たとえ本人に凡人ならぬ能力が備わっていたとしても、凄まじいプレッシャーで悲劇的な運命を辿ってしまう人もいます。
しかし武家の場合は、そんな甘っちょろいことも言ってられないわけで……。
正平二年(1347年)11月26日に住吉合戦に挑んだ楠木正行(まさつら)も、おそらくはそんな気分だったでしょう。
名字からなんとなくご想像つくでしょうか。
楠木正成の長男です。
彼もまた歴史上には数年しか登場しませんが、その働きは父の名に恥じないものでした。
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父の楠木正行「武芸を磨いてその時を待つように」
楠木正行は生年がはっきりしていないので、父と別れた時何歳くらいだったのかはよくわかりません。
早くて満12歳位でしょうか。
父・楠木正成は最後の戦である湊川の戦いに赴く前、正行と弟・正時に
「今すぐ仇を取ろうなどとは考えず、武芸を磨いてその時を待つように」
と固く命じていました。
二人はその言葉を忠実に守りましたが、やはり湊川直後はそうも行かなかったらしき逸話があります。
太平記では、尊氏が正成の首実検を終えた後に
「正成は変わり果てた姿になってしまったが、妻子は再会したいに違いない」
と言って楠木家へ正成の首を届けさせたとき、正行が自害しかけて母に止められた……というエピソードが挿入されているのです。
父との関係がクローズアップされやすい傾向にありますが、この後の正行たちは父だけでなく母の言いつけを守るために行動していったのでしょう。
ちなみに正行には、正時の他にもうひとり弟がいます。
楠木正儀という人で、湊川の戦い当時は年齢ひとケタ前半の幼児でした。もちろん「桜井の別れ」の場面には登場しません。
おそらく正儀には父の記憶がなかったでしょうね。
そのためか、正儀は正成・正行・正時とは異なる価値観を持っていたようで、成長した後の動きが全く異なります。まあその話は機会を改めるとしましょう。
それからしばらくの間、正行たちは楠木氏の本拠である南河内で成長したとみられています。
おそらく近隣の土豪たちにも正成の最期は伝えられていたと思われるので、跡継ぎの正行に協力を惜しまなかったでしょう。
正成と親交のあった僧侶も、正行らに協力したはずです。
これは想像の域を出ませんが、正成の郎党や河内の協力者に仕えている下男などが諜報活動をし、正行・正時兄弟の成長を待ちながら戦力を集めたのかもしれません。
後村上天皇のもとに参上
次に楠木正行たちが登場するのは、暦応三年=延元五年(1340年)4月のこと。
後村上天皇の「祈祷費用のために河内の小高瀬荘(現・大阪府守口市)をそちらに寄進する」という命令を観心寺に伝えるという役目を果たしました。
これ以前に後村上天皇のもとに参上し、味方する意志を伝えていたのでしょう。
この時期になると、新田義貞や北畠顕家なども討死してしまっており、後村上天皇たち南朝方にとって正行たちの存在は心強かったと思われます。
正行は南朝における河内国司に任じられ、文武を学びながら統治能力を育て、兵を集め続けました。
「無念のうちに父を失った」という点では後村上天皇とも通じるところがあり、心情的に近かったと思われます。
とはいえ、後醍醐天皇のアレコレがなければ正成はこの時点でも生きていた可能性が高いので、複雑な気持ちだったかもしれませんね。
反攻開始
正平二年=貞和三年(1347年)8月10日、楠木正行はついに出陣します。
まずは紀伊の隅田城(岩倉城/和歌山県橋本市)を攻め、紀伊から河内・摂津などへ北上する形で進みました。
これは父・正成の進軍ルートをなぞることで、父の武名を効果的に使うねらいがあったとみられています。
この辺の感覚がまさに父譲りですね。
さらに、現在の大阪府にある住吉や天王寺方面などで足利軍を打ち破り、名実共に中心的な存在になっていきます。
しかし、幕府軍としてもそうやられっぱなしでいるわけにはいきません。
まずは幕府側の河内守護・細川顕氏(あきうじ)に佐々木道誉らをつけて討伐を命じます。
正行軍の士気は高く、8月~9月にかけて河内の池尻(現・大阪狭山市)・八尾城(八尾市)・藤井寺(藤井寺市)で次々に室町幕府軍を破りました。
これらの戦いで、正行はいったん追撃を緩めたり、夜襲を仕掛けたりと緩急を使い分けたとされています。楠木軍の統率の良さがうかがえますね。
このままでは面目丸つぶれになる幕府側は、同年11月に山名時氏を増援に向かわせ、体制の立て直しを図りました。
こうして
南朝方
楠木正行
vs
北朝方
山名時氏と細川顕氏
という形で行われたのが【住吉合戦】です。
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