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【足利義詮】
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鎌倉を追い出され、そしてすぐに戻る
後醍醐天皇方の勢力がまだ強かった建武四年(1337年)。
天皇方で陸奥の大軍を率いてきた北畠顕家により、足利義詮は鎌倉を追い出されてしまいました。
そして翌年、顕家が京都へ向かった隙に鎌倉へ戻ります。
この「危ないときは土地にこだわらず、いったんその場を離れ、早めに戻る」というスタイルが性に合っていたのか。義詮の生涯で何回かやることになります。
松井優征氏の漫画『逃げ上手の若君』では、北条時行を”最高の逃げ上手”として描いていますが、周りの家臣たちがそうさせた可能性も含めて、義詮の足もなかなかのものです。
そして今度は混乱の南北朝時代を迎えました。
義詮はしばらく鎌倉周辺の統治をしていたものの、室町幕府ができた直後に重臣・高師直と叔父・足利直義の間で揉め事が発生。
今日では【観応の擾乱】と呼ばれている
尊氏・師直
vs
直義・直冬
のキッカケとなったあたりです。
貞和五年(1349年)、師直が尊氏に「直義殿が職務に関わるのをやめさせてください!」と訴えて尊氏がその通りにしたため、直義のやっていた仕事を誰かが請け負わなければならなくなりました。
そこで鎌倉で政務に慣れていた義詮が呼び出され、叔父の後を引き継ぐことになります。
このあたりになると、義詮も既に20歳くらい。
師直からも尊氏からも及第点を貰えたようで、義詮の言動に関するトラブルは伝わっていません。
貞和六年(1350年)には朝廷から参議と左近中将の官職も授けられ、「尊氏の後継者」として顔を覚えられたのではないかと思われます。
程なくして、直義方の上杉能憲により師直が暗殺されると、直義と尊氏の関係は一時的に改善しますが、それも束の間。
観応二年(1351年)、直義が京都から北陸経由で鎌倉へ去り、その後、尊氏が東下して薩埵山(静岡市)で勝利を収めました。
直義は観応三年(1352年)2月に鎌倉で亡くなり、観応の擾乱は幕を閉じます。
気前が良すぎて無責任な父
こうして高師直・足利直義の二人がいなくなったことにより、室町幕府は尊氏と足利義詮によって采配されていきます。
薩埵山で勝利を収めた後、尊氏は一年半ほど鎌倉に留まりましたので、この間の京都は義詮主導でうまくやれていたことになりますね。
もちろん有能な吏僚がいたからこそですが、当時の義詮がまだ20代前半の若者であることを考えると、なかなかの才覚ではないでしょうか。
武働きを覚える前に政治に携わったのが良かったのかもしれません。
それを示す逸話として、こんなものがあります。
尊氏から義詮へ以下のような手紙が送られてきました。
「この前、とあるヤツに恩賞として関東の土地をやるって約束したんだけど、そこが赤松則祐の土地だったんだ。
でも恩賞を取り消すわけにもいかないし、赤松が『代わりの土地をください!』って泣きついてきたから、お前が京都で適当なところを見つけておいてくれ」
数ある尊氏伝説の中に「物に執着がなく、もらったそばから別の人にどんどんあげてしまう」というものがあり、それが悪い方向に出た感じですね。
手紙を受け取って後処理をした義詮の心境たるや、想像するだけで辛いものがあります。
他にも”尊氏が同じ土地を寺社と一般人に与える約束をしてしまった”なんて事件もあり、やっぱり義詮が解決に動いている。
ちなみに、直義が尊氏と決裂する前は、こういった仕事は直義の担当でした。
直義と義詮の関係については詳細な史料が見つかっていないながら、義詮は叔父のやり方から学んだことも多かったでしょう。
直義は先例を重んじ理想を追い求めるタイプの人で、土地についても「公家や寺社など、元々の持ち主の権利を守るべき」と考えていました。
しかし、武士の価値観は「手柄を立てて土地をもらい、一族を養っていくこと」を最も重視します。
これらがぶつかると「旧来の領主の権利を守りすぎて、武士に与えるべき土地がなくなる」ということになりかねません。
もっといえば、元寇で恩賞を与えられず、武士からの反感を招いていった鎌倉幕府の轍を踏んでしまいます。
もしも義詮が叔父の破滅の経緯をそのように分析していたとしたら、
「父(尊氏)はああいう人だから仕方がない。しかし、叔父(直義)のように理想を求めるだけでは角が立つ。私が皆にうまく計らってやっていかなくては」
と思い、我欲を出さずに仕事をしていたのではないでしょうか。
こういう立場になると賄賂その他よからぬことを考えることも多いものですが、その気配もなさそうです。
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