貞治6年・天平22年(1367年)12月7日は足利義詮(よしあきら)の命日です。
『義詮とは、一体どんな人なのよ?』
瞬時にそんな疑問符が頭に浮かんできそうですが、足利尊氏の息子であり、室町幕府の二代将軍……と言っても、やはりイメージは湧きづらいかもしれません。
義詮が将軍となった室町幕府の草創期は、父・尊氏の時代に起きた南北朝問題など、諸々の困難が続いていた時期でした。
そんな時代に幕府のトップをやっていたのですから、いくら義詮が無名でも、愚将というはずはありません。
彼がやっていたことを見ると「実はコレすごくね?」ということも多く、しかし同時に影が薄い理由も浮かんできます。
では足利義詮とはどんな人物でどんな功績があるのか。
その生涯を振り返ってみましょう。
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実は二人の兄がいた
足利義詮は尊氏の長男ではありません。
それでも最初から嫡男(跡継ぎ)として扱われたのは正室・赤橋登子の子供だったため。
母・登子の曾祖父が鎌倉幕府六代執権・北条長時ですので、義詮には北条氏の血も入っていることになります。
もっというと、室町幕府の将軍は全員、義詮の子孫ですので、「足利将軍は全員、北条氏の女系子孫である」と見ることもできます。
そんな義詮には二人の異母兄がいました。
一人は足利竹若丸。
側室生まれながら彼の母親は足利氏の一族であり、順調に行けば義詮の側近や、それに準じる立場になっていたでしょう。
竹若丸は長庶子という難しい立ち位置のためか、尊氏の手元ではなく、伊豆山神社(静岡県熱海市)に居たとされています。
そして鎌倉幕府打倒のため尊氏が六波羅探題を攻撃した際、母方の叔父に伴われて上洛しようとしたものの、途中で幕府方の刺客に討たれてしまいました。
このとき山伏の姿をしていたといわれていますので、元服前ながらそれなりの年齢になっていたと思われます。
義詮のもう一人の異母兄は、【観応の擾乱】でも名前が出てくる足利直冬です。
直冬の母親は身分が低かったようで「尊氏が若い頃にお忍びで通っていた」ことくらいしかわかっていません。
また、その女性のもとに他の男性が通っていたフシもあったのか、
”尊氏が直冬を冷遇したのは「コイツ本当に俺の息子か?」と疑っていたからだ”
という説もあります。
この複雑な関係が後の【観応の擾乱】や【南北朝問題】のこじれに繋がってきますので、尊氏がわざわざ敵を増やしてしまったような感がありますね。
「庶子だから厚遇はできないけど、一門の中に席を与えるよ」くらいの扱いにしておけば、もうちょっとマシだったかもしれません。
かくして足利義詮は、生まれ順としてはおそらく三男ですが、母の身分が一番良かったので嫡子になりました。
倒幕の混乱期 いきなり人質にされる
足利義詮が生まれたのは元徳二年(1330年)のことです。
鎌倉幕府を倒すかどうかの瀬戸際であり、父の尊氏も一家団欒を楽しむような状況ではありませんでした。
しかも尊氏は当初幕府軍にいたので、後になって倒幕軍についた際、義詮と母は人質として鎌倉に押し込められてしまいます。
実に幸先の悪いスタートですね。
それでも足利家は源氏きっての名門ですから、忠実な家臣には事欠きません(少なくともこの時代は)。
義詮は、そうした人々によって救出され、下野国にいた新田義貞と合流し、行動を共にします。
上記の通り、義詮は(1330年)生まれで、鎌倉幕府滅亡が(1333年)ですから、倒幕までの戦で前線に立つことはありません。
倒幕の後は鎌倉に留まり、細川和氏・頼春といった家臣に支えられて育ちました。
この頃には幼いながらに父の代理として軍中状(武士が功績を報告してくる手紙)にサインをしていたり、跡継ぎの自覚を持った行動をしています。
実際には家臣の誰かが義詮(当時は幼名・千寿王)の名で発行したのでしょう。
まだ花押(かおう・名前などを崩した本人証明のサイン)などは書けなかったでしょうし。
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