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【足利義詮】
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亡くなってからも尻拭いは続く
観応三年/正平七年(1352年)、足利義詮は「観応の半済令(はんぜいれい)」を発布しました。
◆近江・美濃・尾張の三カ国に限り、寺社の領地から得られる年貢半分を守護の兵糧米にして良い
◆この法律の有効期間は一年間
「お寺や神社から兵糧を取るなんてひどい!」ともとれますが、こういう枠組みを定めた法律がないと好き放題に年貢を取ろうとする輩も出てくるので、制限をかけた形ですね。
義詮はこの後にも「寺社や貴族などの土地所有者vs武士」という構図の問題を解決するべく奔走しています。
若い頃に尊氏の口約束を処理し続けた結果、「これ、前もって制度を決めておかないと無限地獄だわ」と思ったからなのかもしれません。
時系列を少し戻しまして、観応三年(1352年)閏2月。
南朝方が京都に攻め入り、北朝の光厳上皇・光明上皇・崇光上皇と三種の神器を奪うという大事件が起きます。
義詮はこれに対し、新たに崇光上皇の弟を即位させて後光厳天皇とし、「北朝の守護者」の体面を整えました。
しかしこれを受けて、九州にいた足利直冬が挙兵し、南朝方として京都に攻め込んできます。
前述の通り、直冬は直義の養子であり、義詮にとっては異母兄弟(尊氏の庶子)です。
義詮は後光厳天皇を連れて京都を逃れ、美濃に落ち延びると、追って尊氏も西上し、久しぶりの父子対面を果たしています。
そこからしばらく京都を巡る戦いが行われ、文和四年(1355年)3月に直冬が兵糧不足で撤退。
翌文和五年(1356年)あたりからは尊氏が病気がちになっていくため、いよいよ義詮の重みが増していきました。
息子の代に問題を持ち越したくなかったのか、尊氏は、直義や直冬方だった武士にこう告げます。
「降伏すれば今まで持っていた土地は認める」
それだけでなく、南朝方に拉致されたままだった上皇たちを京都に迎えたり、戦後処理のような事を進めました。
しかし、尊氏の口約束同然の感状(褒美をやる約束をした手紙)が大量にありすぎて、義詮だけでなく、後々の将軍も頭を悩ませることになります。
地味に仕事をこなして義満の時代へ
父から息子へ、権力の移譲はほぼ問題なく遂行。
尊氏が亡くなると、足利義詮は二代目として将軍の位に就きました。
しばらくは南朝相手に京都の奪い合いを続け、そのたびに天皇を逃したり、公家の二条良基らと連携したりして、北朝宮廷への影響力を強めてゆきます。
ちなみに、尊氏と義詮は和歌を得意とする文人でもありました。
義詮は後光厳天皇へ勅撰和歌集(天皇や皇族の命令で作られる和歌集)の編纂を提案しており、天皇がそれを受けて『新拾遺和歌集』の編纂を命じています。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の時代は、ごく一部の武士しか嗜んでいなかった和歌も、この頃になると格段にレベルが向上していることがうかがえますね。
残念なのは
◆テンションの上下が激しすぎる幕府創設者の父・尊氏
◆ダイナミックすぎる発想の息子・義満
という濃いキャラの二人に挟まれて、義詮個人のインパクトが薄れてしまうことでしょうか。
舵取りが最も難しい「二代目」をこの動乱の中で見事やってのけたのですから、それだけで相当な力量かと思われます。
もう少し後世で認められてよいのではないでしょうか。
死の直前、大量に鼻血を噴き出していた?
足利義詮の印象が地味な理由は、享年38という短命も原因かもしれません。
詳しいことは不明ながら、三条公忠(きんただ)の日記『後愚昧記』(建武の新政をボロクソに書いている日記)では、義詮のことをこう記しています。
「義詮は亡くなる二日前、大量に鼻血を噴き出していた」
急激に病状が悪化してこの通りの出来事が起きたのか。
あるいは「南朝方の怨念が云々」といったたぐいの比喩表現なのか。
判断に困るところですが、義詮は元々体が弱かったわけでもなさそうですし、もしもこの描写が事実ならば、急性白血病などの症状でしょうか。
義詮は子供が少なかったため、わずか9歳の義満へ跡を継がせざるを得ませんでした。
親としては心配が尽きなかったでしょうね。
実際にはこの義満が南北朝問題を解決したり、ド派手な鹿苑寺金閣を建てたり、「日本国王」と扱われたりで、良い方向に転んだのですが……。
★
義詮のお墓は三ヶ所あります。
そのうち宝筐院(ほうきょういん・京都市右京区嵯峨野)のお墓は、かつての敵・楠木正行(正成の長男)の隣にあります。
尊氏が楠木正成を認めていたように、義詮も敵とはいえ、武士の信念を貫いた正行のことを尊敬していたので、そのように言い残したのでした。
もしかすると、他にもよく似たところのある親子だったのかもしれませんね。
それでもやっぱり地味ですが。
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長月 七紀・記
【参考】
清水克行『足利尊氏と関東 (人をあるく)』(→amazon)
国史大辞典