい立場に追いやられます。
顕家軍の状況は思わしくないまま。
常陸の小田城救援など成功した戦線もあったものの、完勝とはいかず小競り合いが続き、予断を許さない状況が続いていたのです。
3月には北陸で金ヶ崎城が落ち、尊良親王と義貞の子・義顕が自害。
義貞は逃げ延びたものの、すぐに立て直せる状況ではありませんでした。
これで顕家が動かざるを得なくなり、再び西上の途につくことになります。
「逃げ若」での顕家が主役級に描かれているのはこのあたりからです。
二度目の上洛
延元二年(1337年)8月、顕家は義良親王を奉じて奥州を出立。
12月8日には小山城を攻略し、直後の13日には利根川で足利方の上杉憲顕らを破ると、25日に鎌倉へ突入して尊氏の嫡子・足利義詮を追いやりました。

足利義詮/wikipediaより引用
鎌倉の戦いでは、以前辛酸を嘗めさせられた斯波家長を自刃させています。
年末年始は鎌倉で過ごし、延元三年(1338年)1月2日に出発すると、7日には伊豆の三島神社で天下泰平の祈願をして、さらに西へ向かいました。
『太平記』では、二回目の上洛における顕家軍の数を
「白河の関を出た時10万騎、東海道を進んでいた時は50万騎」
としていますが、さすがに盛り過ぎです。せいぜい1/10~1/50程度が実数でしょう。
ただでさえ劣勢になり始めていた顕家にそこまでの兵力は用意できませんし、そもそもこの数で行軍するための兵糧を準備するのは不可能です。
「顕家軍の通った後には家一軒草一本残らない」と書かれているのもこのときの行軍についてなのですが、前回よりも兵糧が少なかったからそうせざるを得なかった可能性も高いでしょう。
1月12日に遠江・橋本の地で宗良親王と面会。
宗良親王も後醍醐天皇の皇子であり、彼はこの地で井伊氏を頼り、天皇方を増やすために戦っていました。義良親王にとっては久々の肉親との再会だったと思われます。
次に顕家軍は三河へ向かい、近隣の武士を傘下に加えながら、さらに西へ。
伊勢方面からも「顕家西上」を聞いて兵糧を届けてくる者が現れ始めたとか。
そして1月下旬、美濃で京都からやってきた高師泰軍と、東から追いかけてきた上杉憲顕・桃井直常軍に挟撃されてしまうのですが、見事、青野ヶ原の合戦で勝利します。
ちなみに青野ヶ原は関ヶ原の近所であり、混同されることもあります。
そのまま入京するルートも有りましたが、顕家は2月に入って垂井から伊勢・桑名へ南下しました。
この進路変更の理由ははっきりわかっていません。兵糧が尽きかけていたため、協力者がいる地域を通ろうとしてのことでしょうか。
また、顕家軍に北条時行が加わっていたためとする説もあります。
そのまま京都へ向かうと鎌倉を攻略した=時行にとって家の仇である新田義貞との合流が見えてくるので、それを避けたというものです。
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史実の北条時行はどんな人物?漫画『逃げ上手の若君』のように戦い続けた?
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顕家軍には義貞の子・義興も加わっていたので今更……という気もしますが、義興は鎌倉攻略に加わっていないのでまだ我慢できたにしても、張本人の義貞とはさすがに顔を合わせたくないというのはもっともな話。
顕家にしても、無理に義貞と時行を対面させて連携に支障をきたしたくはなかったでしょうね。
他には間近に迫った足利尊氏との決戦の前に、伊勢神宮で戦勝祈願をしようと思ったとか、あるいはこの頃伊勢にいた顕家の父・親房や弟・顕能らに会って今後のことを話し合うつもりだったとか、いろいろ理由は考えられそうです。
尊氏軍を相手に徐々に疲弊し……
伊勢に入ると地元の武士団が物資や兵糧を献じてくれたり、顕家軍に加わったりして、いくらか大勢を立て直せました。
一方で幕府からの討手もやってきており、2月21日まで転戦しながら奈良へ入っています。
奈良でも顕家軍が足利方に勝利し、いったん腰を落ち着けてから改めて京都奪還のため北上を決断しました。
そのころ足利方では、京都に入られる前に顕家軍を討つべく兵を南へ差し向けました。
そして2月28日、顕家軍は般若坂で幕府軍と激突!
敗北を喫してしまうと、この時点で先行きを懸念したのか、顕家は結城宗広に命じて義良親王を吉野へ送り届けさせ、河内へ進みました。

後村上天皇(義良親王)/wikipediaより引用
河内は楠木氏の本拠もあり、天皇方が多い土地柄だったからと思われます。
ここでは顕家の弟・北畠顕信が兵を率いて合流してくれたため、兵力は回復できました。
そして河内各所で幕府方に勝利を収めると、5月初旬まで戦況は一進一退、足利方の兵が西日本から散発的にやってきたためその対処に追われ、顕家軍は徐々に疲弊してしまいます。
この頃には覚悟を決めたものか、5月15日に顕家は痛烈な諫奏文(上奏文)を後醍醐天皇に認めています。
今日「北畠顕家上奏文」と呼ばれているものです。
それは一体どんな内容だったのか?
天皇へのガチ説教・北畠顕家上奏文
上奏文は原文が残っておらず、伝わっている内容は醍醐寺に残されている写しによるもので、冒頭が欠けているとされます。
漢文なので現代人にはどうにも馴染みにくいのですが、おおよその内容は以下の通り。
なかなか辛辣な内容で、それも結構な量です。
・九州と東北に優秀な人を置き、山陽や北陸にも南朝方の拠点を作って非常時に備えること
・仁徳天皇と醍醐天皇のように、3年間税を免じて民を休ませること
・後醍醐天皇も倹約し、ぜいたくしないこと。民に迷惑をかける臨時の行幸などもってのほか
・役人の登用や恩賞は慎重に決めること
・功のない者の土地を没収して忠義ある者に与えること
・武士を簡単に信用して重職につけるべきではない
・朝令暮改をやめてください
・愚か者を身辺から排除してください
そして最後に
「ここまで言って聞き入れていただけないなら、私は辞職して山に入ります」(意訳)
とまで書いています。
かなり事細く、厳しいダメ出しであり、織田 信長が足利義昭に宛てた「異見十七ヶ条」とタメを張れそうです。

足利 義昭(左)と織田 信長/wikipediaより引用
ちなみに顕家は後醍醐天皇よりも30歳も歳下。
文字通り父子のような年齢差の相手に、ここまでボロクソなことを言われる後醍醐天皇ってどれだけダメ上司なのか……しかも顕家が後醍醐天皇の側にいたのは少年時代の十数年と、1337年に上洛した時だけです。
それ以外は、ずっと奥州や京都までの行軍の中にいたにもかかわらず、ここまで的確かつ辛辣に欠点と改善点、そして民草への慈愛を述べた文章は見事というほかありません。
残念なことに、この文書の原文が後醍醐天皇のもとに届いたかどうかはわからないのですが……その後の後醍醐天皇や南朝を見る限り、いっそ届いていないほうがマシな気もします。
上奏文の写しが作られた理由や、醍醐寺で保管された理由も詳細は不明です。
発見の経緯も、大正九年(1920年)に「反故(書き損じの紙)の中から見つかった」らしいので、書状として丁寧に保管されていたものでもないようで。
中身が中身なだけに、そんな扱いを受けるのは哀しいものがありますね。
花将軍の最期
上奏文を送ってから、北畠顕家は最期の戦いに臨みます。
延元三年(1338年)5月22日、和泉の堺浦・石津(大阪府堺市一帯)にて、京都からやってきた高師直・細川顕氏軍と激突。

かつて足利尊氏の肖像画とされ、近年、高師直だという説が根強くなった『守屋家旧蔵本騎馬武者像』/Wikipediaより引用
この最中に堺から瀬戸内海の水軍が上陸し、これにより混乱した顕家軍は四散してしまい、それでも高師直の首を狙ったものの、果たせません。
顕家は「もはやこれまで」と覚悟、腹を切ったと言われています。
享年21。
あまりにも早い死でした。
南部師行など、ここまで付き従ってきた多くの武将も討死し、顕家軍は総崩れとなりました。
混戦の中でのことだったため、顕家終焉の地は不明であり、現在では阿倍野説や石津説などがあります。
足利尊氏の母・上杉清子の手紙に「顕家の首が届けられた」とあるので、尊氏や直義も首実検したのでしょう。
顕家ほどの人物であれば、首塚なり胴塚なりが作られていても良さそうなものですが、後年に廃絶してしまったのか……。
その後の北畠氏
北畠顕家の死後は父の北畠親房が南朝の中心かつ主戦派として動きましたが、はかばかしくない結果に終わっています。
ちなみに信長の息子・信雄を押し付けられて滅亡した伊勢北畠氏は、顕家の弟・北畠顕能の子孫です。

織田信雄/wikipediaより引用
顕家にも息子・北畠顕成がいたのですが、父に似ず目立たなかったようで、あまり記録が残っていません。
安藤貞季の娘と結婚して青森の浪岡で家を起こし、その後戦国時代まで続いたとされます。
ちなみにその家を滅ぼしたのは津軽為信です。
為信の出自はまだ不明な点が多いものの、南部氏の支流説もあるので、そちらが事実だった場合なんとも因果というか、形容しがたい気分になりますね。
顕成には『太平記』の作者説があるため、これが事実であれば祖父や父に似て文才があったのかもしれません。
その場合は「父親の偉業に対して”草一本残らなかった”なんて表現するか?」とツッコミたくなりますが……太平記は特定の個人が一人で書いたのではなく、複数人の手によるものと考えられているので、その部分は顕家に何らかの意図がある人が書いたのかもしれませんね。
顕家は間違いなく当時最大級の才人であり、それを使いこなせなかった時点で南朝方の末路が決まっていたのではないでしょうか。
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【参考】
横山高治『花将軍北畠顕家』(→amazon)
『虚心文集』/国立国会図書館デジタルコレクション(→link)
国史大辞典
世界大百科事典
ほか







