南都焼討と平重衡

平重衡/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

南都焼討を実行した平重衡|なぜ清盛は東大寺や興福寺を攻めたのか

2024/12/27

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第11回放送でも描かれた南都焼討――。

平清盛の命により平重衡ら平家軍が、治承4年(1181年)12月28日、東大寺や興福寺など、南都(奈良)の寺社仏閣を焼き払いました。

清盛はなぜ、こんな暴挙を命じたのか?

そもそもは平家政権に刃向かったとして、寺社勢力が討たれたこの一件。

史実においても「平家の横暴はもはや許せない!」という声が高まります。

要は、清盛の大きな失策となってしまったわけで、それが後の源平合戦にどう影響していったか、南都焼討と平重衡に注目しながら確認して参りましょう。

平重衡/wikipediaより引用

 


福原遷都を優先させるも

治承3年(1179年)11月、平清盛は後白河法皇を幽閉し、関白・藤原基房を配流しました。

【治承三年の政変】と呼ばれる事件です。

これに対し、僧兵勢力を擁する興福寺が強く反発しました。

そして後白河法皇の復権をめざし、法皇の第三皇子・以仁王が挙兵すると、寺社勢力も呼応しています。

平家としては、当然、興福寺らに不満を募らせましたが、若干の余裕もあったのかもしれません。

清盛は政治的な思惑である【福原遷都】を優先しています。

月岡芳年が描いた平清盛/wikipediaより引用

新しく福原に都が定まれば、寺社勢力もおとなしくなる、という楽観もあったのでしょう。

しかし、この遷都が失敗し、京都へ戻るとなると、またも問題が再燃。

加えて、関東で挙兵した源頼朝率いる勢力が力を増していきました。

事ここに至れば、頼朝らの反抗勢力を、もはや見逃すわけにはいきません。

平家は、京都周辺の近江源氏と共に、南都の寺社勢力も追討対象に含めたのです。

 


南都焼討

迎えた治承4年(1180年)12月28日――。

平清盛の五男・平重衡に率いられた平家軍が、山城・河内の二方面から南都に攻め入り、興福寺と東大寺に襲い掛かりました。

奈良の大仏

東大寺盧舎那仏坐像

『平家物語』によれば、4万の軍勢とされますが、かなり過大な数字でしょう。

同物語では、常に数字が盛られる傾向があり、このときも4万の数分の一か、あるいは十分の一か……。

いずれにせよ、一定の軍勢でもって襲いかかると、南都は炎に包まれ、襲われた二寺院の主要な堂舎は全焼してしまいます。

被害は、ざっと以下の通りです。

◆南都焼討における二大寺院の損害

興福寺:二基の塔、金堂、講堂、南円堂。北円堂以下38箇所焼失

東大寺:止倉院、二月堂等を除く大仏殿以下の大半の堂舎が焼失、大仏焼失

この他に、敷地内へ避難していた人々は焼死させられ、仏像や仏典も灰塵(かいじん)に帰してゆきます。

文化財の損耗とともに、寺にいた僧兵(悪僧)勢力も壊滅しました。

さらに清盛は、両寺の公請(くじょう)を禁じます。

公請とは、朝廷に招かれての法会(ほうえ)や講義のことであり、これを禁じるということは、寺と朝廷のつながりを絶つということ。

さらに、寺の所職・所領をも奪い取ります。

古代より一定の政治力を有していた大寺院の権力を一切奪う――そんな厳しい措置でした。

 

平家に仏罰は下されたのか?

こんなことをしたのであれば、仏罰がくだされるであろう!

当時の人々がそう思わないわけがありません。

歳が明けて間もない2月4日、平清盛は尋常ではない高熱にうかされ、急死しました。

すかさず、

・平家に仏罰があたった

・南都焼討の祟りだ

と喧伝されました。

清盛が高熱に苦しむ様は『平家物語』でも、なかなかこっ酷く描かれるほどで、その描写を少し見てみましょう。

・病室までもが熱気に満ちてしまう

・あまりに苦しむから清盛を水風呂に入れた

・たちどころに水が沸騰し、蒸発してしまう!

こうした激しい描写は、南都焼討に対する因果応報論が込められてのことでしょう。

むろん、当時の日記でも高熱にうなされ亡くなったとありますので、熱病関連による死去であることは間違いなさそうです。

となれば、実行犯である清盛の四男・平重衡も、惨い目に遭いますよね?

しかし……。

 


墨俣川の戦い

重衡は父の喪に服する暇もなく、大将軍として【墨俣川の戦い】に向かいました。

ここにやってきた源氏は、源行家と義円の両名。

源行家/wikipediaより引用

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも簡潔に描かれていましたが、平重衡は仏罰に遭うどころか、源行家・義円らに完勝しています。

義円が仏僧であることを踏まえると、祟りも当てにならないものです。まぁ、それも現代から見れば当たり前ですが。

しかし、視野を広くもってみると、その後は平家に仏罰がくだされたような展開です。

反撃もここまでで、寿永2年(1183年)5月には【倶利伽羅峠の戦い】において、平維盛の軍が源義仲(木曽義仲)に大敗を喫します。

結果、平家は京都を放棄せざるを得なく、さらに迎えた寿永3年(1184年)の【一ノ谷の合戦】で、平重衡は源氏方に捕縛されてしまいます。

鎌倉にまで引き渡された重衡は、その高潔な人柄により、敵にまで感銘を与えました。

北条政子の女房であった千手の前は、宴席で重衡をもてなし、二人は恋仲になるほど。

しかし、南都の僧侶からすれば、重衡は憎むべき仏敵にほかなりません。

平家が滅亡した元暦2年(1185年)6月、斬首されます。

享年27。

重衡の死後、千手の前は衰弱死したとも、出家したとも伝わります。重衡とはそんな悲恋伝説ができるほど、愛された人物であったのでした。

 

焼け落ちた寺社仏閣を再建せよ

焼け落ちた寺社仏閣は、復興せねばなりません。

朝廷は寺への弾圧を停止し、新たな仏教が芽吹きます。

この破壊により、平安から鎌倉へ、建築や彫刻に新風が吹き込まれた一面もあります。

そしてこの東大寺大仏殿再建築には、源氏と縁深いある南宋人が参加しました。

重源の依頼を受けた陳和卿(ちんなけい)です。

陳和卿
陳和卿が源実朝と夢見た船は交易が狙いだった?“希望”は由比ヶ浜に座礁

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建久6年(1195年)に東大寺が再建され、供養式典が開かれました。

ここで頼朝は、陳和卿への面会を申し込みをしています。

しかし陳和卿は、頼朝が源平合戦で血を流したことから、それを断った。

頼朝はなおも感銘を受け、陳和卿にさまざまな贈り物をするものの、陳は建築造営や寺社寄進に用いたもの以外は返却という冷淡な対応です。

ところが建保4年(1216年)――。

陳和卿が、なんと自分から頼朝の子である源実朝に面会を申し込んできました。

源実朝/Wikipediaより引用

さらには実朝の顔を見るなり、感動のあまり泣き出したのです。なんでも実朝が、宋にいた高僧の生まれ変わりであるとか。

その真偽はさておき、実朝は、宋へ渡るべく「唐船」(※からふね・遠距離航海ができる船)を作らせました。

文弱であった実朝の現実逃避のように語られますが、それは後付けの面が大きい。

大型船舶の建造は、当然のことながら日宋貿易への意識があったのです。彼には、西日本を経由せず、鎌倉から出立させたいという、大望があった。

甥の公暁に暗殺されたことばかりがクローズアップされがちですが、実朝にはかつての清盛のような意志があったのです。

しかし、この試みは、由比浦が遠浅であったことから、進水時に失敗していまいました。

遣唐使船/wikipediaより引用

なんだか不吉なように思われがちですが、原因は時間と準備不足であり、実朝の先見の明までは否定できません。

追い詰められた平家の失敗から、源氏はさまざまな学びを得ていました。

大仏殿を再建し、仏敵ではないことをアピールする。

宗教勢力と融和をはかる。

そして、その過程で得た知見をもとに、日宋貿易まで視野に入れていた。

南都焼討のあとも、京都奈良には寺社仏閣が建立され、宗教の中心となりました。

のみならず、焼けたあとから種が関東まで飛び、鎌倉に花開いたようにも思えるのです。

 

人類は古今東西、文化宗教を破壊してきた

大河ドラマで扱う舞台は、文化や宗教の破壊がなされた時代であることが多いものです。

視聴者に人気の戦国時代ともなれば、寺社焼討ちや一向一揆勢との激闘がしばしば繰り広げられました。

幕末から明治にかけても、水戸藩での寺社仏閣破壊に端を発した【廃仏毀釈】が猛威を震っていますし、南北に目をやれば、アイヌや琉球の宗教が否定されてきた歴史もあります。

もう当たり前すぎて、感覚が麻痺してしまうかもしれませんが、その意義を見つめ直す機会かもしれません。

こうした文化宗教の破壊は、何も日本固有の現象でもなく、古今東西、どの文明圏でもあった悲劇といえます。

消えていったものが壮麗で、大切であったからこそ、人類は語り継ぎ、再建に力を尽くしてきたとも言えるかもしれません。

人間社会の未来が、人類の知性に依るものであるならば、破壊への嘆きと共に再建の重要性も記憶してゆきたいものです。


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【参考文献】
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon
坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』(→amazon
細川重男『論考 日本中世史』(→amazon
ロバート・べヴァン/駒木令『なぜ人類は戦争で文化破壊を繰り返すのか』(→amazon)

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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