慶長八年2月12日(1603年3月24日)は徳川家康が征夷大将軍に任ぜられた日ですが、この就任に関して一つ不思議なことがあります。
なぜ家康は「関ヶ原の戦い」に勝ってから将軍になるまで、約2年半もの月日を要したのか。
天下分け目の合戦を制したという割に、ちょっと遅すぎません?
せめて半年から1年後には新将軍になっていないと、

徳川家康/wikipediaより引用
新たな反対勢力に邪魔されるのでは?と思いきや、そこにはもっとややこしい事情がありましたので、さっそく振り返ってみましょう。
関ヶ原は豊臣政権内での争い
前述の通り、関ヶ原の戦いから征夷大将軍に就任するまで約2年半。
「なぜ、そんなに時間がかかったのか?」と感じるのは、そもそも我々の“勘違い”から始まっているとも言えます。
関ヶ原の戦いは「勝ったほうが将軍になる!」という類の合戦ではなく、「徳川vs豊臣の天下争い」でもなく、あくまで「豊臣政権内での権力争い」でした。
東軍・西軍のどっちが勝っても、政権のトップは豊臣秀頼で不動。
むろん名目上の話ですが、あくまで関ヶ原は家臣たちの権力闘争だったのです。

豊臣秀頼/wikipediaより引用
ゆえに、いくら家康が関ヶ原の戦いに勝ち、事実上の天下人であったとしても、大坂城では執政役として秀頼を支えなければならない、面倒で複雑なポジションにいました。
このムズ痒い状況は、他ならぬ豊臣秀吉も経験しております。
本能寺の変後、明智光秀を討ち、他のライバルたちを次々に押さえつけても、あくまで織田政権内の家臣という立場でした。
それを「小牧・長久手の戦い」で織田信雄を屈服させ、ようやく織田家との主従関係を逆転させ、頂点に立てたのです。
家康もこの条件をクリアせねばなりません。
では、実際どうやって進めたのか?
領知宛行状を出して初めて
豊臣政権は、ご存知のように五大老と五奉行を中心に運営されていました。
しかし関ヶ原後は、大半の者が何らかのカタチで処分されます。
◆五大老五奉行の敗者
・上杉景勝・宇喜多秀家・毛利輝元・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以
◆勝者
・徳川家康・前田利長・浅野長政
負けた者たちは、打首の場合もあれば、島流しになった者、あるいは改易や減封など人それぞれでした。
日本を二分する大戦ですから、他にも凄まじい数の武将が処分され、彼らから召し上げた土地やその他権利などは、東軍ならびに全国で徳川に味方をした者たちへ与えられます。
家康自身の支配圏は、京都を中心に畿内も押さえ、もはや誰から見ても天下人という状況でした。
ただし、本物の天下人になるには、権力的にも書類手続き的にもキッチリとした徳川体制のもとに固めねばならず、それにはあるものが足りません。
「領知宛行状(あてがいじょう)」です。
読んで字のごとく【尾張国◯◯郡は◆◆のものとする】という公的文書であり、要は徳川政権(江戸幕府)が領有権を保証することですね。
領知を与えた者と与えられた者の間で、その瞬間に主従関係が成立する。
家康は、この重要な手続きをどう進めていったか?
羽柴・豊臣の苗字・姓を捨て
まず家康は、苗字と姓を戻しました。
苗字:羽柴→徳川
姓:豊臣→源
名前というのはわかりやすいものですね。そうまでして徳川を支配せねばならなかったのか……と、縁者が少なく家臣団の形成に苦労した秀吉に同情したくなります。
家康は、関白職にもメスを入れます。
かつて秀吉は関白に就くため豊臣姓を手に入れ、さらには羽柴一族で同職を独占していましたが、これを元の摂関家へ戻したのです。
もしもこのとき、豊臣秀頼が武家でなく公家に転じることができれば、後に大坂の陣は起きなかったかもしれませんね。

まぁ、言っても仕方のないことで、秀頼は畿内に多くの所領を持ち、家康も彼らを庇護しながら、徳川政権に有利となるよう様々な移譲を進めます。
その大きな一歩が慶長六年(1601年)3月、山城伏見城へ政庁を移したことでしょう。
大坂城から離れ、伏見城で天下統治のための政務に取り組んだのです。
そして慶長六年(1601年)から慶長七年(1602年)にかけて戦後処理の山場を迎えます。
大国だった上杉や佐竹、島津に対し、減封や移封などを命じて、ついに最も懸念だった諸勢力の処分を終えたのです。
慶長八年2月12日(1603年3月24日)、徳川家康は伏見城に勅使を迎えて、征夷大将軍に任官。
同時に従一位右大臣・源氏長者・淳和奨学両院別当にもなり、ついに江戸時代が幕を開けました。
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なお「家康は源氏だったの?」という疑問をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。
あるいは「藤原氏でなかったか?」という声もありそう。
そんな疑問をお持ちの方は別記事「徳川家康は源氏か藤原氏か?」も併せてご覧ください。
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【TOP画像】徳川家康/wikimedia commons
