ペリーの黒船来航により、日本中が騒然とし始めた嘉永6年(1853年)。
それからわずか7年後に幕末最大のテロ事件【桜田門外の変】が起き、大老・井伊直弼が殺害されると、さらにその翌年の文久元年(1861年)、再び江戸っ子たちの精神を削る出来事が起きます。
歌川派最大の一門を率いていた絵師・歌川国芳が亡くなったのです。
享年65。
超長寿ではないけれど、当時としては大往生であり、次なる注目は「誰が国芳の死絵を手掛けるか」という点に集まります。
追悼の思いを込めた遺影でもある死絵。
そんな名誉ある役割を任されたのが落合芳幾(よしいく)でした。

落合芳幾による歌川国芳の死絵/wikipediaより引用
この芳幾、これまでの武者絵や役者絵だけでなく、外国人の来訪と共に発展する【横浜絵】を手掛けたり、明治時代に入ってからは新聞に活躍の場を広げるなど、幕末~明治時代に活躍した最後の浮世絵師世代とも言える存在。
弟弟子の月岡芳年と共に名を馳せ、最後まで国芳派の看板を背負い続けた。
その生涯を振り返ってみましょう。
🚢 幕末・維新|黒船来航から戊辰戦争まで 激動の時代を人物・事件でわかりやすく解説
器用な落合芳幾 不器用な月岡芳年
落合芳幾は天保4年(1833年)4月、日本堤下の編笠茶屋に生まれました。
本名は落合幾次郎。
幼いころから歌川国芳門下・歌川芳兼(竹内田蝶)の絵を見て育ち、絵師に憧れを抱いていましたが、堅実な道を歩んで欲しい親の思いもあってか、質屋の奉公へ出されます。
しかし、どうしても絵が忘れられなかったのでしょう。
芳兼により、歌川国芳への入門を果たします。
このとき芳幾は17から18歳。奉公を経ていたこともあり、弟子入りは遅い部類に入ります。
例えば弟弟子の月岡芳年とは6才の年齢差がありましたが、入門時期はわずか1年差。

月岡芳年/wikipediaより引用
つまり芳幾には数年間の奉公経験があるわけで、それによって人付き合いが上手になったのかもしれません。
安政2年(1855年)、芳幾は【安政江戸地震】により臨月の妻を失いました。
一方、その惨状を描いた作品によって名声は高まり、幕末という激動時代の最中、芳幾は国芳一門の若手絵師として売り出されてゆきます。
師匠の国芳は、芳幾をこう評していました。
「あれァ器用だね。でも覇気が足りねェなあ」
これは絵師としてのことだけでもなく、世渡りの手腕もあるのでしょう。
芳幾は如才ない男で、師匠が評したその器用さも活かし、仕事の範囲を広げてゆきます。
温和な性格で親孝行、ユーモアセンスがあり付き合いもいい。それでいて破滅的なところはなく、金銭管理も抜かりなくできる。
なんでも常に25両を懐に入れておき、金に困った仲間がいればサッと渡していたとか。
若き絵師として売り出し中でありながら、文人や落語家とも交流して仕事の種を探す。
師匠の国芳は下積み時代、一心不乱に腕を上げようとしていました。何かと縁がある弟弟子の芳年も、うまく立ち回れない性格です。
彼らと比べて芳幾は、商人のように器用な立ち回りができる絵師でした。
無惨絵の代表格『英名二十八衆句』
時代が幕末へと向かう中、落合芳幾は月岡芳年と共作でのヒット作を出しています。
慶応2年から3年(1866年から1867年)にかけて出された『英名二十八衆句』です。

落合芳幾『英名二十八衆句 遠城治左エ門』/ボストン美術館
無惨絵の代表格であり「怖い浮世絵」とか「狂気の作品」といった、おどろおどろしいキャッチフレーズがつけられたこのシリーズ。
伝説的な水茶屋の看板娘である笠森お仙ですら、芳年が描けば血に塗れ、乱れた髪を男に掴まれ引っ張られる構図になってしまいます。
そのせいか、やたらと“狂気”ばかりが注目されるシリーズですが、個人的には「マーケティング戦略」ありきだと思えます。
大政奉還の一年前――当時の日本は殺伐とした空気に包まれていました。
それこそ芳幾が生まれた頃から関東の治安は徐々に悪化してゆき、ペリー来航以来はまさに急展開。
桜田門外の変では大老の井伊直弼が討たれ、以降、未遂も含めて要人への襲撃事件が多発し、京都では尊王攘夷を掲げたヘイトクライムが続発するようになりました。
外国人が暮らす横浜でも犯罪は起こっています。
そして、あの生麦事件もあり、横浜を中心に「異国艦隊が襲ってくる」という噂まで流れました。

生麦事件のイメージ/国立国会図書館蔵
こんなご時世ですから、江戸っ子も笠森お仙に萌えているだけでは物足りない。
グロテスクな題材への需要が高まったのです。
江戸っ子に爆発的な人気がある国芳は、なんといっても武者絵が得意でした。
力強く、時には生々しい絵を描いていた、師匠譲りの画風と定番テーマを描けば確実に売れる。
そこに世情の不安定さを反映したグロテスク要素を加え、さらには人気絵師同士を競わせたら、そりゃ売れるというもの。
『英名二十八衆句』は、芳幾と芳年が同じ題材を描いた作品もあります。
国芳一門ナンバーワンの芳幾と、絵師番付に掲載され始めた芳年。
そんな名門の弟子同士が競い合う構図に、江戸っ子が夢中になったのも当然と言えるでしょう。
ただ、この兄弟弟子は、江戸幕府の終焉と御一新への向き合い方が対照的です。
慶応4年から明治元年(1868年)――月岡芳年は【上野戦争】を目撃し、江戸を守ろうとして命を落とす彰義隊士たちをスケッチしていました。
散っていった彼らを弔うように『魁題百撰相』を売り出すと、そのあとしばらく筆を置くこととなるのでした。

『魁題百撰相 謎解き浮世絵叢書』(→amazon)
一方で芳幾は明治5年(1872年)、ぬかりなく『東京日日新聞』発起人に名を連ねていました。
『東京日日新聞』発起人
『東京日日新聞』は日本初の近代新聞であり、条野伝平(戯作者)と西田伝助(貸本店番頭)、そして落合芳幾によって始められました。
刊行予告に描かれたのは西洋風のエンジェル。
ただし、錦絵のタッチです。
リアルな赤ん坊に天使の羽がついたその不思議さは、見ているだけで頭がフワフワしてきませんか。

錦絵版『東京日日新聞』/wikipediaより引用
新聞こそは明治の新たなるメディア。
読者が飛びつきそうなおもしろゴシップネタに、毒々しい錦絵を入れる――そんなスタイルが持ち味でして、この挿絵がまた味があるんですな。
超絶技巧なのに、描かれている内容は実にしょうもない。
仰天! じいさんとばあさんが老い楽の恋でなんと駆け落ち?!
自業自得だ! 鬼コスプレで犯罪をするも、毒饅頭を食べて中毒死!
絶対に泣ける……幽霊になっても我が子をあやす母
こんなどうということもないB級ニュースを取り上げて、それを錦絵にします。
どうしたって国芳譲りの腕前が残っていますので、ネタは、遊郭での大騒ぎやら不良同士の喧嘩やらなのに、イカしたポーズをつけています。
毒々しいメディアは人気が出るものなのでしょう。追随媒体も出てきて、錦絵新聞は一大メディアとなったのです。
しかし、錦絵新聞の寿命は短いものでした。
印刷時間を考えると、どうしても速報性において通常の新聞に勝てず、芳幾が挿絵を務めたのは明治7年(1874年)までとなったのです。
錦絵新聞は時代の徒花のようで、いま見ると独特の味わいがあるんですな。近代ジャーナリズムとして実におもしろい。
イギリスには19世紀に創刊された風刺漫画雑誌『パンチ』があります。
教科書やWikipeidaにも掲載されるような、時事ネタを多く描いた雑誌であり、日本の幕末から明治にかけての浮世絵にも、こうした風刺ジャーナリズム要素が加わってゆきました。
しかもド派手なフルカラー。民衆の心理も反映しているのか。今見ても生々しく、味があり、当時の空気が伝わってくる。
そんな錦絵新聞立ち上げに関わった落合芳幾は、明治のインフルエンサーと言えるでしょう。
芳幾には、時代を読む器用さがありました。
事業で失敗 借金取りが
落合芳幾はその後、明治12年(1879年)創刊『歌舞伎新報』の挿絵を担当。
明治30年(1897年)の廃刊まで関わりましたが、どうにも絵師としてのキャリアはパッとしません。
錦絵をやめ、事業に手を出した器用さも仇となりました。
明治23年(1890年)に58歳で失敗してしまい、それまで煉瓦建て3階の家に妻子と暮らしていたのに、一家離散の憂き目に遭ってしまうのです。
その2年後の明治25年(1892年)、何かと因縁のあった弟弟子・月岡芳年が享年54で没します。
と、芳幾は大いに嘆きました。
驚いたのは芳年の弟子たちです。
師匠の芳年は、芳幾に蹴られたことを恨みに思っていたのか、20年経っても憎しみは消えなかったようで、日頃から毒づいていました。
それが当の芳幾が芳年の死を嘆き、弟子たちが「いい人すぎねェか……」と驚いたのです。
芳幾は、お人好しとも言えるかもしれません。
そんな人の好い性格ですから良き友人たちに恵まれており、生活に困窮する姿を見かねたのか、友人や仲間が「国芳追善会」を開きました。
そこで芳幾も作品を売ったのですが、まとまった金が入ってくると、すぐさま借金取りが駆けつけ、売り上げをごっそり持っていってしまう。

織田信長の側近・堀秀政を描いた落合芳幾の浮世絵/シカゴ美術館所蔵
時折、絵筆を執り、ちりめんで飾った手製の人形を作り、浅草仲見世で売り出すものの、当たらない。
そんな慎ましい生活を送る晩年です。
明治37年(1904年)に本所太平町で死去。
享年72。
死の前年に描かれた『布袋唐子図』や『猩々舞図』からは、衰えぬ技量と、穏やかな彼の性格が伝わってきます。
器用過ぎたがゆえに
親分肌の歌川国芳のもとには、大勢の弟子がおりました。
右腕とされる歌川芳宗。
師匠よりも先に亡くなった歌川芳艶。
実力随一なれど、師匠と袂を分かった歌川芳虎。
一門随一の美男で、師匠が下絵を描いた菊慈童刺青が自慢の種――それなのに、恋女房に逃げられ自殺した歌川芳雪。
そんな個性豊かな国芳一門でも長生きした者は明治時代を生きることになり、彼らは新時代のメディアや商品に組み込まれてゆきます。
たとえば歌川芳藤は、おもちゃにつける絵を多く手がけました。
おもちゃは消耗品であるため、作品があまり残されておりません。師匠と同じく猫の絵がかわいらしいこともあり、猫ブームとともに師匠の国芳ともども、注目度が上がっています。
そして、浮世絵が終焉に向かう中、それでも存在感を残したのが落合芳幾と月岡芳年の二人でしょう。
幼くして入門するも、柄の悪さを気にした親が辞めさせたという河鍋暁斎も、国芳関係者として加えてよいかもしれません。
しかし落合芳幾は、月岡芳年や河鍋暁斎とは知名度においてかなりの差がつけられています。
それはなぜか?
というと、師匠である国芳の評価が当たったと思えます。

落合芳幾『今様擬源氏』/ボストン美術館
芳幾は器用だが、覇気が足りない――同じく芳年をして、覇気があるが不器用とした評したこととあわせて考えても興味深い。
器用さとは、現代でいうところのコミュ力、コミュニケーション能力の高さなのでしょう。
うまく立ち回り、人脈を生かし、新時代のメディアである『東京日日新聞』発起人まで務めたのですから、たいしたものです。
現代に生まれていたら、SNSを活用したインフルエンサーにもなれたのではないでしょうか。
芳幾がSNSでウケのいいイラストレーターとならば、芳年は技量は神とされながらも、SNSではやたらと無口か、炎上してしまうタイプ。
ただ、コミュ力による躍進とは、人間関係のつまずきやで崩れるもの。あるいはつまずくと、周囲の人間まで巻き込んでしまう宿命も感じさせます。
人間関係のつまずきにより、本来の画業を発揮する機会も失われてしまう……。
なんとも切ないではありませんか。
芳年が熱狂的なファンを獲得したのに対し、芳幾はそこまで評価されてない。
それでも近年は再評価が進み、国芳や芳年と並んで展示される機会も増えてきています。
むしろ芳幾は、今だからこそ見るべき作品かもしれません。
幕末から明治時代へ。
荒々しい時代の中、器用貧乏に生きた落合芳幾。
そんな時代の変貌に思いを馳せながら、作品を眺めてみる。
なお、もっと手軽に芳幾と芳年を知るならば、漫画『警視庁草紙』8巻に「異聞・浮世絵草子」として二人の姿が収録されています。
以下の関連記事と併せてご参照ください。
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参考文献
- 三菱一号館美術館・北九州市立美術館・毎日新聞社 企画『芳幾・芳年 ― 国芳門下の2大ライバル』毎日新聞社、2023年(展覧会公式図録)。
出版社公式サイト:まいにち書房(公式図録)
Amazon:商品ページ - 悳俊彦『もっと知りたい歌川国芳 改訂版』(アート・ビギナーズ・コレクション)東京美術、2022年。
出版社公式サイト:東京美術(書誌情報)
Amazon:商品ページ - 小林忠 監修『浮世絵師列伝』(別冊太陽 スペシャル)平凡社、2005年。
出版社公式サイト:平凡社(書誌情報)
Amazon:商品ページ




