武田家の山県昌景にせよ、徳川家の本多忠勝にせよ、織田家の柴田勝家にせよ。
有力な戦国大名家には「アイツがいれば絶対に負けない!」そんな頼れる勇将が存在しますが、関東一の大国だった北条家の代表を選ぶとしたら、一体誰が頭に浮かんでくるでしょう?
これがいざとなると中々思い浮かばない……いいえ、一人いるでしょう。
キーワードは「黄色」。
そう、北条綱成(つなしげ・つななり)です。
実在は不明ながら「北条五色備」の「黄色」を背負っていたというキャラクター性の強い武将で、実際に戦場での武功も数多い。
まさに頼れる勇将・北条綱成の生涯を振り返ってみましょう。
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父は今川家臣
北条綱成は永正十二年(1515年)の生まれ。
幼名は勝千代といい、いかにも武将らしい感じがしますね。
父親は誰か?
というと従来は、今川家臣・福島正成(くしままさしげ)の子とされ、綱成は享禄年間(1528~1532年)ごろに北条氏綱の娘と結婚して婿養子になり、北条一門になったと考えられてきました。

北条氏綱/wikipediaより引用
しかし近年では黒田基樹先生により、同じく今川家臣・福島九郎の子ではないか?という説が提唱されています。
彼が何らかの理由で「伊勢九郎」と名乗り、その繋がりで、息子の綱成も北条姓を使えたという見方です。
たしかに婿養子ならば北条氏の通字である「氏」を与えられていても不思議ではないのですが、実際には「綱」を与えられていることもその理由。
となると北条一門より一段格下に扱われたということにもなりますが、綱成の待遇はさほど悪くありません。
ちなみに綱成の妹も北条の重臣である松田盛秀に嫁いでいます。
彼女の息子で、これまた北条では著名な武将である松田憲秀が享禄三年(1530年)生まれなので、結婚の時期はそれ以前ということでしょう。
綱成の妹の生年は不明ですが、享禄三年に出産できたということは最も若くて当時12歳くらいでしょうか。
前田利家の妻・まつもこのくらいの年で出産しているので、不可能な話ではありません。
と、脱線はここまでにして、話を綱成に戻しましょう。
北条一門の補佐へ
北条綱成の動向がわかるのは、天文二年(1533年)からです。
この頃の綱成は北条為昌(ためまさ)の補佐として、玉縄城の城代を務めていました。
鶴岡八幡宮から見て北西、江の島から見てほぼ北の位置にある城ですね。
為昌は北条氏綱の三男。
当時まだ13歳だったため、少し年長の綱成がつけられたようです。
為昌本人はしばらくの間、小田原にいたので、玉縄城には綱成が実弟の北条綱房と共に入ったと考えられています。
この時点で既に彼らが北条氏からの信頼を勝ち得ていたと考えられますし、父の代から一門もしくはそれに準じる扱いをされていたと仮定すると、彼らの立場も納得できますね。
また、綱成の母が相模朝倉氏の出身だったため、同氏の一族が玉縄衆の一員となりました。
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信長に滅ぼされなかったもう一つの朝倉氏「相模朝倉氏」は一体どんな存在だったのか
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為昌よりは年長とはいえ、まだ20歳そこそこの綱成が玉縄城に入ったのも、氏綱に
「母方から戦力を用意できそうだ」
と判断されたからなのかもしれません。
残念ながら天文十一年(1542年)5月に為昌が若くして亡くなったため、綱成は正式に玉縄城を継承、一時は河越城(川越市)も綱成の担当となりました。
河越城はのちに大道寺盛昌が入っており、肩の荷が一つ下りた形になっています。
西へ東へ奮闘の日々
28歳にして玉縄城の城主となり、身も心も充実していたであろう北条綱成。
この頃から武働きでの活躍が増え、以下のように名だたる戦に参加しております。
河越城の戦いと言えば、一説には8万もの大軍を1万ちょいの北条氏康が撃破したことで知られる伝説的な戦い。

北条氏康/wikipediaより引用
謎多き戦であり、詳細はこちらの記事に譲りますが、
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一万vs八万で劇的逆転!河越城の戦い(河越夜戦)の北条氏康があまりに鮮やかだ
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激戦だったことは間違いないからこそ今までその名が轟いているのでしょう。
数えで32歳だった綱成も大いに働いたのでしょう。
元亀元年(1570年)には甲斐武田を牽制するため、綱成と甥の松田憲秀が深沢城(御殿場市)に入りました。
綱成らはここで武田軍相手に粘りましたが、元亀二年(1571年)1月に包囲されると5月に開城を選び、退いています。
1月3日に武田信玄が放った「深沢矢文」(「深沢城矢文」とも)がキッカケの開城に至ったとされます。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用
原文は漢文体な上に長いので、ざっくり言うとこんな感じ。
「以前、謙信が小田原を攻めたときには、信玄が北条を助けてやったのに敵対するとは恩知らずめ」
「ウチが強いのは天意なんだからさっさと城を明け渡せ」
前述の通り、深沢城はこの矢文が打ち込まれてから4ヶ月後にようやく開城しているので、効果の程は不明。
ただ、綱成が北条の中でも際立った存在だったことは、「地黄八幡」という特徴的な旗指し物を用いていたことから浮かんできます。
北条では”北条五色備”という五色の備え(戦時の部隊)があったとされ、綱成は「黄備」を担当していたとされているのです。
なんだか戦隊モノみたいで、いかにも誰かが作った物語感のある話ですよね。
武田や井伊の赤備えのように、突出した一部隊を目印代わりに赤で揃えるのは、おそらく合戦場でも迫力があったと思うのですが、五色もあるとなんだか効果も分散してしまう感じもしまして……。
まぁ、北条五色備は本当にあったかどうか不明ですので、一応、誰がどの部隊を備えていたか?だけ見ておきましょう。
◆黄備 北条綱成
◆赤備 北条綱高
◆青備 富永直勝
◆白備 笠原康勝
◆黒備 多米元忠
全体の色を見ると陰陽五行説から来ていることはうかがえます。
戦隊モノだけでなく人によっては笑点の大喜利にも見えてくるでしょうか……いや、北条ファンの皆様、申し訳ありません。
ともかく名将である北条綱成が合戦場の中心にいた、という理解でよろしいでしょう。
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