延元3年/建武5年(1338年)閏7月7日は新田義貞の命日です。
7月2日との説もありますが、いずれにせよ義貞の働きにより鎌倉幕府が滅亡したのが元弘3年/正慶2年(1333年)のことですから、それからわずか5年後に亡くなっているんですね。
幕府という強敵を倒しておきながら、なぜ、そんな結末を迎えてしまったのか。
いったい新田義貞とはどんな武士なのか。
本記事でその生涯を振り返ってみましょう。

新田義貞公肖像/wikipediaより引用
豊かではないが人を結びつける才がある
新田義貞は出生年だけでなく出生地も不明。
源氏の名門なのに義貞の元服した年齢だけでなく、出生年が不明なので享年もわかりません。
妻は得宗被官(北条氏本家の家臣)である安東氏の出身でしたので、義貞にせよ全く幕府中枢と関係がなかったわけでもないでしょう。
足利尊氏の妻が、北条氏の中でも次席にあたる赤橋氏出身ということを考えると、やはり新田氏が一段下に見られている気配は漂います。しかし……。
実は尊氏よりも義貞の方が、武士らしい振る舞いをしていたことも多々あります。
例えば、まだ鎌倉幕府を討つ前、義貞が家督をついで間もないと思われる時期の話です。
新田氏は、源氏一門とはいえ北条氏と仲が悪かったので、名門にあるまじき無位無官という状態。
財政的にも厳しく、領地も家名に相応しくないほど小規模でした。
しかしそのころ義貞の本拠である新田氏の氏寺・長楽寺が火災で燃えてしまい、大谷道海という僧侶がその再建をしたいと考えていました。

群馬県太田市にある長楽寺/wikipediaより引用
彼の出自には諸説あるのですが、親族の女性のうち何人かが新田氏の家臣に嫁いでおり、氏寺である事も重なって、義貞が再建に関わることになります。
ただし、手元に余裕資金がないのは義貞も同じ。
そこで考えました。
「再建に協力してやりたいのはやまやまなんだけど、領地売っても足りないな……そうだ、お金ある人に協力してもらおう!」
ということで、有徳人(当時の資産家・お寺に気前よく寄付する=徳が有る人という意味)を自分の領地に呼び、再建費用を寄付してもらう代わりに、その人とお寺周辺の警備を請け負うことでwin-winの関係を作り出したのです。
後に敗戦が続いて愚将扱いされることもありますが、実際はそうでないことがわかるでしょう。
あいにく北条氏からの扱いは変わらず、書状でも名前を間違えられる有様でしたが……。
仮病も使える演技力
新田義貞は、それでもしばらくの間、幕府に従順でいました。
しかし、上方で後醍醐天皇が倒幕の意思を明らかにし、後醍醐天皇の皇子・護良親王からも令旨が飛ぶと、各地で天皇方に従い始める武士が出始めます。
このとき義貞たちには、幕府から「天皇方・楠木正成の籠る“千早城”を攻略せよ」という命が下りました。

楠木正成/wikipediaより引用
義貞はここで重大な決断をします。
「すいません、持病のしゃくが出たので帰ります」と言って、勝手に戦線を離れてしまったのです。
本当に病気であれば、京都なり大坂なり近場で宿を取って療養しそうなものですが、領地である新田(現・群馬県太田市周辺)まで直で帰っているあたりから、仮病だったのでしょう。
直接の理由についての詳細は明らかではありません。
もしかすると、少数ながら士気も高く奮戦する楠木勢を見て、
「優勢のはずの幕府軍がこんなに苦戦するということは、先がない証拠ではないか?」
と考えたのかもしれません。
義貞が後醍醐天皇、あるいは護良親王の令旨を受けていたという説もありますが、定かではありません。事の性質上、記録が残りにくいことも影響しているでしょうか。
また「上野(こうずけ)に帰ってから起きた幕府との軋轢が引き金だ」とする説もあります。
幕府が正成討伐のための軍費を調達しようとして、義貞の地元で乱暴を働いたため、義貞が怒って一人を殺し、一人を勾留した。
これが幕府に報告されたため、先手を打って幕府に背いた。
というものです。
これも以下のような流れとも考えられます。
日頃から幕府に名前を間違えられたりして嫌気が差していた
↓
千早城で幕府方のグダグダっぷりに嫌気が差した
↓
地元でも幕府の人間が横暴なことをしてきた
↓
もう我慢できん!!
義貞挙兵!三方から鎌倉へ
そして千早城の戦いから二年後の元弘3年/正慶2年(1333年)5月。
ついに義貞は倒幕の兵を挙げます。
地元・生品神社でこのことを明らかにしたとき、義貞の手勢は150騎ほどしかいなかったそうです。1騎あたり2・3人は歩兵がつくとはいえ、それでも500人以下。
逆に考えれば、このような小勢でも幕府を潰したくなるほど、鬱憤なり恨みなりがたまっていたということでしょう。
そもそも生品神社も大きな神社ではありませんし。
余談ですが、生品神社の主祭神は大国主(オオクニヌシ)です。
そして大国主の子孫とされている一族のひとつが、諏訪大社の最高神官・大祝(おおはふり)を務める諏訪氏でした(別の説もあります)
後に義貞の息子・新田義興(よしおき)が諏訪氏に匿われたことがある北条時行と組んで足利軍と戦うことになるのは、なんとも奇妙な縁ですね。

新田義興(義貞の次男)/Wikipediaより引用
閑話休題。
新田軍の鎌倉侵攻ルートにはいくつかの説があり、判然としていません。
上野から鎌倉に向かう途中に利根川があり、渡河地点をどこにするかで意見が割れているためです。
古今東西、渡河中は軍が最も無防備になる状況ですので、義貞たちが慎重にそのポイントを選んだことは間違いありません。
その後、武蔵で鎌倉から脱出した足利千寿王(のちの義詮)らと合流し、同時に幕府方に「義貞挙兵」の知らせが届きました。
これにより小手指河原で両軍が激突し、双方に数百騎単位の死者が出て痛み分けになったとされます。
続く分倍河原の戦いでも新田方が勝利し、どんどん南下。
その後、北条泰家らが幕府方として新たに討伐へやってきますが、これはもう少し南の多摩川近辺で一進一退の戦いが行われました。
そして5月16日に三浦氏らの援軍を得た新田方が大勝し、一気に鎌倉へ押し寄せていきます。
もちろん当時は知る由もありませんが、同時進行で足利高氏(尊氏)が京都の幕府機関・六波羅探題を攻略していました。

広島県尾道市の浄土寺に伝わる足利尊氏肖像画/wikipediaより引用
義貞たちは5月18日からいよいよ鎌倉攻めを開始しますが、皆さんご存じの通り、鎌倉はどこから入ろうにも狭い道ばかり。軍を一気に通せるような道はありません。
そこで義貞は軍を三手に分け、
【北】巨福呂坂(こぶくろざか):堀口貞満隊
【北西】化粧坂(けわいざか):義貞と山名・岩松隊
【西】極楽寺坂(ごくらくじざか):大館宗氏隊
担当を分けて進みました。
【 】内は鎌倉中心部から見た方角となります。
堀口貞満も大館宗氏も新田氏の支流にあたる家の人で、さらに宗氏の妻は義貞の姉妹ですので、文字通り「一族総出」といった様相ですね。
これらの進軍ルートはいずれも「切通し」と呼ばれる狭い道です。
巨福呂坂や極楽寺坂については、後年の災害や開発の影響により当時の様子は不明ながら、化粧坂は現代でも「崖にかろうじて道がついている」ようなところ。
何十kgもの装備を身に着けた騎兵が大挙して通れるような場所ではありません。
おそらく当時は、巨福呂坂や極楽寺坂も似たようなものだったでしょう。
「切通し付近は狭すぎて戦えないので、鎌倉の防御は大したことない」
といわれることもありますが、どちらかというと
「一度に通れる人数を制限することによって、幕府側の人間が逃げる時間を稼ぐ」
ことが目的だったのかもしれません。
とはいえ、倒幕の際は幕府側があまり逃げていないのですが。
鎌倉の切通しは七ヶ所あり、義貞が侵攻ルートに選んだのは前述の通り北~西にかけての三ヶ所です。
ということは「北~東側の切通しを使うか、由比ヶ浜から舟で相模湾を抜け、房総半島や伊豆半島へ逃げる」というルートは残されていたことになります。
それでも前執権・北条高時をはじめとして自害する者、最期まで戦って討死した者のほうが多かったというのですから、幕府軍は潔すぎたともいえます。
さて、話を義貞軍に戻しましょう。
彼らは実際、どうやって攻め込んだのか。
鎌倉幕府を倒したのはこの人なのに
軍を三手に分けても切通しをスムーズに通ることができないのは前述の通り。
巨福呂坂では堀口隊と最後の執権・赤橋守時隊が激戦を繰り広げました。
守時は尊氏の妻の兄でもあるため「身内から裏切り者を出した」ことを恥じており、潔く戦って自害したといいます。
しかし堀口隊はそれ以上進めませんでした。
同時間帯の極楽寺坂でも、北条一族の大仏貞直隊相手に大館隊が苦戦し、宗氏らが討ち死に。その報告を受けた義貞が21日には極楽寺坂へ向かい、大勢を立て直します。
もう一方の化粧坂では新田義貞の弟・脇屋義助が任されて善戦しながら、やはり突破はできませんでした。
幕府軍にとっては、鎌倉の防御能力を最大限に生かした形ですね。
そこで5月21日、義貞は三つの切通しからの侵入を断念すると、極楽寺坂の南方・稲村ヶ崎から浜辺沿いを進み、由比ヶ浜から鎌倉へ入ることに決めます。
しかしこのルートは文字通りの波打ち際。
渡っている途中で満潮になろうものなら、鎌倉攻略どころではなくなってしまいます。
義貞がここへ来たときも満潮に近い状態だったらしく「これじゃ渡れませんよ」と尻込みする者もいたとか。
それに対し、義貞が黄金造りの太刀を海に捧げ、波が引くように祈ると、潮が引いて騎馬でも進めるようになった……という伝説があります。
・潮の満ち引きがたまたま合っただけ
・義貞が潮の引くタイミングを知っていただけ
・そもそもこの話がまるごと創作で、実際に突破したのは極楽寺坂
などの可能性も高いでしょうか。
このエピソードは義貞の見せ場として長く語り伝えられ、月岡芳年の手で浮世絵となりました。
芳年の描いた義貞はなかなかカッコよく、義貞をメインで扱っている書籍の表紙によく使われていますので、既にご存知の方も多いかもしれませんね。

太刀を海に投じる新田義貞(月岡芳年画)/wikipediaより引用
こうして義貞軍は21日に鎌倉市街へなだれ込み、北条氏を撃破。
22日に東勝寺で最後の得宗・北条高時を含めた一族の多くが自害し、わずかな生き残りは散り散りになりました。
義貞の挙兵から2ヶ月、鎌倉への進行を開始してから4日ほどで決着がついたことになります。
このときの戦死者は由比ヶ浜に埋葬されたらしく、なんと20世紀にもそれらしき壮年男性の遺骨が大量に見つかっています。
義貞も何もしてなかったわけではなく、幕府方の使者を弔うために九品寺(鎌倉市材木座)を建てているのですが、それは建武三年(1336年)になってからなんですよね。
その間のことは……あまり考えないでおきましょう。
どうしてもライバルに人気で勝てない
こうして鎌倉を攻め落とし、一躍時の人となった新田義貞。
もちろん足利高氏も六波羅探題を落としており、河内では楠木正成が千早城で幕府軍を引き付けるなど、それぞれに大功がありました。
しかし本来ならば、鎌倉を攻略した義貞が第一の功労者と扱われて然るべきところ。
ですが倒幕を果たした後、周囲の人々は
【官位・家柄・人格】
の三拍子揃った足利尊氏(ただし躁鬱の兆候あり)ばかりをチヤホヤし始めます。

広島県尾道市の浄土寺に伝わる足利尊氏肖像画/wikipediaより引用
これは鎌倉攻略時に足利千寿王と足利氏の一族が加わったことにより、
「鎌倉を攻め落としたのは足利・新田連合軍だ」
と認識されていたこと、そして高氏が朝廷から官位を受けていた=目上だったことによります。
義貞を支持する者もいましたが、中には足利・新田両方に連絡していた武士もいたそうですので、それを差し引けばお察しというところ。
義貞はさぞ悔しかったことでしょう。
鎌倉幕府を落としたことはもちろん、その後の鎌倉で戦後処理に奔走し、北条の残党狩りを行ったのは義貞なのですから。
ビッグネームでいえば、北条高時の庶子・邦時が義貞の手の者によって処刑されています。
邦時は「母方の伯父である五大院宗繁に裏切られて新田方に差し出された」という流れで命を落としているため、義貞の手柄というには胸が悪くなる話ではありますが……。
この辺は少年マンガ『逃げ上手の若君』の序盤でも描かれていましたね。
作中では五大院宗繁について「鬼畜大賞1333」「日本史上屈指の鬼畜武将」といった秀逸な表現がされています。
個人的には「日本胸糞大賞(将)」とでも呼びたいところです。
尊氏と比較して義貞に対する恩賞は?
話を新田義貞に戻しましょう。
鎌倉幕府の滅亡後は義貞も何とか認めてもらうべく、上洛して自分と一族に官位をもらいました。
新田義貞:従四位上と上野・越後・播磨国司
長子の新田義顕:従五位上と越後国司
弟・脇屋義助:駿河国司
一族で四カ国を得た――そう見れば悪くはないのですが、以下のように足利兄弟と比較すると、出遅れた感は否めません。
足利尊氏:従三位と武蔵・常陸・下総国司 「尊」の字を後醍醐天皇からもらう
足利直義:従四位と遠江・相模国司
倒幕一番の立役者に対する褒賞としては不足と言えるでしょう。
おそらく義貞には元々官位がなかったので「いきなり尊氏と同等にはできないから、とりあえずコレな」という扱いをされてしまったのではないでしょうか。
朝廷ではよくやる形ですけれども、義貞や新田一族としては歯がゆかったはず。
この後、義貞ももう少し良い扱いを受けられるようになります。
まずは武者所長官を任されました。
武者所は後醍醐天皇の親衛隊と警察を合わせたような機関で、新田一族の者が多く所属しました。

後醍醐天皇/wikipediaより引用
左衛門佐・左兵衛督などの官職も歴任しています。どちらも律令制の官職名なので、物語や日本史上でたびたび登場しますね。
左衛門佐は衛門府という役所の次官です。「門」とつく通り、内裏の門の警備や出入りする人の取り調べなどが仕事です。
後年では真田幸村(信繁)の官位としても有名ですね。
余談ですが、衛門府のトップは衛門督(えもんのかみ)といい、源氏物語の柏木がこの役職でした。
というか衛門督の雅称が「柏木」なので、紫式部は先に官職を決めてその雅称を名前扱いにしたのかもしれません。源氏物語の登場人物はいかにも実名らしい名前がつけられていませんしね。
左兵衛督は兵衛府という役所の長官で、天皇や皇族の警備を担当。
こちらは【建武の新政】の頃から武家に与えられるようになっていきます。武者所とも重なる部分があるため、義貞に与えられたのでしょう。
また、いずれも天皇や内裏の近辺に仕える職であり、義貞をはじめとした新田氏に一定の信頼があったとも考えられます。
建武の新政と中先代の乱
こうして始まった後醍醐天皇の主導による新しい政治。
真っ先に尊氏を警戒した護良親王が逆に讒言されると、鎌倉にいる尊氏の弟・足利直義(ただよし)に預けられ、足利氏の動きが怪しくなってきます。

護良親王/wikipediaより引用
新田義貞の動きはわかっていません。
もしも倒幕前に護良親王から令旨を受けていたのなら、親王から何らかの命を受け、軍を率いていてもおかしくないのですが……義貞が尊氏との対決を避けたのか、それほど深い信頼関係ではなかったのか。
しかし建武二年(1335年)7月になると、義貞は尊氏の動きに黙っていられなくなります。
このとき、北条本家の生き残り・北条時行と彼を奉じる諏訪氏らが、鎌倉を取り戻すため【中先代の乱】を起こしました。
尊氏は、後醍醐天皇の許可も得ずに東下し、鎌倉を奪還。
ドサクサに紛れて護良親王を殺し、鎌倉で征夷大将軍を名乗ると、関東の土地を自分の配下に配り始めました。
義貞にはあまり関係ない……と思いきや、この「勝手に配られた土地」の中に、義貞の領地が入っていたのですから穏やかではありません。
武士が勝手に所領を奪われ、怒らないわけがない。
この流れにより、尊氏と義貞は文書上でレスバみたいなケンカをしています。
どちらも朝廷に宛てて出されたもので、尊氏の言い分から見てみましょう。
・義貞は尊氏の六波羅攻略を知って乗っかろうとしただけです
・千寿王が新田軍に合流したおかげで兵が用意できた=義貞単独では幕府を倒せなかったはずです
・尊氏が時行征伐で苦労している中で義貞は楽をし、朝廷に讒言している! けしからんので討伐させてください!
対して義貞はどんな内容を送っていたのか?
・尊氏は名越高家(北条一族の人)が戦死したから天皇方についただけです
・私が上野で挙兵したのは5月8日、尊氏が六波羅を攻めたのは7日なので六波羅攻略の連絡が届くわけがないし、便乗しようとしたなんてただのイチャモンです
・足利は勝手に護良親王を殺したし、成良親王をないがしろにしています
・ですので尊氏と直義は討伐すべきです!
同じくなかなか激しい口調で反論されていますね。
尊氏の意見は、だいぶフワッとしている上に当時の情報伝達事情ではありえないことまで含まれており、義貞のほうが説得力を感じます。
しかし決定的ではなかったようで、朝廷では、どちらを信じるべきか散々意見が割れ、最終的には「義貞の意見がもっともだ」ということになりました。
護良親王の最期に立ち会った女房が、ちょうど京都に戻って報告したため、それも後押しになったとか。タイミングが抜群ですね。
尊氏「出家して帝に詫びる!」
尊氏征伐の綸旨を受けた新田義貞。
兵を東海道・東山道の二手に分け、凄まじいスピードで東へ向かうと、三河・矢作川を超えて鎌倉に接近します。
この段階で、尊氏方から義貞方についた武士も多かったようです。
一方、尊氏としては後醍醐天皇に反逆したつもりはなかったので、この報告を受けてかなり動揺し
「出家して帝に詫びる!!」
と、ダダをこねたとされています。
そこで足利直義らが「偽の綸旨」を用意して尊氏を押し留め、尊氏も天皇より一族郎党を重視して出陣します。
そして建武二年(1335年)12月に激突!
新田義貞軍は箱根で尊氏軍に敗れ、西へ逃げ帰らざるを得なくなってしまいます。
尊氏・直義軍はそれを追いかける形で西上し、それをさらに追って北畠顕家軍が追討に向かいます。
この追いかけっこ、壮大過ぎる。

北畠顕家/wikipediaより引用
「義貞敗北、尊氏西上」の報を受けた後醍醐天皇は、建武三年(1336年)1月、比叡山に逃れ、尊氏軍は京都に入りました。
一方、顕家軍は鎌倉を落としてさらに西上し続け、尊氏が入京した後、近江・坂本で義貞や楠木正成らと合流します。
そして顕家・義貞・正成らによって足利軍を京都から追い出すための総攻撃が始まり、不利になった足利軍は丹波経由で九州まで落ち延びていきました。
後醍醐天皇が京都に戻ると、義貞には尊氏追討のため西へ向かうよう命が下ります。
一方で顕家は奥州へ戻り、東国の足利方を警戒するよう命じられました。
ディスられる義貞
『太平記』では、この辺りから“新田義貞をディスる話”が二つ差し込まれています。
一つが「勾当内侍(こうとうのないし)」に関する話です。
勾当内侍という女性にうつつを抜かして出発を遅らせた、というものであり、彼女は宮廷に仕える女官の一人でした。
義貞が以前、垣間見したことがあり、一目惚れしたとされています。
そして、それを知った後醍醐天皇が褒美として下賜すると、義貞はその美女にすっかり骨抜きにされてしまい、軍の体制を整えるのが遅れた結果、湊川の敗戦に繋がる……というものです。
しかし、「勾当内侍」というのは個人名ではなく、女官の役職名であり、それほどの美女がいたのかどうかも確実ではありません。
また、彼女といちゃついていたとされる時期、新田義貞は瘧(おこり・マラリア)に罹って寝込んでいたともいわれています。
つまりこの話は「義貞は色ボケしたアホ」という印象操作をするための創作という見方もできてしまう。
義貞にはこの時点で既に三人も息子がいました。
勾当内侍以外では、特に女性に関する失敗談は残されていませんので、普段から常軌を逸する好色タイプではなさそうなのです。
まぁ、だからこそハマったときの落差がすごかった――という可能性も否定できませんが、近年では「ゼロから盛りすぎた話では?」という見方も強いようで、勾当内侍に関する話はあまり触れられなくなってきましたね。
もう一つのディスリエピソードは、新田義貞が播磨・白旗城の赤松円心にしてやられた……というものです。

赤松則村(赤松円心)/wikipediaより引用
「播磨守護の座をくれるなら、帝につこう」
円心がそのように持ちかけてきたため、義貞は後醍醐天皇へ使者を立て、返事を待ちました。
その間に兵糧を運び込んだり、城の修繕を済ませてしまったり。
実は円心は、すでに播磨守護の座は尊氏から認められていて、要は時間稼ぎのために義貞を騙したのです。
むろん義貞は怒り、白旗城を囲んで籠城戦を挑みました。
しかし籠城戦は、城の防御力に比例して城方が有利となってゆきますから、攻める方が大軍でないと、何も成果を挙げられずただただ時間を浪費することになってしまう。
そうこうしているうちに尊氏が九州で兵を集めて近畿地方へ戻ったため、義貞はいったん引き、兵庫で尊氏軍を防ごうとしました。
一方、そのころ楠木正成は、後醍醐天皇に以下のような献策をしています。
「義貞は役に立たないからクビ(物理)にして、尊氏と和睦したほうがいいですよ」(超訳)
「帝には再び比叡山へ避難していただき、尊氏軍を京都に誘い込んで兵糧攻めすれば勝てるでしょう」
しかし、正成の案はどちらも受け入れられず、逆に正成が西へ向かって尊氏軍を迎え撃つように命じられます。
湊川の戦い
後醍醐天皇の無謀な命令に従い、仕方なくやってきた楠木正成。
そんな正成と播磨で再会した義貞は「城ひとつすら落とせず面目ない。このまま退いてはあまりにも恥なので、せめて尊氏らに一矢報いたい」と語っていたとか。
正成は「貴方に大きな落ち度があったわけではない。戦うべきところと退くべきところを見誤らないでください」と励ましたそうです。
ただし『太平記』の記述なので、どこまで事実か不明です。
もしかしたら吹っ切れた正成が
「これで最期だから、今更言い争っても仕方がない」
「自分の意見は容れられそうにないし、ここで死ぬつもりだが、義貞とその兵だけでも逃げられれば天皇方の戦力は残せる」
と割り切っていた可能性もあるでしょうか。
そこで迎えるのが、正成最期の戦いとして知られる【湊川の戦い】です。
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湊川の戦いで南北朝の勇将たちが激突!尊氏 師直 義貞 正成 それぞれの正義
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この敗戦により、義貞は場所を変えて再戦を挑んだ(そして負けた)にもかかわらず
「お前が逃げたせいで正成が死んだ!」
という扱いを受けることになってしまいます。
それをいうなら、政略にも戦略にも失敗しまくってる割にメンツだけは守ろうとした後醍醐天皇と朝臣たちの責任のほうが大きいでしょう。
この時点で新田義貞まで討死していたら、南朝で実戦で働ける武将は誰もいなくなってしまいます。
顕家は(本来は)貴族ですし、この頃は東北にいますし。
護良親王が京都に留まって生き延びていれば、ここで重要な役割を果たせていたのでしょうけれども……。
義貞は京都へ戻り、敗れたことを報告した上で、パニックに陥った貴族たちと後醍醐天皇を連れ、近江へ逃れました。
今度は、足利軍が坂本を攻め、新田義貞らが防戦という状況になります。
結果、京は足利方に占拠され、坂本では食料が足りなくなって降参する者が現れ始めました。
尊氏は後醍醐天皇に戻ってきてほしかったのですが、抗戦を主張する義貞以下の新田軍をどうするかが次の問題となります。
後醍醐天皇は新田氏を切り捨て
後醍醐天皇はどうしたのか?
というと新田氏の切り捨てを密かに決めてしまいました。
『太平記』では、これを知った新田一族の堀口貞満が、京都に戻る後醍醐天皇の車に取りすがり、涙ながらに訴えたというシーンがあります。
一言でまとめると
「我ら一族はこの戦で多くの者を喪ったのに、義貞に何も知らせず尊氏との和睦を結ぶとはあんまりな扱いではありませんか。
お見捨てになるのならば我ら全員の首をはねてください!」
といった感じです。
堀口がそう訴えたくなるのも無理ない話であり、後醍醐天皇の判断はさすがにあんまりでしょう。
後醍醐天皇としては一応「和睦は一時的なもののつもりで、情報漏洩を防ぐために知らせなかったんだ」と義貞たちに説明しています。

後醍醐天皇図/Wikipediaより引用
しかし「義貞は怒りを抑えきれず顔に出ていました」(超訳)とまで書かれています。
後醍醐天皇は血筋を残す目的もあってか、義貞に「恒良親王と尊良親王を奉じて越前へ向かうように」と命じていますが、この経緯が事実であれば厄介払いの香りもしますね。
かくして後醍醐天皇は和睦のため京都へ入り、尊氏の奉じる光明天皇に【三種の神器】を渡して譲位した……ことにしましたが、その後、京都から逃げて吉野にたどりつき、突如、宣言します。
「私は譲位なんてしてましぇーん!」
本格的な南北朝時代の始まりです。
北陸にて
新田義貞が向かわされた当時の北陸は、一体どんな状況だったのか。
越前では、義貞の弟・脇屋義助が国司を務め、新田氏の支族である堀口貞義という人が守護を任されていました。
いわば新田氏の根拠地となっていたわけですね。
しかし、そこへ向かう道中は厳しいものでした。
足利軍の追撃があったり、寒さによる凍死者が続出したり、あるいは悩んだ末に降伏する者が出るなどの苦難があったのです。
残った義貞一行は、どうにかこうにか金ヶ崎城へ辿り着き、新たに兵を集めて、態勢を立て直します。
しかし、翌建武四年(1337年)1月、幕府から高師泰が討伐に派遣されてきました。
新田軍は城に籠もってどうにか応戦するも、兵糧が尽きたこともあって3月6日に落城。
義貞は脱出に成功しましたが、恒良親王は捕えられ、尊良親王と義貞の嫡子・新田義顕はここで自害という悲惨な結末になりました。
足利方はこれで親王を二人手にかけたことになります。
義貞は杣山城(そまやまじょう・福井県南条郡南越前町)に移り、3月14日に再び兵を集めていますので、闘志のほどがうかがえます。
一方、同年8月には奥州にいた北畠顕家が再び西上を始めました。
顕家は、自身の留守中に奥州で優勢になっていた足利方を撃破していたのですが、後醍醐天皇をはじめ、あっちこっちから遠征を求められ、仕方なく応じることにしたのです。
顕家が出立したことを知った後醍醐天皇は、すかさず義貞を始めとした各地の南朝方に呼応するよう命じました。
もちろん義貞もこれに従うのですが……。
延元三年(1338年)2月に杣山城から出撃して越前国府を占拠。
その少し前の1月28日に北畠軍が美濃・青野ヶ原で足利軍を破っていたため、近江近辺で新田軍が合流することも不可能ではありませんでした。
しかし連絡がつかなかったのか、それとも別の理由があったのか、新田軍と北畠軍はこの後も別々に戦い続けます。
理由としては
・顕家が義貞の戦果を妬んだ
・北畠軍に加わっていた北条時行が合流に反対した
などが挙げられていますが、定かではありません。
東北武士を実力で従わせてきた北畠顕家や、父の仇と取れなくもない南朝に降った北条時行にしては、少々幼稚で違和感がかなりありますね。
時行については経緯が経緯だけにまだわかるにせよ、顕家は義貞と比べて身分も実績もあります。
前回の京都争奪戦では連携もしていたわけで、妬むようなところは皆無と言えるでしょう。
この後、北畠軍は直接京都へ向かわず、なぜか伊勢方面へ向かっていることも気にかかります。
これは完全な憶測ですが、新田・北畠両軍が直接連絡できなかったため、後醍醐天皇を経由して何らかの情報を得ようとしたのかもしれません。
連絡がいつになるかわからない状態では、しばらく足利方との戦闘を避けられるような地点に移動したかったでしょうから。
ともかく詳細は不明ながら、この連携が上手く機能しなくなったことで、南朝方は決定的に不利になりました。
結束力では足利よりも上なはず……
北畠軍は伊勢・奈良を経由して河内方面から京都へ進軍しようとします。
しかし、途中で足利軍に阻まれると、5月22日には進退窮まって顕家が自害。
この間、義貞はひたすら北陸で戦い続けていましたが、自ら閏7月2日に藤島城(福井市)攻めの救援に向かったところ、道中でばったり足利方と遭遇し、閏7月7日に深田の中に落とされたところへ矢を射掛けられ、自害したとされています。
義貞の戦力は50騎、足利方は300騎だったとされているので、田んぼに落ちなくても多勢に無勢だったでしょうね……。
このときばかりは義貞のフットワークの軽さが仇になった形です。
かつての鎌倉攻めのように、自ら動くことで士気の低下を防ぎ、現地の状況を見て適切な戦略を考えるつもりでいたのでしょう。
勝った回数もそれなりに多いのですが、負けたときのインパクトがデカすぎるためか、義貞はやはり正成や尊氏より一段低く見られがちです。
しかし
・地元での逸話
・義貞に直接歯向かった身内がいないこと
・息子や甥たちが彼の死後もかなり頑張っていること
などから考えると、一族の長としては優れた人物だったのではないでしょうか。
地元群馬県では『上毛かるた』の「れ」に採用されていたり、明治時代には正一位を与えられているなど、公的には悪い扱いではありません。
都内では、分倍河原駅前にある新田義貞像が、なかなかカッコ良い構図で作られています。

新田義貞の騎馬像
政治力が足りなかったのは事実ですが、それをいうならそもそも後醍醐天皇のほうが……。
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【参考】
峰岸 純夫『新田義貞(人物叢書)』(→amazon)
笹間良彦『鎌倉合戦物語』(→amazon)
ほか






