前野長康のイメージイラスト

豊臣家

前野長康とは何者か|蜂須賀小六と共に豊臣秀吉を支えた側近武将の生涯

前野長康(まえのながやす)は、豊臣秀吉に古くから仕え、奉行として豊臣政権を支えた戦国武将です。

蜂須賀正勝(小六)と並ぶ最古参の側近として活躍し、豊臣秀吉の天下統一を支えますが、最期は衝撃的な事件に巻き込まれてしまいます。

衝撃的な事件とはいったい何のことなのか、前野長康の生涯や功績と共に振り返ってみましょう。

 

元は岩倉織田氏の家臣だった

前野長康は大永八年(1528年)、前野右京介宗康の次男として生まれたとされます。

父の前野宗康は、岩倉織田氏(織田伊勢守家)三奉行の一人。

岩倉織田氏とは、織田氏の宗家にあたる家柄です。

その分家が清洲織田氏(織田大和守家)であり、その家臣の、さらに分家が織田信長の家(織田弾正忠家)でした。

つまり、本来であれば長康の方が織田信長より目上の出自ということになりますね。

織田信長の肖像画

織田信長/wikimedia commons

しかし、一番の問題は当主のやる気と能力でした。

当時の岩倉織田氏は、織田信賢(のぶかた)が当主。

戦国の荒波に呑まれて、岩倉織田氏は急速に勢力を弱めている最中であり、永禄元年(1558年)に信長が岩倉城へ攻め込んだとき、すでに前野長康は弾正忠家についていたとされます。

しかも、このときの功績で40貫文の土地を獲得していました。

一方、岩倉織田氏は翌年の永禄二年(1559年)、信長によって滅ぼされています。

せめてもの情けでしょうか。織田信賢は殺されずに追放で済まされ、その後の行方や動向は不明となってしまいました。

 


信長がつけたあだ名は“駒右衛門”

前野長康の出自や血縁関係には諸説あります。

ただし、弾正忠家の中で信頼を得るまでには、そう長くかからなかったと思われます。というのも若い頃と思われる時期に信長との逸話が2つもあるのです。

一つは通称に関するものでした。

長康は、信長に乗馬の才能を褒められ、”駒右衛門”という名を賜ったとされます。

信長は気に入った人にすぐあだ名をつける癖があり、秀吉の「はげねずみ」や、明智光秀の「きんか頭」と比べて、かなりマトモな名前を貰ったと言えるでしょう。

明智光秀(左)と豊臣秀吉の肖像画

明智光秀(左)と豊臣秀吉/wikimedia commons

そこまで信長に言わせるなんて、長康の馬術がぜひ見たいものです。

もう一つは『信長公記』に載っているお話。

ある年の7月18日、信長が催した盆踊りで「弁慶に扮した面々」の一人として長康の名前が出ています。

「彼らは器用に扮装していた」とあるため、おそらく気合を入れて衣装や薙刀などを用意していたのでしょう。

単に参加しただけでなく、コスプレまでバッチリこなすとは、普段から生活に余裕があったことを思わせますね。

同じく岩倉織田氏の家臣だった山内一豊が、放浪中に長康を頼ったこともあります。

長康の立場が早めに安定していたであろうことが、一豊の行動からもうかがえます。

 

蜂須賀正勝と義兄弟

経緯や時期は不明ながら、前野長康は蜂須賀正勝と義兄弟の契りを結んでいたともされます。

その縁が影響しているのでしょう。正勝と同時期に秀吉の与力になったとされ、真偽の程は不明ながら墨俣築城などでも活躍したされます。

おそらく正勝と同時期に豊臣秀吉に仕え始め、その後ずっと秀吉軍の一員だったことは確かでしょう。

にもかかわらず、前野長康の知名度だけ低いと思いません?

蜂須賀正勝の肖像

蜂須賀正勝/wikipediaより引用

長康に武働きがないわけではありません。

永禄十一年(1568年)5月には箕作城攻めで夜襲を成功させたり、元亀元年(1570年)4月の「金ヶ崎の退き口」でも織田軍に貢献したり、際立ったエピソードはなくとも堅実に活躍。

元亀元年(1570年)姉川の戦い後には、秀吉が横山城代に任じられた際、長康が城番の大役を任されています。

当時の秀吉与力としては、これ以上ない立場だったでしょう。

ならばなぜ知名度は低いのか?

 

秀吉最古参の武将となる

前田長康の評判は外部にも聞こえていたようです。

天正五年(1577年)8月27日に開かれた津田宗及の茶会では「筑前(秀吉)内衆」と記録されています。

その5年後、天正十年(1582年)に起きた【本能寺の変】後も秀吉の配下であり続け、以下のように主な合戦に参加。

天正十一年(1583年)賤ヶ岳の戦い

天正十二年(1584年)小牧・長久手の戦い

天正十三年(1585年)四国征伐

天正十五年(1587年)九州征伐

天正十八年(1590年)小田原征伐

戦功を挙げたとされ、秀吉も厚く報いています。

四国征伐の後は秀吉の弟・豊臣秀長の旧領だった但馬国出石で5万7000石の大名となりました。

戦以外では、聚楽第の建設工事や、天正十六年(1588年)4月に行われた後陽成天皇の聚楽第行幸などで、担当者の一人に就任。

また、天正十四年には義兄弟・蜂須賀正勝が病死したため、この時点で唯一にして最古の秀吉家臣という立場になってます。

だからといって、長康が以前より重い立場になったということもなさそうで……秀吉も秀長を頼っていたのでしょう。

そしてそれは、天正十九年(1591年)に秀長が亡くなってからも変わらなかったようです。

豊臣秀長の肖像画

豊臣秀長/wikipediaより引用

 


秀次事件に連座で切腹へ

豊臣家臣団の中では、付き合いの長さからして、前野長康は秀吉に諫言できる立場であってもおかしくない。

しかし、そうした話も聞かない。

何も意見を述べないならば波風も立たず、だからこそエピソードも残らず、そうした日々の積み重ねから、長康の知名度は今に至るまで上がってこなかったのかもしれません。

当然、文禄・慶長の役でも秀吉を止めることはできません。

文禄元年(1592年)、長康は石田三成ら奉行たちを連れて、朝鮮における民政担当者として渡海。

非戦闘員ではなく、多くの一族や家臣を引き連れ、戦闘にも参加しました。被害が大きかったこともあってか、後日、11万石に加増されています。

帰国後は、秀吉の後継者とされていた豊臣秀次の家老という重職につきました。

豊臣秀次の肖像画

豊臣秀次/wikipediaより引用

しかし、これが運の尽きでした。

文禄四年(1595年)、秀次が謀反の疑いで自害するという事件が発生。

このとき長康は秀次について弁護したらしく、それが秀吉の不興を買ったようで、息子の前野景定と共に中村一氏に預けられてしまいます。

そして同年10月19日に切腹し、その生涯を閉じたのでした。

長康よりも先に息子の景定が切腹し、その後を追ったともされ、前野家は断絶となり、”秀吉最古参の家臣”はいなくなってしまいました。

 

秀吉に嫌われる理由はなさそうだが

秀次事件については、現代でも真相が明らかにされておらず、様々な見方があります。

しかし、前野長康をはじめ連座した人々や、秀次妻子らの処刑などをみると、やはり秀吉の判断能力を疑いたくはなりますよね。

長康が、秀吉と不仲になったとか、叱責を受けたとか、その手の話は聞きません。最古参でありますし、馬が合わないとか能力不足などのトラブルもなかったはず。

にも関わらず連座して切腹など、あまりに短絡的だと思えるのです。

一方で、秀吉としては、豊臣秀次の排除を考えていて、ついでに片付けたい人物を側に置いておいた、という深読みができなくもない。

まぁ、色々と考え過ぎですかね。

秀長を喪い、判断能力の低下した秀吉が、怒りに任せて大勢を処分した――そう考えたほうが、簡単な気もします。

長康に関する記述は『武功夜話』によるところが大きく、この本の成立自体に賛否両論あるため(要は創作であるため)、今後の研究によっては全く異なる人物像や経歴が明らかになるかもしれません。

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参考文献

谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(2010年11月 吉川弘文館)
菊地浩之『豊臣家臣団の系図(角川新書)』(2019年11月 KADOKAWA)
滝沢弘康『秀吉家臣団の内幕』(2013年9月 SBクリエイティブ)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(2009年10月 学研パブリッシング)
『戦国武将事典 乱世を生きた830人』(2008年6月 新紀元社)
『日本人名大辞典』(2001年12月 講談社)

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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