偉大すぎる親を持つと、子は大変です。
たとえ本人に凡人ならぬ能力が備わっていたとしても、凄まじいプレッシャーで悲劇的な運命を辿ってしまう人もいます。
しかし武家の場合は、そんな甘っちょろいことも言ってられないわけで……。
正平二年(1347年)11月26日に住吉合戦に挑んだ楠木正行(まさつら)も、おそらくはそんな気分だったでしょう。
名字からなんとなくご想像つくでしょうか。
楠木正成の長男です。
彼もまた歴史上には数年しか登場しませんが、その働きは父の名に恥じないものでした。

水野年方『楠正行弁の内侍を救ふ図』/wikipediaより引用
父の楠木正行「武芸を磨いてその時を待つように」
楠木正行は生年がはっきりしていないので、父と別れた時何歳くらいだったのかはよくわかりません。
早くて満12歳位でしょうか。
父・楠木正成は最後の戦である湊川の戦いに赴く前、正行と弟・正時に
「今すぐ仇を取ろうなどとは考えず、武芸を磨いてその時を待つように」
と固く命じていました。

楠木正成/wikipediaより引用
二人はその言葉を忠実に守りましたが、やはり湊川直後はそうも行かなかったらしき逸話があります。
太平記では、尊氏が正成の首実検を終えた後に
「正成は変わり果てた姿になってしまったが、妻子は再会したいに違いない」
と言って楠木家へ正成の首を届けさせたとき、正行が自害しかけて母に止められた……というエピソードが挿入されているのです。
父との関係がクローズアップされやすい傾向にありますが、この後の正行たちは父だけでなく母の言いつけを守るために行動していったのでしょう。
ちなみに正行には、正時の他にもうひとり弟がいます。
楠木正儀という人で、湊川の戦い当時は年齢ひとケタ前半の幼児でした。もちろん「桜井の別れ」の場面には登場しません。
おそらく正儀には父の記憶がなかったでしょうね。
そのためか、正儀は正成・正行・正時とは異なる価値観を持っていたようで、成長した後の動きが全く異なります。まあその話は機会を改めるとしましょう。
それからしばらくの間、正行たちは楠木氏の本拠である南河内で成長したとみられています。
おそらく近隣の土豪たちにも正成の最期は伝えられていたと思われるので、跡継ぎの正行に協力を惜しまなかったでしょう。
正成と親交のあった僧侶も、正行らに協力したはずです。
これは想像の域を出ませんが、正成の郎党や河内の協力者に仕えている下男などが諜報活動をし、正行・正時兄弟の成長を待ちながら戦力を集めたのかもしれません。
後村上天皇のもとに参上
次に楠木正行たちが登場するのは、暦応三年=延元五年(1340年)4月のこと。
後村上天皇の「祈祷費用のために河内の小高瀬荘(現・大阪府守口市)をそちらに寄進する」という命令を観心寺に伝えるという役目を果たしました。
これ以前に後村上天皇のもとに参上し、味方する意志を伝えていたのでしょう。

後村上天皇/wikipediaより引用
この時期になると、新田義貞や北畠顕家なども討死してしまっており、後村上天皇たち南朝方にとって正行たちの存在は心強かったと思われます。
正行は南朝における河内国司に任じられ、文武を学びながら統治能力を育て、兵を集め続けました。
「無念のうちに父を失った」という点では後村上天皇とも通じるところがあり、心情的に近かったと思われます。
とはいえ、後醍醐天皇のアレコレがなければ正成はこの時点でも生きていた可能性が高いので、複雑な気持ちだったかもしれませんね。
反攻開始
正平二年=貞和三年(1347年)8月10日、楠木正行はついに出陣します。
まずは紀伊の隅田城(岩倉城/和歌山県橋本市)を攻め、紀伊から河内・摂津などへ北上する形で進みました。
これは父・正成の進軍ルートをなぞることで、父の武名を効果的に使うねらいがあったとみられています。
この辺の感覚がまさに父譲りですね。
さらに、現在の大阪府にある住吉や天王寺方面などで足利軍を打ち破り、名実共に中心的な存在になっていきます。
しかし、幕府軍としてもそうやられっぱなしでいるわけにはいきません。
まずは幕府側の河内守護・細川顕氏(あきうじ)に佐々木道誉らをつけて討伐を命じます。

佐々木道誉/wikipediaより引用
正行軍の士気は高く、8月~9月にかけて河内の池尻(現・大阪狭山市)・八尾城(八尾市)・藤井寺(藤井寺市)で次々に室町幕府軍を破りました。
これらの戦いで、正行はいったん追撃を緩めたり、夜襲を仕掛けたりと緩急を使い分けたとされています。楠木軍の統率の良さがうかがえますね。
このままでは面目丸つぶれになる幕府側は、同年11月に山名時氏を増援に向かわせ、体制の立て直しを図りました。
こうして
南朝方
楠木正行
vs
北朝方
山名時氏と細川顕氏
という形で行われたのが【住吉合戦】です。
住吉合戦
幕府軍は数で押してこようとしている――それを悟った楠木正行は、まず山名時氏軍を破って出鼻をくじく作戦を取りました。
瓜生野(大阪市住吉区)に陣取っていた時宇治郡を集中攻撃。
時氏に大怪我を追わせ、その弟三人を討ち取るという快勝をキメたのです。

山名時氏/wikipediaより引用
時氏軍は背後の阿倍野(同阿倍野区)に布陣していた土岐・明智軍と合流しようとしたものの、勢いに乗って追撃してくる楠木軍に散々やられたとか。
細川顕氏はまさにほうほうの体で京都に逃げ帰っています。
『太平記』ではこの戦いの終わり際に、正行を人情家として以下のように描いています。
「敗走する途中で淀川に落ちた敵兵500ほどに対し正行が情けをかけ、衣服や薬・鎧・馬などを与えて逃してやろうとした。彼らは正行に恩返しをするべく、楠木軍に加わった」
創作の可能性は拭えませんが、あり得なくはない話です。
この頃の室町幕府では、高師直の部下たちが狼藉を働いて処罰されるといった事件が頻繁に起きており、兵卒にとってあまり居心地が良い空気とはいえませんでした。
そんな状況で敵とはいえエライ人に情けをかけられれば、鞍替えしたくなるのも無理はありません。
高師直・師泰兄弟を河内に向かわせ
事態の重大さに驚いた幕府は、貞和三年=正平二年(1347年)十二月に高師直・師泰兄弟を河内に向かわせました。

かつて足利尊氏の肖像画とされ、近年、高師直だという説が根強くなった『守屋家旧蔵本騎馬武者像』/Wikipediaより引用
これを聞いた楠木正行は吉野の後村上天皇に挨拶に行ったとされます。
高兄弟はこれまでに名将たちを討ってきていますから、自分で敵うかどうか自信がなかったのかもしれませんね。
後村上天皇は正行の才を惜しんで「生きて帰るように」と声をかけたそうですが、正行はこの時点で覚悟を決めていたと考えられています。
拝謁を済ませた後、正行は後醍醐天皇の陵(みささぎ)に参り、近辺にある如意林堂の壁板に自軍の者たちの名を書き連ねました。
そして最後に辞世の句を添えたとされます。
返らじと かねて思へば 梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる
【意訳】弓から放たれた矢は二度と戻らない。これから高兄弟との戦に臨む我々も同じだと覚悟を決めている。せめてここに書き残した名だけは止め置いてほしい。
四條畷の激戦
年明け早々に楠木軍・高軍ともに決戦の地へ赴きました。
楠木軍は往生院、高師直は四條畷、弟の師泰は堺へ布陣。
楠木正行は師直の首ひとつに狙いを定めて突撃を敢行し、「ようやく取った!」と思った首は身代わりでした。
正行は本物の師直を探して駆け続けるうちに、全身を射られて深手を負ってしまいます。
そこで「もはやこれまで」と覚悟を決めた正行と正時は、互いに刺し違えたのだとか……。

尾形月耕画『楠正行 四條畷忠戦之圖』/wikipediaより引用
残った兵も次々に腹を切り、死出の旅の供をしたといいます。
前述の通り生年がはっきりしていないため、正行の享年も諸説あります。おおむね20代前半~半ばと考えればいいでしょうか。
その後、勢いに乗った高師泰は正行の屋敷を焼き払うなどして楠木軍の残党狩りを続けました。
さらに師直はそのまま吉野へ攻め入り、南朝方の行宮を焼き払って後村上天皇を賀名生(奈良県五條市)へ追いやっています。
この中で末弟・楠木正儀が生き延びたのは奇跡的ですね。

『名誉三十六合戦』楠木正儀(歌川国芳作)/wikipediaより引用
明治時代になると、正行は四条畷神社の主祭神として祀られ、弟・正時をはじめ、最期まで同行した人々も祭神となりました。
また、父と同様に皇国史観の時代には忠臣の代表格として教科書で喧伝されています。
もしも幕府に残ったとしても……
楠木正行には野戦の才能があったと思われ、もう少し長く生きていれば、南朝方で重い立ち位置になれたでしょう。
しかし後世から見ると、彼らが歴史の表舞台から退場するタイミングとしては最適だったのかもしれません。
江戸幕府が始まっていわゆる「太平の世」へ向かったとき、武力で身を立てたり高い評価を受けていた武将のほとんどが「俺はもうこの世に必要ない存在なんだ」と嘆いた……なんて話があります。
有名どころでは、福島正則や本多忠勝にその手の逸話がありますね。
例によって想像上の話ですが、もしもこの後の楠木一族が室町幕府と戦わず、幕臣として残っていたとしたら、そんな風になっていたんじゃないですかね。
幕府へ反抗する人はその後も多々いましたので、鎮圧に駆り出されて武力を輝かせることはできたかもしれませんが、そのうち
「なぜ俺たちは、こんなにも背かれるような幕府に従っているのだ? 足利と戦った正成公のほうが正しかったのではないか?」
と、煩悶することになったのではないでしょうか。
かといって南朝方で戦い続けた場合、考えが異なる弟・正儀と仲間割れし、不幸な結末をたどった可能性もあるわけで……成功や幸せって難しいですね。
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【参考】
生駒孝臣『楠木正成・正行(実像に迫る006)』(→amazon)
かみゆ歴史編集部『完全解説 南北朝の動乱』(→amazon)
国史大辞典
世界大百科事典
日本大百科全書(ニッポニカ)





