家康は源氏か藤原氏か

徳川家康/wikipediaより引用

徳川家

家康はいったい藤原氏なのか源氏なのか|武士の“姓”って結構デタラメなのね

2024/12/26

永禄10年(1567年)正月、従五位下徳川三河守藤原家康が誕生しました。

この世に生を受けたという意味ではなく、松平元康から徳川家康へと改名し、朝廷工作が実を結んで「従五位下三河守」という官位を得たのです。

大河ドラマ『どうする家康』でもその様子は描かれましたが、家臣団とのドタバタ喜劇が目立ち、いまいち要領を得なかった方もおられるでしょう。

なぜ彼らは喜んでいたのか。

いったい「藤原家康」とは何なのか?

イラスト・富永商太

たしか家康は「源氏」を名乗ったりもしていなかったか?

戦国ファンの方ならそんな疑問も感じられたかもしれません。

当時の事情を振り返りながら、徳川家康の官位や姓を考察してみましょう。

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そもそも名門でもない松平氏の出身

出自は不明なれど、武力は高く、戦場を駆け回る――。

戦国時代は、正体不明の地侍こと国衆たちが数多くひしめいていました。

彼らに確かな血筋などはありません。

これが2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の舞台である平安末期から鎌倉時代であれば「アイツのご先祖様は◯◯だよな」と、ある程度は判明していたものです。

しかし、その後も幾度かの動乱が起き、血筋よりも実力本位の世界が到来。

武力とリーダーシップで自領を治め、財力を蓄える余裕が出てくると、ご先祖様を調べたりでっち上げたりするなどして、怪しげで曖昧なルーツができあがってゆきました。

では、家康の松平氏はどうか?

家康の祖父・松平清康/wikipediaより引用

現在の愛知県豊田市松平町は、かつては「松平郷」とされていました。

13世紀の後宇多天皇(在位1274ー1287)の時代、在原信盛がこの土地に居を構え、松の木が生い茂るさまを見て「松平」と名付けたとされます。

「松を見て名付けた」とは、なんだか曖昧な話ですよね。

要するに、出どころの怪しい話が伝わっている。ただそれだけのことであり、そんな一族が朝廷から官位をもらうとなれば、由緒が必要となってきます。

そこで出自を作り上げるわけですね。

これはなにも徳川家ばかりがセコいとかズルいのではなく、多くの大名や国衆たちがそうしていました。

 


日本人の名前はややこしい

再び『鎌倉殿の13人』に着目してみましょう。

同ドラマには、日本の家族像を探っていくような描写がありました。

主人公の北条義時は当初「江間小四郎」とされ、北条家を継ぐと見なされていなかったことがわかります。

江間小四郎義時こと北条義時/国立国会図書館蔵

義時には兄の北条宗時がいて、家を継ぐ前に討死。

生まれ順で一番上になっても義時には異母弟がいて、その母が正室・牧の方(りく)だったため、北条は弟が継ぐとされていたのです。

平安時代まで、一定の立場にいる者は「氏」と「諱(いみな)」を組み合わせて名乗っていました。

平清盛はその典型例です。

「たいらーきよもり」ではなく「たいらーのーきよもり」と間に「の」が入っていました。

それだとややこしいので、鎌倉時代になると、武士たちは「名字(苗字)」と「家名」で名乗り始めます。

「平義時」ではなく「北条義時」になるのです。

さらに武士は、よくわからない出自でも役立つものを引き立てるような例が増えてゆきます。

『鎌倉殿の13人』では、きづきさんが演じた平盛綱が典型例です。

劇中では孤児であり、義時の妻である八重が面倒を見ていました。

義時の子である北条泰時と兄弟のように育っていくうちに、彼は役立つ人物として「平盛綱」という名前と御家人の地位が用意されました。

あれは劇中の設定ではありましたが、史実の平盛綱も出自が不明であることをふまえた名付け方といえます。

要するに、姓とか名とか、割と作ることができるんですね。そこがややこしい。

再び家康へ戻ります。

 

生まれつき領地を持つ大名もいる

松平元康改徳川家康の場合、三河の国衆から大名に成り上がった過程があらわになります。

ゆえにこの従五位下徳川三河守藤原家康となる過程は重要です。

対象的に生まれながらの大名であり、アイデンティティを確立していた事例もあります。

今回はその例として、伊達政宗と最上義光に注目しましょう。

伊達政宗/wikipediaより引用

伊達家は歴史が古い名門であり、没落した大崎氏にかわって、室町幕府の役職である奥州探題とされています。

最上家は足利一門であり、室町幕府の役職である羽州探題です。

伊達政宗は陸奥。

最上義光は出羽。

支配する家に生まれたというプライドと理論を両者は用いています。

そもそもが俺の土地だ、攻め取って当然だろう――そんな意識があったのです。

両者の認識は共通しており、どちらかだけが悪どいとか、非常識とか、革新的ということはありません。

名作とされる大河ドラマ『独眼竜政宗』は、そんな伊達政宗を成り上がり型ヒーローとしたためか、実際の伊達家が盛っていた力よりも、過小評価して描かれていたものです。

伊達と最上は、争いの緩い東北地方であるからこそ、後世にまで残された面もあるでしょう。

一方、激烈な勢力争いが起きていた地方ほど、実力本位路線となり、激しい新陳代謝を繰り返しています。

ちなみに最上義光に敗北した名門として、寒河江氏がおります。

『鎌倉殿の13人』では栗原英雄さんが演じた大江広元の子孫です。

大江広元/Wikipediaより引用

同じく大江広元を先祖とする毛利氏は残り、寒河江氏は最上家臣として組み込まれたのでした。

血筋よりも実力――それが戦国乱世です。

そしてこの下剋上の荒波は、家康が官位を得ようとしていたときの京都を襲っていました。

 


源氏ではなく藤原になった事情

『どうする家康』ではササッと流されてしまいましたが、当時の京都では重大な事態が起きていました。

足利義輝の殺害、いわゆる【永禄の変】です。

剣豪将軍と呼ばれた足利義輝/wikipediaより引用

三好勢が将軍を御所巻き(ごしょまき・要求を通すため武威で圧力をかけること)した結果、義輝を死なせてしまったこの事件。

京都でそんな大動乱が起きる中、家康は祖父の松平清康にならい、こう朝廷に申し入れようとしました。

「我が一族は清和源氏であり、それも河内源氏は源義家の孫・新田義重を祖とする世良田の子孫・徳川です!」

正親町天皇は、この申し出に対し、難色を示します。

信憑性がない――というのは、その通りなのでしょう。

これでは任官できず、家康は困り果てます。

本来であれば、足利将軍が間を取り持つ場面ですが、その将軍がいない。

そこで家康は名門公卿・近衛前久に依頼しました。

『麒麟がくる』では本郷奏多さんが演じた高級貴族であり、彼らの強みは有職故実に詳しく、教養にあふれていることでした。

絵・小久ヒロ

貴族は往々にして日記を残しましたが、子孫が滞りなく儀式を進めるために必要なマニュアルであり、近衛前久もこうしたデータベースにはアクセス権限を持っていました。

お願いを依頼されれば、細工もできる立場です。

家康から頼まれた近衛前久は、そこで「とある旧記」から「とある系図」を見つけたことにしました。

「系図によれば、えー、松平は本来源氏やね。その中から藤原氏になった者がいたとすればええ。この藤原氏の頂点に立つ近衛前久が言うからには、ほんまやで」

もしも他国、たとえばお隣の中国辺りなら、「族譜」といった、父系をたどる文書がそれぞれあったりするのですが、日本はそのへん大らかだったのでしょう。

近衛前久の協力次第でどうとでもなります。

ちなみに、却下された「世良田」は意外な所で出てきます。

徳川家康には影武者伝説があり、「世良田二郎三郎元信」という人物が家康と入れ替わります。

この影武者伝説は隆慶一郎が小説とし、それを原作とした漫画もありました。

結局、家康は源氏なの?

残念ながら、三河守をもらった時点での源氏は却下され、藤原氏となりました。後に、天下人となりましたので、以降は、無茶振りでも名乗れば通ってしまいます。

ただし、徳川の天下が揺らぐとなると、血筋で張り合う者も現れます。

時は流れて江戸の世――鎌倉での墓掃除を恒例とする大名家がありました。

薩摩藩の島津家と、長州藩の毛利家です。

 

うちの殿の方がよほどええ血筋じゃないの

島津氏の祖である島津忠久には源頼朝の落胤説があり、伝承によればこうなります。

父:源頼朝

母:丹後局(安達盛長の妻・丹後内侍か?)

つまり頼朝が、信頼していた御家人・安達盛長の妻とひそかに関係を持ち、忠久が生まれたという設定です。

いくら何でもそりゃないぜ……となるのは現代人ならではの感覚であり、ともかく血筋を盛りたい当時の人からすればプラスとされました。

ただ、島津忠久のケースはあまりに強引であり、現在は否定されています。

島津氏の祖である島津忠久/wikipediaより引用

頼朝の血を引く男子は北条氏により出家させられました。

一方、長州藩の毛利氏は、大江広元は確たるご先祖様であり、その繋がりから墓参りをしています。

純粋な先祖崇拝だと片付けてもよいものですが、不穏なものも見えてくる。

将軍様だというけれど、血筋からすれば我が家の殿の方が上ではないか? そんなプライドを感じさせるのです。

室町幕府の将軍家であった足利一門は、江戸時代には大名としては消えました。

今川氏は今川氏真の代で大名としては滅び、旗本となっています。最上氏も江戸時代初期に改易され、旗本となりました。

しかし、それよりもずっと遡れば、毛並みのよい大名家は残っていたのです。

島津は話を盛っているとしても、毛利は確たるもの。

『鎌倉殿の13人』最終回では、松本潤さんが登場し、『吾妻鏡』を読み耽る場面が冒頭にありました。

ああしていたのは何も家康一人のはずがありません。

長州藩の誰かが『吾妻鏡』を読み、こう考えてもおかしくはなかったのです。

「徳川だのなんじゃの威張っちょるが、大江広元公の末裔たる我らの殿様の方が由緒正しいじゃないか」

長州藩には、新年にこんな儀式があったと伝えられています。

家臣が殿にこう問いかけるというのです。

「殿、今年こそ、倒幕をなさりますか?」

「まだ早かろう」

これは後世の創作とされますし、そもそも薩長にしたって、はなから倒幕を目指していたとは思えません。

ただし、長州藩による大江広元の鎌倉の墓参りは実際にあったことです。ルーツへの誇りはあったわけですね。

江戸時代は朱子学が導入され、日本人の思考回路は変わってゆきました。

下剋上は卑しいものとされ、その体現者たる松永久秀はことさら梟雄として貶められてゆきます。

高槻市の市立しろあと歴史館が発表した松永久秀の肖像画/wikipediaより引用

松永は大名として残ったわけでもないので、久秀を擁護する勢力はなかったのです。

幕末になってもそれは変わらず、明治維新とはフランス革命のような市民革命でなく、武士階級間のクーデターに過ぎないと指摘されています。

明治の元勲の中には、所詮は“農民一揆”にすぎぬフランス革命と、維新を並べられることに拒否感を示す人も多かったとか。

吉田松陰はフランス革命を称賛し、「フレイヘイド(自由)」と掲げたにも関わらず、松下村塾出身者は嫌がったのです。

こうした血統へのこだわりを、日本人はまだ持ち続けているのかもしれません。

大河ドラマが放送されると、その主人公子孫にインタビューする記事が出がちなのもその一端でしょうか。

子孫の方々も納得できるような大河ドラマが放映されることを望みたいものです。

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【参考文献】
柴裕之『徳川家康: 境界の領主から天下人へ』(→amazon
二木謙一『徳川家康 (ちくま新書)』(→amazon
高橋慎一朗『幻想の都鎌倉: 都市としての歴史をたどる』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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