左から『英名二十八衆句 炎上』『八代目市川団十郎の死絵』『見立似たか金魚』/wikipediaより引用

江戸時代

死絵や無惨絵あるいは横浜絵などもあった|べらぼう必須の浮世絵知識:応用編

喜多川歌麿や葛飾北斎、あるいは歌川広重など。

浮世絵といえば彼らの美人画や風景画が頭に浮かんでくるものであり、実際、そうした路線が売れ筋であることは以下の記事「浮世絵知識:基礎編」でも触れさせていただきました。

喜多川歌麿作の高島おひさ(左)と難波屋おきた/大河ドラマ『べらぼう』の視聴に必須となる浮世絵の知識:基礎編
べらぼう必須の浮世絵知識:基礎編|どんなジャンルがあり何が一番人気だった?

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しかし、浮世絵の世界はもっと奥深いものです。

例えば大河ドラマ『べらぼう』でも注目された『画本虫撰(えほんむしえらみ)』に、思わず目を奪われた方も多いのではないでしょうか?

まるで生きたまま紙の中に映し出された昆虫たち。

『画本虫撰(えほんむしゑらみ)』/国立国会図書館蔵

『画本虫撰(えほんむしえらみ)』けら・はさみむし/国立国会図書館蔵

『画本虫撰(えほんむしえらみ)』けら・はさみむし/国立国会図書館蔵

筆で描かれたものが木版で印刷されているとは、にわかに信じがたい精緻なデザインであり、これも浮世絵の魅力でしょう。

江戸っ子が買うもんなら何だってだしてやらぁ!

とばかりに版元はジャンルを広げ、鳥山石燕の「妖怪画」、亡くなった有名人を描く「死絵」、幕末に発展する横浜を描いた「横浜絵」など、とにかく拡大していったのです。

では、実際そこにはどんな種類の浮世絵があったか?

本記事で振り返ってみましょう。

🏯 江戸時代|徳川幕府の政治・文化・社会を総合的に解説

 


狂歌絵本:江戸文人の粋

大河ドラマ『べらぼう』序盤において、重要だった浮世絵のジャンルがこちらですね。

【狂歌絵本】と【絵暦(えごよみ)】です。

経済的に豊かになり多色刷りの【錦絵】が生まれると、江戸の文人たちは、凝ったカレンダーである絵暦をサロンで交換し始めました。

これに目をつけた版元が広く販売するようになったのです。

もうひとつの狂歌絵本は『べらぼう』でも注目されましたね。

当時流行していた狂歌の背景に、華麗な絵を組み合わせる。

蔦屋重三郎がプロデュースし、大田南畝ら一流の狂歌師が詠み、喜多川歌麿が絵を手掛けると、社会現象を巻き起こすに至り、江戸文人のネットワークは拡大したものです。

江戸文化とは、現代のインフルエンサービジネスに通じるものがある。

顔が広く粋な者たちがお洒落に楽しむことから新たなエンタメが生まれていきました。

さらに新たなビジネスモデルも見出していることは『べらぼう』でも描かれましたね。

「このお値段であなたの歌を載せますよ」

版元が【入銀】を持ち掛けることで、出版費用を抑えることができました。実に楽しい参加型エンタメはこうして出来上がったのです。

北尾政美の狂歌絵本「狂歌 四方の巴流」

北尾政美の狂歌絵本「狂歌 四方の巴流」/wikipediaより引用

 


見立て絵:教養が試される

大河ドラマの放送に合わせてSNSに投稿されるファンアート。

その中には、登場人物を現代風に仕立てるものも多々あり、例えば『光る君へ』では、紫式部と清少納言が現代の高校生になって話すなどの楽しい場面が見られたものです。

江戸時代にも、この発想はありました。

『源氏物語』の女三の宮が、飼い猫のせいで御簾が巻き上がり、姿があらわになってしまう――しかしその姿が平安時代とはまるで違う、江戸時代の衣装で描かれている――そういった作品が【見立て絵】に該当します。

古典の知識も試されるため、洗練された雰囲気も纏っている。江戸っ子の教養が高まるにつれてブラッシュアップされる、そんな浮世絵の特徴がよく出ていると言えるでしょう。

そして江戸時代も後半に入り、松平定信による【寛政の改革】で規制が強まると、それを潜り抜ける工夫として見立て絵は活用されるようになりました。

例えば【役者絵】が取り締まりの対象となると、猫好きで知られる国芳は考えます。

「役者の顔を猫にあてはめたらどうでェ!」

歌舞伎の衣装をつけた猫が役者そっくりの顔をしている。そんな抜け道を考えたのです。

果たしてそんな絵が売れるのか?という疑問も湧いてきますが、手応えがあるから版元も発注し、一定数が刷られたからこそ現代にまで残っているのでしょう。

こうした動物による見立て絵は国芳の門人が得意としており、落合芳幾は『見立似たか金魚』という、金魚を用いた作品を発表しています。もう、なんでもアリですな。

落合芳幾『見立似たか金魚』

落合芳幾『見立似たか金魚』/wikipediaより引用

 

死絵:追悼もビジネスチャンス

【役者絵】は浮世絵最大手ビジネスとして有名です。

そんなジャンルの陰にひっそりと、セレブの死を悼む【死絵】がありました。

生前の故人を偲び、戒名や業績を描いた追悼ビジネスです。

真面目に追悼するものばかりでもなく、故人をファンが囲み、釈迦入滅にたとえて嘆くような、ちょっとウケ狙いが過ぎる作品もあります。

租税濫造と言いますか、とりあえず出せとばかりに、戒名を捏造することもあったとか。

そうしたグレーゾーンの作品とは異なり、正式な依頼経由で出されたものもあります。

また浮世絵師が亡くなった場合の死絵は、弟子の中でも最も腕が立つとみなされたものが手がけることもありました。師匠のネクスト枠を争う場でもあったわけです。

落合芳幾による歌川国芳の死絵/wikipediaより引用

落合芳幾による歌川国芳の死絵/wikipediaより引用

32歳で急遽自殺を遂げた八代目市川団十郎は、最も【死絵】が多く描かれたとされます。

涅槃図にたとえた絵はなかなかシュールです。

八代目市川団十郎の死絵/wikipediaより引用

 


おもちゃ絵:ともかくカワイイ!

印刷物である浮世絵は安価なことが特長。

そのため後世に残りにくいジャンルもあります。

団扇を飾る【団扇絵】、そして子どものおもちゃに使われた【おもちゃ絵】がそうでしょう。

生活に酷使されがちなため、破損されてしまうことが多かったのです。

子ども向けなので、他愛もない画題であることも注目されにくい要因でした。

歌川国芳の団扇絵

歌川国芳の団扇絵/wikipediaより引用

ところが近年、むしろそこが評価されるようになっています。

着せ替え人形や双六はともかく可愛らしい。

「づくし」シリーズは当時の魚介類の流通もわかります。

元々の「双六」はバックギャモンに似たゲームで、ギャンブル要素が強いものでした。

それが現代のものとルールがほぼ同じ「絵双六」になったのは江戸時代のこととされています。

浮世絵で華麗な「絵双六」が出され、変わっていったのでしょう。

『玉尽年玉寿古六』

歌川芳藤『玉尽年玉寿古六』/wikipediaより引用

世界的に見ても、同時代の子ども向けのおもちゃでここまでカラフルであるのは珍しい。江戸の子どもは幸せですね。

猫はじめ動物を擬人化した絵も定番で、歌川芳藤、歌川国利らが多く手がけています。中でも歌川芳藤は「おもちゃ絵芳藤」と称されるほどよく描いていたとか。

アクリルスタンドに向いていることも近年はプラス要素です。興味のある方は、太田記念美術館でお買い求めください。

 

妖怪画:水木しげるに引き継がれてゆく

江戸時代も折り返すと、庶民にまで儒教思想が浸透しております。

その結果『論語』由来の怪力乱神を語らずということも言われますが、江戸っ子はお構いなし。

なにせ歌舞伎では『四谷怪談』ものは人気の定番でした。

夏は暑気払いに怪談を楽しんでこそ江戸っ子。そんな需要に応じ、さまざまな【妖怪画】も生まれました。

定番のお岩さん。人に相撲を取ろうと語りかけてくる河童などなど……。

大河ドラマでは片岡鶴太郎さん演じる鳥山石燕が、喜多川歌麿の師匠でもあり、注目されましたね。

このあと、鶴屋南北はじめ怪談ブームが到来すると、だんだんとおどろおどろしく、派手な姿になってゆきます。四谷怪談のお岩や、皿屋敷のお菊はお馴染みの題材が定着します。

鳥山石燕『画図百鬼夜行 ぬらりひょん』

鳥山石燕『画図百鬼夜行 ぬらりひょん』/wikipediaより引用

こうしたモチーフは水木しげるに引き継がれ、日本人の意識へと深く浸透することとなります。

 

戯画:江戸の猫ブーム

近年、注目度が高まっているのが歌川国芳による猫の【戯画】です。

猫好きの歌川国芳が一人で始めたような、一人一ジャンル状態と言えるかもしれず、国芳の門人へも引き継がれてゆきます。

歌川国芳『たとえ尽の内』/wikipediaより引用

確かに浮世絵には、猫が描かれた作品は少なくない。

しかし、普通は背景にいるとか、美人画が抱いているとか、あるいは【やまと絵】の伝統に則り猫と蝶という長寿の縁起物として描いているとか、いわば脇役です。

国芳の場合、気合が違います。

猫をメインに据えている。あるいは定番ジャンルへ強引に猫を捩じ込んでいることもあります。

国芳の猫なら、もういいじゃねえか。そんな江戸っ子の声が聞こえてきそうな絵です。

流行猫の戯『道行 猫柳婬月影』文:山東京山/画:歌川国芳/wikipediaより引用

猫ブームの現代で、最も目にする機会の多い国芳作品は猫ジャンルかもしれません。

生前の本人は武者絵の達人とされてきました。それが現代ではすっかり猫の人。本人もきっと喜んでいるのではないでしょうか。

 

判じ絵:ご禁制をすり抜けろ

幕府の規制をすり抜けなきゃならねえ!

そんな都合から、江戸時代も煮詰まるにつれ、読み解きは難しくなってきます。

喜多川歌麿の美人画は画期的でした。実在する茶屋の看板娘を題材にしたのです。

喜多川歌麿『難波屋おきた』

喜多川歌麿『難波屋おきた』/wikipediaより引用

浮世絵の販売をキッカケに茶屋には追っかけが押し寄せました。

すると幕府は風紀を乱すものとされ、遊女以外は実在人物名を入れる絵を禁止。

そこで考え出されたのが【判じ絵】という手法です。

人物と結びつけられる家紋をそっと入れる。絵文字のようなシンボルを駆使して、それとなくわかるようにしました。

しかしこれも幕府に読み解かれてしまい、いたちごっこのような知恵比べが続いてゆきます。

そんな規制すり抜けが遊びとして定着し、脳トレーニングのような【判じ絵】作品も生まれました。

歌川重宣『江戸名所はんじもの』

歌川重宣『江戸名所はんじもの』/wikipediaより引用

版元や絵師としては困りものでしかなかった幕府のご禁制が、結果的に新たなジャンルを生み出したのです。

そのため江戸後期の浮世絵は解読が大変なことになっておりますので、我々が見るときには図説などを利用した方がよいでしょう。

 

諷刺画:エンタメは政治批判を持ち込んでこそ

現代では、娯楽作品に政治批判要素を持ち込むことが「色をつく」などと言われて忌避される傾向を感じます。

江戸後期の人々から見たら「ケッ」と鼻で笑われそう話です。

浮世絵は、庶民の娯楽であることから、真っ先に幕府の規制対象となり、こうした風潮に対して江戸っ子たちはしみじみと嫌気がさしていたのです。

水野忠邦【天保の改革】に江戸っ子たちが疲れ果てていた頃、絵草紙屋に一枚の武者絵が並びました。

武者絵ナンバーワンと名高い歌川国芳の『源頼光公館土蜘作妖怪図』です。

源頼光公館土蜘作妖怪図

歌川国芳作『源頼光公館土蜘作妖怪図』/wikipediaより引用

どこかヘンな絵でした。武者絵といえば勇壮な武者を楽しむもののはずが、肝心の源頼光はやる気がなさそうに居眠りしている。

しかも頼光の四天王の着物がおかしい。

江戸っ子たちはこれをジッと見つめ、興奮し始めます。

武者絵は、モチーフとなった人物の家紋と合わせるものですが、それが合っていない。それどころか、水野忠邦はじめ、幕閣の大物の家紋を身につけています。

さらに目を凝らすと、背景の妖怪たちは幕府が禁じた江戸の娯楽の数々に見える。それが目の前の頼光たちに抗議の声をあげているように見える。

やる気のない頼光は12代将軍・徳川家慶。

四天王は幕閣の連中。

そして妖怪は、規制に悲鳴をあげている江戸っ子じゃねぇか!

そう読み解かれると、絵草紙屋には客が殺到、版元もホクホク顔になったけれど、今度は売れすぎて焦り始めます。

こりゃお上に捕まっちまうんじゃねぇか!と、焦り、結局、版木を壊してしまったとか。

この時はどうにかなったものですが、国芳は「舐め腐った絵師どもの中でも最も悪質だ」という認識は広まっていたようでして。嘉永3年(1850年)発表の幕閣を茶化した『きたいなめい医 難病療治』では、奉行所に呼び出されたとか。

歌川国芳は若い頃から絵師となり、まとまった教養を学ぶ機会はありません。江戸の文人でも、曲亭馬琴や山東京伝とはちがいます。

しかし、頭のキレはとにかく鋭かった。

反骨精神からなのか、ヒットを嗅ぎつける天性の才なのか、国芳と門人たちはこのあとも【諷刺画】を手掛け続けます。

やがて政治が激しく動いた幕末に近づくと、暗喩が増え、読み解きが大変ややこしくなってゆくのです。

徳川家慶
12代将軍・徳川家慶の無気力政治が幕府崩壊に繋がったのか

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横浜絵:小さな漁村がみるみる未知の世界へ

嘉永6年(1853年)――ペリー来航の際、人々は見物に押し寄せ、目を丸くして大きな黒船を見つめました。

当時の江戸近郊は教育水準が高く、識字率も高い。

当時の様子を書き記し、情報を集め、これからどうなるのかと興味津々で見守っていたものです。

瓦版は飛ぶように売れ、版元と浮世絵師もこのブームに乗るしかない状況が訪れた。

そこで生まれたのが【横浜絵】でした。異国情緒あふれるジャンルとして長崎出島を描いた【長崎絵】にならったものです。

歌川芳虎の横浜絵

フランス人と花魁が描かれた歌川芳虎の横浜絵/wikipediaより引用

江戸と距離が近く、みるみるうちに発展していく横浜の絵は、刷れば刷るほど売れるジャンルになりました。

こうなると完全に現代のメディアと同じですね。

西洋人の服装、出来上がってゆく西洋建築。何もかもが斬新で、歌川国芳門下の絵師たちが量産しました。

こうした需要と供給は、幕末史のもうひとつの面を照らしています。

志士たちは尊王攘夷と叫ぶけれども、江戸っ子たちは好奇心で見ていた。

恐怖や嫌悪もあったのかもしれませんが、それよりも前向きにワクワクする好奇心が勝った。ゆえに横浜絵は売れたのでしょう。

そしてこの横浜絵には、どうにも気になるところがあります。

こうした絵は土産物としてセット販売されており、絵として楽しむというよりも、ニュースや週刊誌のような楽しまれ方もされていました。

横浜には続々と人が集まってきたとされますが、引き寄せる役目を横浜絵が担ったとしてもおかしくはありません。

当時の幕僚たちは横浜整備と共に宣伝も担っています。

浮世絵に目をつけ、あえて描かせてもおかしくはないのです。

2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、そんな活用法が描かれても不思議はありません。楽しみにしておきましょう。

 

無惨絵:幕末が生み出したスプラッタ

新時代へ向かう前向きな気持ちを描いたのが横浜絵ならば、黒い気持ちが描かれたのが【無惨絵】というジャンルでしょう。

安政の大地震で家屋が倒壊し、燃え盛る様は浮世絵として残されています。

浮世絵は天変地異を記録するメディアでもあったのです。

安政の大地震絵図/wikipediaより引用

人為的な悲劇も安政7年3月3日(1860年3月24日)に訪れます。

歴史の授業でもお馴染み【桜田門外の変】は江戸城のすぐそばで起き、幕府の大老・井伊直弼が殺害されました。

桜田門外の変を描いた一枚/wikipediaより引用

大老という幕府の最高権力者が白昼堂々と殺されてしまう――そんな事態に江戸っ子たちも動乱の気配を感じ取ります。

まだまだ何かやばいことが起きるんじゃねえか。

横浜絵を手掛けていた版元の佐野屋富五郎もそれを敏感に感じ取っていたのか。

それまではありえない絵を出すことにします。

『英名二十八衆句』――星宿の「二十八宿」ではなく、「衆句」と題されたこの作品は、英雄の姿に俳句をつけた作品に思えます。

しかし実はこの「衆句」は「衆苦」にかけています。

絵師は国芳の門人でも評判の落合芳幾と月岡芳年。

生き生きとした絵を手がける歌川国芳は「喧嘩があれば見にいけ」と門人たちに語っていました。

それを最も忠実に実行したと言えるのが、門人の月岡芳年なのかもしれません。

殺伐とした世の中へ向かう中、芳年は本物の生首を見て書き写しました。

そんなことをしていたら、アタマ大丈夫か?と不安がられないか。むしろ逆です。当時の江戸っ子は「さすが芳年は気合が違う!」とかえって褒めていたそうです。

なにせ、江戸っ子が芳年を賞賛するものとして、こんな逸話があります。

若い頃、締切間近だとあわてて筆を執っていた芳年。その耳に火災発生を告げる半鐘の音が聞こえてくる。

こうしちゃいられねえ!

芳年は筆を手放し、火消しに駆けつけた。そんな侠気が作品に現れているじゃねえか! 江戸っ子はそう称賛したのだとか。その手のやる気が評価されるんですね。

結果、作品は血みどろ、凄惨極まりないものに仕上がります。

題材は歌舞伎や講談に出てくる一場面です。こうしたエンタメはゴシップを消費するものでもあり、実在した猟奇殺人を扱った作品も少なくはありません。ただし、あくまで舞台上の虚構として楽しんでいたものです。

それを月岡芳年の絵では、血飛沫が飛んできそうなほど生々しく描かれます。なんでも血糊は生々しさを出すために膠も入れていたとか。ただしこれは国芳のころから「血の色をよろしく」という指示をわざわざ入れていたそうです。

同じ場面を絵師二人が競い合って描き、どちらが迫真か比べるような売り出し方もしています。

幕末という無惨な世相を反映した、おそるべき作品でしょう。

月岡芳年『英名二十八衆句 遠城喜八郎』/wikipediaより引用

芳年はこのジャンルが続き、『東錦浮世稿談』のあと『魁題百撰相』を世に送り出しました。

【上野戦争】を目にした芳年が描いた迫真の作品です。

一見すれば戦国時代を題材にした武者絵であるものの、幕末にしか見られない要素が数多くあり、当時の世相が見立てられていることは読み解けばわかります。

それが歴史の大動乱に出会い、暗喩と迫真の情景が反映され、唯一無二の作品となりました。

この作品は血はさほど流れておらず、死を静かに描いているようにも思えます。

江戸幕府に捧げる鎮魂の祈りのような作品です。

芳年はこの【血みどろ絵】の印象が強くつき過ぎてしまいました。

明治初年、スランプに陥り精神を病んでいますが、そのこともあわせてスプラッタ趣味のあるマッドな浮世絵師のような語られ方をすることもありました。

戦争を目にした経験が影響を与えたことは否めません。

しかし、精神の不調はヒットを出せない焦りも一因でもあります。酒の飲み過ぎ、不摂生ともされております。当時は西洋医学由来の神経病がブームのように語られていたので、そのせいで誤解された面も大きいのです。

月岡芳年の肖像

月岡芳年/wikipediaより引用

芳年はさまざまなジャンルを手掛けております。また、無惨絵にせよ、猟奇的なテロリズムに染まった世相を反映し、版元が発注したからこそ作品ができあがっているのです。

芳年そのものよりも、幕末という時代の特異性こそ、考えたいものです。

 

幕末諷刺画:江戸っ子は明治維新を歓迎しねえ

テロを起こす志士。それを取り締まる新選組。

彼らが死闘を繰り広げていたのは、江戸から遠く離れた京都でした。

とはいえ江戸っ子も殺伐とした世の中とは無縁ではいられない。

愛する公方様である徳川家茂が、上洛する際に見るであろう景色は浮世絵として発表され、一連の作品は『御上洛東海道』と呼ばれました。

そんな江戸が東京に変わろうとする前夜でも、江戸の街には浮世絵が出回っていました。

一見すると子どもたちが遊び回るような、あるいは図々しい客が宴会にいるような、なんのことはない絵に見える。

けれども【判じ絵】読み解いていくと、何かが見えてくる。

遊ぶ子どもたちの中で、頑張り屋さんとして描かれているのは、会津藩や庄内藩のシンボルを背負っている。

図々しく居座る憎たらしい客は、薩摩藩や長州藩。

無責任にぼけーっとしている子どもは慶喜。

困り顔なようで断固理不尽に立ち向かう女性は、天璋院と和宮

そして憎々しげな顔をした薩長に、背負われて何もできない無力な赤ん坊は、よくよく見れば新天皇です。

歌川国芳以来お得意の、政治風刺画が幕末には出回っていたのです。

版元も絵師の名前も伏せられつつ「こんなものはやってられるか!」という江戸っ子の思いは紙の上に残されていました。

端午の節句にかこつけて江戸城無血開城を風刺した浮世絵

端午の節句にかこつけて江戸城無血開城を風刺した浮世絵です/東京都立中央図書館蔵

これほどまでに不都合な絵は、明治以降、世に埋もれるしかなかったのでしょう。

諷刺が目的であるため、技法や芸術作品としての価値はさほどでもないとは思えます。

それでも幕末の心情を知る上で貴重な作品であり、一見の価値ありといえます。

瓦版
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開化絵:明治時代の新たな世界

江戸っ子にとっては嘆かわしいものであったとはいえ、明治の世が始まりました。

ガス灯。

煉瓦街。

人力車。

蒸気船。

皇族。

鹿鳴館で踊る人々。

上記のように新たな風俗が描かれるようになり【開化絵】と呼ばれました。

このころアニリンを用いた鮮やかな赤が流行したため【赤絵】という呼び方もあります。

文明開化の鉄道

横浜の鉄道を描いた錦絵(三代目歌川広重)/wikipediaより引用

 

新聞錦絵:短命に終わった明治の新メディア

明治時代になると、人力車で新聞社へ向かう浮世絵師の姿が見られるようになりました。

時事ネタを錦絵に描いたのです。

例えば落合芳幾は東京初の日刊紙「東京日日新聞」創刊に携わり、【新聞錦絵】を手がけています。

落合芳幾の新聞錦絵『鰐魚』

落合芳幾の新聞錦絵『鰐魚』/wikipediaより引用

毒々しいゴシップネタが描かれた絵を目当てに新聞を手に取る人も増え、知識人層以外にも読者を開拓。

土産物として地方に持ち帰る人もいたとか。

後発の「郵便報知新聞」は、芳幾の弟弟子である月岡芳年を起用しました。

報道写真の出現や浮世絵人気の低下により、このジャンルは短命に終わるものの、明治初期の雰囲気や世相を味わえる興味深いものです。

芳年の筆が描く、憤怒の形相を浮かべた西南戦争における西郷隆盛の像は上野の銅像とはまるで異なり、迫力満点。

軍服を身につけ、おそろしい顔をした西郷の像が、当時の東京の民衆が思い浮かべた姿であることがわかります。

こうした絵は美術よりも日本史の教科書で見る機会が多いことでしょう。

月岡芳年『鹿児島暴徒出陣図』

月岡芳年の描いた西南戦争『鹿児島暴徒出陣図』/wikipediaより引用

 

光線画:繊細で美しい新たなる風景画

繊細で一度見たら忘れられないほど印象的なのに、あまりに短命に終わってしまったのが【光線画】というジャンルです。

明治9年(1876年)に版元の大黒屋松木平吉から売りだされました。

小林清親が手がけた絵で、静謐さと陰影が印象的な絵。

小林清親画『川口善光寺雨晴』

小林清親画『川口善光寺雨晴』/wikipediaより引用

しかし明治14年(1881年)に小林は【光線画】を描くことをやめてしまいます。理由はわかりません。

点数が限られているため、展示会も珍しく、機会があればじっくり眺めてみたい作品です。

 

戦争絵:舞台の上でなく現実にあるリアルな戦争

幕末からの浮世絵は、報道としての側面を持ちました。

前述したように月岡芳年は【上野戦争】をスケッチして作品に反映、実際に起きた【奥羽越列藩同盟】の戦争も描きました。

歌川芳盛『本能寺合戦之図』※作品タイトルとは異なり実際は上野戦争を描いている

歌川芳盛『本能寺合戦之図』※作品タイトルとは異なり実際は上野戦争を描いている/wikipediaより引用

実際の戦況よりも江戸っ子の願望が反映されており、会津藩士たちは勇猛果敢で壮麗に描かれています。

彼のような浮世絵師は、戦場に赴くことはなくとも明治以降の戦争作品も手掛けるようになりました。

そこでは報道の中立や政府の動向よりも、売れ筋が重視されます。

前述のとおり【西南戦争】は西郷隆盛が政府を転覆して欲しいという民衆の心情が反映され、軍服姿でおどろおどろしく勇壮な姿を見せていました。

さらには西郷の死後も、星となって見守る「西郷星」の絵が売られたほどです。

西南珍聞 俗称西郷星之図/wikipediaより引用

上野公園の西郷隆盛像は、「浴衣姿のようにラフな格好はありえない」として糸夫人が驚いたほど、西郷本人に似ていないとされます。

浮世絵に描かれたような軍服を身につけ、雄々しい姿の像では困る人がそれだけいたということでしょう。

【日清戦争】は、大国である清に日本が挑む乾坤一擲の戦。

多くの浮世絵師が手掛け、多数の作品が発表されましたが、人気自体が下り坂で最後の輝きとなりました。

そのため【日露戦争】でも一応は出版されるも、時代はすでに報道写真へ突入しつつあります。日露戦争は戦争絵の終焉を示す機会となったのでした。

日本ではその後、戦争のプロパガンダ絵も西洋画や日本画家が手掛けるようになってゆきます。

歌川芳虎『鹿児島城山戦争之図』※西南戦争最後の戦いを描いている

歌川芳虎『鹿児島城山戦争之図』※西南戦争最後の戦いを描いている/wikipediaより引用

浮世絵とは、思えば大変なジャンルでした。

版元の要求に応えねばならない。

江戸っ子の需要を考えねばならない。

そのためか、中国の画法、そして時代が降れば西洋の画法を取り入れつつ、進歩していかねばならなかった。

試行錯誤の中、透視図法やベルリンブルー(ベロ藍)といった要素も取り入れ、常に新しい挑戦を続けていたのです。

漫画やアニメで見かけるような手法の中には、浮世絵の時代に生まれたものもあるほど。

常に新しさを求め、需要と供給を考えてきたからこそ、今も見る者を惹きつける魅力に溢れているのでしょう。

🏯 江戸時代|徳川幕府の政治・文化・社会を総合的に解説

📘 『べらぼう』総合ガイド|登場人物・史実・浮世絵を網羅

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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