自分の親と、結婚相手の親が、ケンカどころか殺し合い。
そんな地獄の状況が平気で起きるのが戦国時代ですが、とりわけ厳しい状況に追い込まれたのが黄梅院(おうばいいん)でしょう。
武田信玄の娘にして、北条氏政の正妻。
武田―北条―今川間で結ばれた「甲相駿三国同盟」の締結により、甲府から小田原へ嫁いでいった女性ですが、その後、信玄の駿河侵攻を機に、実家と嫁ぎ先が激しい戦争状態へと突入してしまいます。
このとき黄梅院は実家へ送り返された――というのがよく知られた話でしたが、近年の研究によりその辺の事情が大きく変わってきました。
永禄十二年(1569年)6月17日は、そんな黄梅院が亡くなった日。

絵・小久ヒロ
当時を振り返ってみましょう。
甲相駿三国同盟による政略結婚
黄梅院の幼少期はほとんど不明。
記録に登場するのは、天文二十三年(1554年)、相模の北条氏政へ嫁ぐところからです。
当時の武田家と北条家、そして今川家を加えた三家は、前述のとおり「甲相駿三国同盟」を締結し、
互いの子供たちを政略結婚させました。

甲相駿三国同盟を結んだ三名(左から北条氏康・今川義元・武田信玄)/wikipediaより引用
政略結婚というと、いかにもビジネスライクな冷たい印象を受けますが、黄梅院についてはそうでもなく、かなり盛大な花嫁行列だったことが伝わっています。
以下の通り、
・十二丁の輿
・四十二丁もの長持(衣装や寝具を運ぶ道具)
・騎馬3000
・兵1万
江戸時代の大名行列に匹敵しそうな規模だったとされているのです。
ただし、騎馬3000・兵1万というのはさすがに誇張であり、それだけ結婚と同盟の重要性を強調したかったからと考えられます。
兵が装備していた刀や槍は金銀や鮫の皮などで装飾されていたそうですので、北条に対する信玄の国力誇示などもあったかもしれません。

絵・富永商太
『甲陽軍鑑』にこんな話が掲載されています。
・武田信玄が、織田信長から贈り物をされたとき、その漆塗りの箱の質を確かめるため、漆を削らせた
・すると何重にも塗り重ねられた高級品だったので、信玄は「信長が本気で良い関係を築こうとしている」と受け止めた
いかにも知恵者・信玄っぽいエピソードですよね。
信憑性については賛否両論ありますが、信玄が日頃から細かなことに注意し、相手の真意を読み取ろうとしていたからこそ創作された話なのでしょう。
黄梅院を送り届けた兵の装備が豪奢だったとされるのですが、それも信玄の親心が表現されたのかもしれません。
黄梅院の行列は国境の上野原(上野原市)で北条家の一行と合流して、小田原へ向かったそうです。
駿河との同盟はもはや意味がない
黄梅院が小田原へ嫁いでからも、信玄はずっと彼女のことを案じていたようです。
弘治三年(1557年)に黄梅院が懐妊した際は浅間神社で安産祈願。
しかもこの一度だけではなく、永禄九年(1566年)にも同様の祈願をしていたようです。
永禄九年というのは、永禄三年(1560年)「桶狭間の戦い」で今川義元が亡くなり、その後、信玄が駿河侵攻の野望をメラメラさせていた頃ですね。
もしも駿河の今川家へ攻め込んだりすれば、当然「甲相駿三国同盟」は破棄される。
黄梅院の立場も悪くなる。
そんなこと信玄とて百も承知だったでしょうが、そもそも甲相駿三国同盟は背後(駿河)の今川家を気にせず信濃へ攻め込むためにありました。
しかし、その背後である今川義元が亡くなってしまい、跡を継いだのが今川氏真では、さすがに方向転換を考えるのも仕方なかったでしょう。

今川氏真/wikimedia commons
氏真への代替わりを機に、今川家では徳川家康(松平元康)が離反したり、国衆たちが騒動を起こしたり。
「もはや同盟の維持には意味がない」
信玄がそう判断したとしても無理のない状況となっていたのです。
徐々に今川との接点を減らし始める信玄。
永禄八年(1565年)には嫡子・武田義信が謀反疑惑で廃嫡に追い込まれましたが、そもそもは義信の正室が今川義元の娘・嶺松院だったからと考えられます。
要は、今川派ですね。
しかし信玄も、この時点では同盟の破棄までは考えていなかったようで、氏真から「妹を返してください」と言われても華麗にスルー。
永禄十年(1567年)、義信が亡くなった後に、嶺松院の帰国を認めています。
同時期に信玄は織田信長と接近し、信長の養女・龍勝院を武田勝頼の正室に迎えており、完全に手を切ったことになります。

武田勝頼/wikimedia commons
そろそろ話を黄梅院に戻しましょう。
夫婦関係
こうした複雑な情勢の中でも、黄梅院と夫の北条氏政は良好な関係を築いていたようです。
二人の間に生まれた子供は四人。
①弘治元年(1555年)男子・新九郎(夭折)
②弘治三年(1557年)女子・芳桂院(千葉邦胤室)
③永禄三年(1560年)男子
④永禄九年(1566年)女子・竜寿院(里見義頼継室)
一人目こそ夭折してしまいますが、結婚翌年からコンスタントに出産していた記録があります。
永禄三年生まれの男子については記録が少ないのですが、この後まったく登場せず、北条氏直が嫡子になったことを考えると、おそらく夭折したのでしょう。

北条氏直/wikipediaより引用
従来は「氏直も黄梅院の息子」と見なされていました。
しかし、永禄五年(1562年)の氏直誕生時には信玄の安産祈願の記録も見つかっておらず、「氏直の生母は別の女性では?」という見方が強まっています。
氏直の生母が黄梅院ではない理由は他にもあります。
・氏直の幼名がはっきり記録されていない
→氏直が正室生まれであれば、誕生時から北条の前例に則った幼名になるはずだが、そうではなかった
・永禄十二年(1569年)5月に今川氏真が氏直を養子にしている
→当時は嫡子扱いではなかった
正室生まれの男子で、なおかつ健康に育っていたのなら、他家の養子に出される前に嫡子となっていたはず。
しかし、そうではなかったのです。
氏政の息子たち
北条氏政と黄梅院の夫婦仲が良いからといって、他の側室に子供がいなかったわけではありません。

北条氏政/wikimedia commons
氏政には以下のような子供たちがいました。
・永禄五年(1562年)男子・氏直
・永禄七年(1564年)男子・源五郎
・永禄八年(1565年)男子・氏房
・生年不明 男子・直重
・生年不明 男子・直定
・生年不明 男子・源蔵
・生年不明 女子・庭田重貞室
・天正十八年(1590年)男子・勝千代
少なくとも七男一女が生誕。
黄梅院から産まれた二人の息子が夭折していたならば、氏政も男子を得るために必死だったでしょう。
同盟破綻後 実家へ送り返され……てない?
黄梅院は永禄十二年(1569年)に亡くなります。
従来は、
・永禄十一年(1568年)頃の同盟破綻後に実家へ送り返され
・永禄十二年(1569年)6月17日に甲斐で亡くなった
と考えられてきました。
なぜなら元亀元年(1570年)12月に武田家で「大泉寺黄梅院」、
天正三年(1575年)7月に北条家で「早雲寺黄梅院」が建立されたためです。
それぞれ彼女の供養をしていると受け取られたんですね。
しかし、根拠となる早雲寺黄梅院の記録が創立に関するものではなかったことを研究者の浅倉直美氏が指摘。
また、高野山での黄梅院供養の記録が北条家の宿坊に残されていることも、甲斐へ送り返されずに小田原で亡くなった可能性を強めています。
「夫・氏政との離別を悲しみ、甲斐で病死した」
従来はそんな描かれ方が印象的だった黄梅院。
26才の若さで亡くなっておりますので、実際は何らかの病気か、あるいは出産に関連して亡くなったのかもしれませんね。
いずれにせよ彼女の死後、両家の結びつきは弱くなってしまいます。
その結果、交戦と同盟を繰り返しながら、最終的に武田家が信長に滅ぼされ、北条家が秀吉に滅ぼされたことを考えると、黄梅院が若くして亡くなったのは秘かに大きな痛手となったのかもしれません。
なお、北条氏政の生涯ならびに、滅亡の原因となった小田原征伐については以下の記事をご覧ください。
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関東を制した戦国大名・北条氏政の生涯|信玄や謙信と五分に戦える名将か?
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小田原征伐で秀吉相手に退かず!北条家の小田原城はどれだけ堅強だったのか?
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参考文献
黒田基樹『北条氏康とその時代』(2021年7月 戎光祥出版)
黒田基樹『シリーズ・中世関東武士の研究 第29巻 北条氏直』(2020年3月 戎光祥出版)
萩原三雄『武田信玄謎解き散歩』(2015年3月 KADOKAWA)


