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【楠木正行】
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住吉合戦
幕府軍は数で押してこようとしている――それを悟った楠木正行は、まず山名時氏軍を破って出鼻をくじく作戦を取りました。
瓜生野(大阪市住吉区)に陣取っていた時宇治郡を集中攻撃。
時氏に大怪我を追わせ、その弟三人を討ち取るという快勝をキメたのです。
時氏軍は背後の阿倍野(同阿倍野区)に布陣していた土岐・明智軍と合流しようとしたものの、勢いに乗って追撃してくる楠木軍に散々やられたとか。
細川顕氏はまさにほうほうの体で京都に逃げ帰っています。
『太平記』ではこの戦いの終わり際に、正行を人情家として以下のように描いています。
「敗走する途中で淀川に落ちた敵兵500ほどに対し正行が情けをかけ、衣服や薬・鎧・馬などを与えて逃してやろうとした。彼らは正行に恩返しをするべく、楠木軍に加わった」
創作の可能性は拭えませんが、あり得なくはない話です。
この頃の室町幕府では、高師直の部下たちが狼藉を働いて処罰されるといった事件が頻繁に起きており、兵卒にとってあまり居心地が良い空気とはいえませんでした。
そんな状況で敵とはいえエライ人に情けをかけられれば、鞍替えしたくなるのも無理はありません。
高師直・師泰兄弟を河内に向かわせ
事態の重大さに驚いた幕府は、貞和三年=正平二年(1347年)十二月に高師直・師泰兄弟を河内に向かわせました。
これを聞いた楠木正行は吉野の後村上天皇に挨拶に行ったとされます。
高兄弟はこれまでに名将たちを討ってきていますから、自分で敵うかどうか自信がなかったのかもしれませんね。
後村上天皇は正行の才を惜しんで「生きて帰るように」と声をかけたそうですが、正行はこの時点で覚悟を決めていたと考えられています。
拝謁を済ませた後、正行は後醍醐天皇の陵(みささぎ)に参り、近辺にある如意林堂の壁板に自軍の者たちの名を書き連ねました。
そして最後に辞世の句を添えたとされます。
返らじと かねて思へば 梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる
【意訳】弓から放たれた矢は二度と戻らない。これから高兄弟との戦に臨む我々も同じだと覚悟を決めている。せめてここに書き残した名だけは止め置いてほしい。
四條畷の激戦
年明け早々に楠木軍・高軍ともに決戦の地へ赴きました。
楠木軍は往生院、高師直は四條畷、弟の師泰は堺へ布陣。
楠木正行は師直の首ひとつに狙いを定めて突撃を敢行し、「ようやく取った!」と思った首は身代わりでした。
正行は本物の師直を探して駆け続けるうちに、全身を射られて深手を負ってしまいます。
そこで「もはやこれまで」と覚悟を決めた正行と正時は、互いに刺し違えたのだとか……。
残った兵も次々に腹を切り、死出の旅の供をしたといいます。
前述の通り生年がはっきりしていないため、正行の享年も諸説あります。おおむね20代前半~半ばと考えればいいでしょうか。
その後、勢いに乗った高師泰は正行の屋敷を焼き払うなどして楠木軍の残党狩りを続けました。
さらに師直はそのまま吉野へ攻め入り、南朝方の行宮を焼き払って後村上天皇を賀名生(奈良県五條市)へ追いやっています。
この中で末弟・楠木正儀が生き延びたのは奇跡的ですね。
明治時代になると、正行は四条畷神社の主祭神として祀られ、弟・正時をはじめ、最期まで同行した人々も祭神となりました。
また、父と同様に皇国史観の時代には忠臣の代表格として教科書で喧伝されています。
もしも幕府に残ったとしても……
楠木正行には野戦の才能があったと思われ、もう少し長く生きていれば、南朝方で重い立ち位置になれたでしょう。
しかし後世から見ると、彼らが歴史の表舞台から退場するタイミングとしては最適だったのかもしれません。
江戸幕府が始まっていわゆる「太平の世」へ向かったとき、武力で身を立てたり高い評価を受けていた武将のほとんどが「俺はもうこの世に必要ない存在なんだ」と嘆いた……なんて話があります。
有名どころでは、福島正則や本多忠勝にその手の逸話がありますね。
例によって想像上の話ですが、もしもこの後の楠木一族が室町幕府と戦わず、幕臣として残っていたとしたら、そんな風になっていたんじゃないですかね。
幕府へ反抗する人はその後も多々いましたので、鎮圧に駆り出されて武力を輝かせることはできたかもしれませんが、そのうち
「なぜ俺たちは、こんなにも背かれるような幕府に従っているのだ? 足利と戦った正成公のほうが正しかったのではないか?」
と、煩悶することになったのではないでしょうか。
かといって南朝方で戦い続けた場合、考えが異なる弟・正儀と仲間割れし、不幸な結末をたどった可能性もあるわけで……成功や幸せって難しいですね。
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長月 七紀・記
【参考】
生駒孝臣『楠木正成・正行(実像に迫る006)』(→amazon)
かみゆ歴史編集部『完全解説 南北朝の動乱』(→amazon)
国史大辞典
世界大百科事典
日本大百科全書(ニッポニカ)