永禄七年2月13日(1564年3月25日)は三河一向一揆が鎮圧された日です。
一つでも判断を間違えていたら、徳川家康も滅亡へ追い込まれていたであろう、この一揆――。
“滅亡”というのは大袈裟でもなんでもなく、実は一揆と同時期に国衆の反乱も起きていて、そこへ今川軍が攻め込んできたら、確実にアウトという状況でした。
一体なぜ、事態はそこまで深刻化したのか、あるいは、どうやってそんな窮地を脱したのか、当時を振り返ってみましょう。
遠州忩劇
三河一向一揆が勃発する少し前まで、家康は”松平元康”を名乗っていました。
「元」の字は、かつての主君・今川義元から与えられたもので、名前自体が今川氏への従属を示しています。
しかし永禄三年(1560年)桶狭間の戦いで状況は一変。
義元が信長に討たれると、家康は今川氏からの独立を進め、その仕上げとして”元”の字を捨て”家康”と名乗ったのです。
もちろん今川氏としても黙って看過はできません。
義元の跡を継いだ今川氏真は、戦国大名としての実力は疑問符のつく凡将タイプの人物ですが、古くから政治に携わっていた祖母・寿桂尼などの補佐もあり、どうにか国を保持していました。

今川氏真/wikimedia commons
氏真は、元康の離反を食い止めるため三河への進軍を計画。
その戦費については、それまで免除していた税を復活させて賄おうとしました。
しかし、それが地雷でした。
氏真の実力に疑念を感じていた国衆が反乱を起こし、「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」という騒乱へ発展していくのです。
三河で始まったこの反今川の蜂起は遠江にも波及し、どんどん規模は大きくなっていく一方で、氏真では抜本的な解決まで持ち込めない。
それどころか、同盟相手の北条氏に頼まれて援軍を出すことになってしまい、他国へ関わっている余裕を失ってしまいました。
三河一向一揆 始まる
北条へ援軍を送り、遠江では遠州忩劇が起き、もはや今川軍は動けない。
家康にとっては好機到来なり!
と思いきや、事はそう単純でもありませんでした。
三河国内でも今川寄りの国衆たちが家康から離反を始めたのです。
しかも同じころ、徳川方と一向宗寺院との間でトラブルが勃発し、永禄六年(1563年)秋、ついに一揆を起こされてしまいました。
三河一向一揆の始まりです。
それにしても原因となったトラブルとは一体何だったのか?
これが諸説ありまして、例えば『松平記』では「徳川が上宮寺(岡崎市)から食糧を奪った」と記され、『三河物語』では「徳川が、本証寺(安城市)における“不入権を侵害”した」とされています。
三河の一向宗寺院では門徒の武装化が進んでおり、永正三年(1506年)に今川軍の侵攻を追い返して「不入権」を獲得。
ざっくり言うと「税金免除の自治オッケー!」という特権であり、武士層の信徒も多い一向宗は為政者にとって何かと頭の痛い存在でした。
要は、徳川が不入権を脅かしたため寺院が激怒し、今回の三河一向一揆へ発展したのですね。
ただし、一点、ややこしいことがあります。
前述の通り、親今川派の国衆たちによる反乱も三河一向一揆と同時期で進行していたということです。
「徳川家の危機」というのは決して煽り文句でないことがご理解いただけるでしょう。
“一向一揆”と“国衆反乱”という状況を受け、近年では「単に一向一揆と呼ぶのはふさわしくないのでは?」という見方も出てきています。
まぁ、とにかくタイミングが最悪ですね。
徳川の重臣層も一揆に参加
三河一向一揆に加わった一向宗徒の中には、石川氏・鳥居氏・酒井氏・吉良氏など、徳川の重臣一族の者も含まれていました。
とりわけインパクトがあるのが、後に家康の参謀となった本多正信でしょう。
家康の家臣「三河軍団」というと「犬のような忠義心」と賞賛されるほどだったのに、よりにもよって家康の懐刀である本多正信まで敵方に回っていたのです。

本多正信/wikimedia commons
あるいは後の【三方ヶ原の戦い】で、家康の身代わりになって戦死したことでも知られる夏目吉信すら、このときは敵に回っていました。
他にも、一つの家で一向宗側と家康側に分かれるパターンもあり、ややこしさもMAX!
というわけで、状況をざっくり整理してみましょう。
◆三河一向一揆
家康
vs
三河の一向宗(家康の家臣含む)+親今川派国衆
◆遠州忩劇
氏真
vs
遠江の反今川派国衆
彼らの中で誤算があったとすれば三河の一向宗と親今川派国衆でしょう。
「そのうち今川軍が援軍に来てくれる!」
そんな風に考えていたようで、他勢力との連携などを積極的に推し進めなかったのです。
もしも今川氏真から「今は援軍を出せない」という連絡を受けていたら、そもそも一揆や反乱は起きなかったか、あるいはもっと小規模になっていたでしょう。
いずれにせよ家康を倒したいなら千載一遇の好機であり、今川はそのチャンスをみすみす取り逃がしたのでした。
寛大な処置で帰参を促す
徳川家康にとっては幸運な状況でもありました。
敵が連携のとれない部隊である以上、一つずつ各個撃破していけばよいわけです。

イラスト・富永商太
戦局は、徳川有利で進み、時には家康の本拠地・岡崎城まで攻め込まれたこともありましたが、基本的には徳川軍が勝利を収め続けていきます。
しかし家康は勝利におごらず、一揆方についた家臣たちへ“飴”をやることも忘れません。
「お主らが、信仰と主君の間で板ばさみになってるのはわかってる。でも今なら許す。手遅れにならないうちに戻ってきてくれ」
寛大な処置で帰参を許し、家臣の統制を図ったのです。
図ったというより、そうするしかなかったという方が正しいでしょう。
当時の徳川は、織田との間に清州同盟を締結していたと思われる時期。
織田信長もようやく尾張をまとめられる時期で、本格的な美濃攻略に乗り出す直前のことですから、徳川に援軍を送る余裕などありません。
そんな状況で戦闘を繰り広げても、いたずらに兵や物資、田畑を損失するだけで何一つ得はありません。
余裕がないからこそ、帰参を促すしかなかったのですね。
そもそも前述の通り、家康と敵対していた勢力は一枚岩ではありません。
・お寺
・浪人
・武士
・農民
彼らがバラバラに戦っているのですから、一揆側についた家康の家臣たちも、説得の使者が来るたびに「オレ、どっちにつくのがいいんだろう……」と悩んでいたようです。
戦場においても
「あわわわわ! そこに殿がいらっしゃる! あばばばばばば、どうしよう畏れ多い!!」
と戦意を失った者もいたとか。
巧妙すぎる講和三か条
永禄七年(1564年)1月15日、馬頭原の合戦で家康は大勝利を収めました。
これを機に2月13日には鎮圧。
28日に和議が成立したとされ、家臣に裏切られながらも、半年で解決となりました。
国衆らの反乱も起きていたという非常にナーバスな状況で、やはり家康は戦上手と言えるのでしょう。
そして圧勝しながら、以下のような条件で講和したことが最も“上手”と言えるのかもしれません。
1:一揆の参加者は無罪
2:一揆の首謀者も許す
3:お寺も今まで通りの運営で良し
一切のお咎め無し!
負けた方がひっくり返りそうな好条件ですよね。
同時に、
※ただし、一向宗から他の仏教に改宗してね
というオプションもつけているのはさすがの政治力。
これでも納得しない一向宗の指導者たちは、三河から立ち退かせました。
中には本多正信・正純親子も含まれています。
彼らがその後いつ徳川に再仕官したのか?という点は不明ながら、頭が冷えるまでにだいぶ時間がかかったようです。

徳川家康/wikimedia commons
こうして天正十一年(1583年)の末に還住許可が出されるまで、西三河から本願寺派は一掃されました。
信長が手を焼いたことで知られる【長島一向一揆】と比較してあっさり解決しているのは、三河における本願寺派の力が盤石なものではなかったためと思われます。
長島は大寺院を中心とした独立国家に近く、各地域のお寺を中心に小さな勢力が散発的に活動、三河とは根本的に事情が異なっておりました。
三河一向一揆は結果的に「雨降って地固まる」といったところに収まったといえます。
ちなみに「遠州忩劇のほうは?」というと、三河一向一揆よりも長引き、最終的に今川から離反して家康についた者も複数いました。
やはり氏真には荷が重かったのかもしれません。
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黒田基樹『徳川家康の最新研究 伝説化された「天下人」の虚構をはぎ取る』(2023年3月 朝日新聞出版)
日本史史料研究会/竹間芳明『戦国時代と一向一揆』(2021年6月 文学通信)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本大百科全書』(小学館)
【TOP画像】月岡芳年『大樹寺御難戦之図 三河後風土記之内』/wikimedia commons
