大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第11回放送でも描かれた南都焼討――。
平清盛の命により平重衡ら平家軍が、治承4年(1181年)12月28日、東大寺や興福寺など、南都(奈良)の寺社仏閣を焼き払いました。
清盛はなぜ、こんな暴挙を命じたのか?
そもそもは平家政権に刃向かったとして、寺社勢力が討たれたこの一件。
史実においても「平家の横暴はもはや許せない!」という声が高まります。
要は、清盛の大きな失策となってしまったわけで、それが後の源平合戦にどう影響していったか、南都焼討と平重衡に注目しながら確認して参りましょう。
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福原遷都を優先させるも
治承3年(1179年)11月、平清盛は後白河法皇を幽閉し、関白・藤原基房を配流しました。
【治承三年の政変】と呼ばれる事件です。
これに対し、僧兵勢力を擁する興福寺が強く反発しました。
そして後白河法皇の復権をめざし、法皇の第三皇子・以仁王が挙兵すると、寺社勢力も呼応しています。
平家としては、当然、興福寺らに不満を募らせましたが、若干の余裕もあったのかもしれません。
清盛は政治的な思惑である【福原遷都】を優先しています。
新しく福原に都が定まれば、寺社勢力もおとなしくなる、という楽観もあったのでしょう。
しかし、この遷都が失敗し、京都へ戻るとなると、またも問題が再燃。
加えて、関東で挙兵した源頼朝率いる勢力が力を増していきました。
事ここに至れば、頼朝らの反抗勢力を、もはや見逃すわけにはいきません。
平家は、京都周辺の近江源氏と共に、南都の寺社勢力も追討対象に含めたのです。
南都焼討
迎えた治承4年(1180年)12月28日――。
平清盛の五男・平重衡に率いられた平家軍が、山城・河内の二方面から南都に攻め入り、興福寺と東大寺に襲い掛かりました。
『平家物語』によれば、4万の軍勢とされますが、かなり過大な数字でしょう。
同物語では、常に数字が盛られる傾向があり、このときも4万の数分の一か、あるいは十分の一か……。
いずれにせよ、一定の軍勢でもって襲いかかると、南都は炎に包まれ、襲われた二寺院の主要な堂舎は全焼してしまいます。
被害は、ざっと以下の通りです。
◆南都焼討における二大寺院の損害
興福寺:二基の塔、金堂、講堂、南円堂。北円堂以下38箇所焼失
東大寺:止倉院、二月堂等を除く大仏殿以下の大半の堂舎が焼失、大仏焼失
この他に、敷地内へ避難していた人々は焼死させられ、仏像や仏典も灰塵(かいじん)に帰してゆきます。
文化財の損耗とともに、寺にいた僧兵(悪僧)勢力も壊滅しました。
さらに清盛は、両寺の公請(くじょう)を禁じます。
公請とは、朝廷に招かれての法会(ほうえ)や講義のことであり、これを禁じるということは、寺と朝廷のつながりを絶つということ。
さらに、寺の所職・所領をも奪い取ります。
古代より一定の政治力を有していた大寺院の権力を一切奪う――そんな厳しい措置でした。
平家に仏罰は下されたのか?
こんなことをしたのであれば、仏罰がくだされるであろう!
当時の人々がそう思わないわけがありません。
歳が明けて間もない2月4日、平清盛は尋常ではない高熱にうかされ、急死しました。
すかさず、
・平家に仏罰があたった
・南都焼討の祟りだ
と喧伝されました。
清盛が高熱に苦しむ様は『平家物語』でも、なかなかこっ酷く描かれるほどで、その描写を少し見てみましょう。
・病室までもが熱気に満ちてしまう
・あまりに苦しむから清盛を水風呂に入れた
・たちどころに水が沸騰し、蒸発してしまう!
こうした激しい描写は、南都焼討に対する因果応報論が込められてのことでしょう。
むろん、当時の日記でも高熱にうなされ亡くなったとありますので、熱病関連による死去であることは間違いなさそうです。
となれば、実行犯である清盛の四男・平重衡も、惨い目に遭いますよね?
しかし……。
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