戦国武将・猪俣邦憲の生涯とは?名胡桃城事件の実行者として知られ、北条氏滅亡のキッカケを作ったとして非難されることも。果たして邦憲の責任なのか?その生涯を振り返る。

北条家

北条氏滅亡の戦犯とされる猪俣邦憲|名胡桃城事件の実行者に責任はない?

天正十七年(1589年)11月3日、北条氏の猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、お家の存続を左右する“重大事件”を起こしました。

その名も名胡桃城事件(なぐるみじょうじけん)――。

沼田城代の猪俣邦憲が、真田氏の名胡桃城を騙し取ったというものですが、はて、戦国時代に敵の城を奪って何が問題なのか?と思われるかもしれません。

実はこのときは、豊臣秀吉が絡んでいたのです。

沼田エリアは以前から紛争の激しい要衝であり、当時は北条と真田が揉めていて、天下人の豊臣秀吉が間に入り「もう合戦はするな」と話を収めたばかりのことでした。

そのお定めを猪俣邦憲が無視したんですね。

それが後に小田原征伐(小田原合戦)へ発展し、北条氏が滅亡したことから、キッカケを作った猪俣邦憲は「バカなのか?」と愚将扱いされたりしてきましたが、果たしてその評価は妥当なのか?

本当に猪俣邦憲が悪いのか?

本記事では、彼の生涯と共に名胡桃城事件を振り返ってみたいと思います。

絵・小久ヒロ

 


猪俣氏へ養子に入り 北条氏に仕え

猪俣邦憲の生年はわかっていません。

初名が富永助盛(とみなが すけもり)であり、天正八年(1580年)頃まではこの名前だったこと。

天正十一年(1583年)頃には猪俣氏へ養子に入って猪俣範直(のりなお)と名乗り始めたらしきことなど、若かりし頃の情報は限定的です。

邦憲の名は、主君である北条氏邦(北条氏政の弟)から偏倚(主君など目上の人から名前の一字をもらうこと)を受けたものと思われます。

このため、邦憲の武将としての立場はいささか微妙でして。

「宗主である北条氏政に直接仕えていた」という説と「氏政の家臣である北条氏邦に仕えていた」という説があります。

もしも氏邦に仕えていたとしたら、氏政からは陪臣(家臣の家臣)となりますね。

現状の記録は『軍記物』に頼らざるをえない面が強いため、今後の新史料発見によってその立場は大きく変わってくるかもしれません。

北条氏政の肖像画

北条氏政/wikipediaより引用

 


沼田エリアで活躍していた邦憲

猪俣邦憲が小田原北条氏の直臣だったのか、陪臣だったのか――状況がわかりにくいのは、彼が武蔵(東京埼玉)~上野(群馬)の攻略を担当したからでしょう。

当時、北条氏邦は天神山城(埼玉県秩父郡)主である藤田重利の養子になっていました。

邦憲は、その際、氏邦のお伴としてついていったのか、それとも氏政の命令で北関東へ別件で向かったのか、ハッキリわからないのです。

いずれにせよ邦憲は上野攻略に参加。

名胡桃城事件の3年前、天正十四年(1586年)4月にも真田昌幸から城を奪い取ることに成功しており、五代宗主・北条氏直から感状をもらうほどの存在になっていました。

北条氏直の肖像画

北条氏直/wikipediaより引用

その後、箕輪城(群馬県高崎市)代、さらにその後には沼田城(群馬県沼田市)代に任じられています。

この二つの城は、小田原はもちろんのこと、氏邦の本拠だった鉢形城(埼玉県大里郡)からも離れており、北関東方面における最前線ともいえる場所です。

陪臣か直臣かは置いておくとしても、当時の邦憲が北条氏の人々から強く信頼されていたことは間違いないでしょう。

同時に邦憲にとって、そこは「歴史に名を残す」という特別なエリアにもなりました。

前述の通り、小田原征伐(小田原合戦)のキッカケになった名胡桃城事件は、まさにこのエリアで起きたもの。

自分の手柄のため、先走って真田を攻撃した猪俣邦憲とは、どれだけ時勢の読めない愚将なのか――皆さんも、そんな風に感じたことはありませんか?

では本当に猪俣邦憲が愚かだったのか、時系列順に振り返ってみましょう。

 


名胡桃城事件とは

天正十七年(1589年)11月3日に起きた名胡桃城事件。

まず名胡桃城とは、現在の群馬県利根郡みなかみ町下津にあった城です。

沼田城の支城として、沼田氏の一族である名胡桃氏が築いたとされていますが、明確な時期はわかっていません。

以下の地図のとおり、両城は約7kmしか離れていません。

戦国時代は上杉がいったん支配し、上杉謙信の死後は武田と北条の間で争奪戦になっていました。

天正八年(1578年)からは武田方の真田昌幸が入城し、本拠としていたのですが北条も簡単には諦めなかった……というのが同城を取り巻く状況です。

そして時が流れて天正十五年(1587年)、豊臣秀吉が関白として介入します。

豊臣秀吉の肖像画

豊臣秀吉/wikipediaより引用

秀吉の解決案は以下の通りです。

①沼田を真田から北条へ渡す

②名胡桃城は真田のものとする

③真田には新たに伊那を与える

秀吉の解決案を受けて、名胡桃城には真田昌幸の家臣・鈴木重則が入り、沼田城には猪俣邦憲が入りました。

天下人の裁定に従ったのですから、それ以上の合戦は控えておくのが当たり前――。

しかし邦憲は、鈴木重則の家臣・中山九郎兵衛を調略して、天正十七年(1589年)11月3日に名胡桃城を強奪。

これが秀吉に「惣無事令違反」と見なされ、小田原征伐の理由となり、それがエスカレートして「北条氏の滅亡は邦憲のせいだ!」とまで言われることすらありました。

重要ポイントは、このときの北条氏の対応でしょう。

実は小田原の北条氏政たちは、この一件を重大事として受け取るどころか、猪俣邦憲を褒めているフシすらあるのです。

一体どういうことか?

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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