明治16年(1883年)10月16日、日露和親条約の交渉にあたったロシア帝国の軍人エフィム・プチャーチンが亡くなりました。
この御仁、日本関係についてはとにかく不運続き。
にもかかわらず、終生、親日のスタンスを崩さなかった珍しい西洋人です。
明治政府から勲章が贈られるほどの功績を残しました。
しかし教科書では「ペリーの後に来て条約を結んだよ」としか書かれていないという、今なお不運が続いているお人でもあります。
今回は幕末の情勢を考慮しながら、プチャーチンの生涯を見て参りましょう。
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不運でも貫いた「親日」プチャーチン
プチャーチンが日本に来る直接のきっかけは【アヘン戦争】でした。
アヘン戦争でイギリスが中国(香港)に拠点を作ったことにより、アジアの情勢が変わり始めたのです。
時代を問わず、ロシアの対外政策は基本的に南下=不凍港を手に入れることが第一。
しかし、ヨーロッパ方面では諸国の利害が絡み合い、そうそう簡単に港を手に入れることができません。
「それなら、反対側でなんとかしようじゃないか」というわけです。
シベリア側の港はウラジオストク。冬は凍結しますが天然の良港です。
ただ港があるだけではダメで、通商相手として選ばれたのが日本でした。
「イギリスみたいな海賊と違ってうちは紳士」
当時のヨーロッパではフランス革命からナポレオン1世が台頭して、ロシアに攻めてきました。
ナポレオンを撃退したものの、不穏な空気はいまだ続いていた――そんな状態ですから、ロシア帝国といえど、東西両面で戦争を起こしてまで港を確保する余裕はありません。
そこで「極東では穏便に話をして、ゲスなイギリスと違うってことを見せてやりましょう!」と進言したのがプチャーチンだったのです。
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実はロシアでは、プチャーチンに先立つ1792年と1804年、正式に使節を長崎へ派遣しています。
しかし、長崎では鎖国を理由に断られてしまいました。
ところが1853年(嘉永6年)6月3日。
海賊紳士イギリスの息子たる新興国アメリカが、なんと外交儀礼を一切無視して、長崎という開かれた港ではなく、江戸湾内の浦賀に直行したのです。
そう、ペリーの黒船来航です。
ペリーの出港よりも早かったのに
ただ、さすがおそロシア。
ペリーの動きも事前につかんで「こりゃいかん!」とあわてて使節を派遣したのがプチャーチンでした。
しかも、1852年10月に、彼の一行はロシア西部のクロンシュタットから船を出します。
この段階ではペリーの出港(アメリカ西海岸→大西洋→喜望峰→香港)の1か月も早かったのです。
ところが……おそロシアならぬ、おまぬけロシア。
ペリーに抜かされてしまったのです(唖然)。
で、プチャーチンが香港に着いたときに、ペリーが先に日本に着いたことを知ります。
「ちっくしょー。でも、うちのおそロシアな外交で先に国交をいただくぜ」と、乗り込みますが、なんという紳士。
江戸ではなく、またも長崎へたどり着きます。
なにしろ、ペリーが「開国シナサーイ!」と迫ってきて1ヶ月経った1853年7月のことです。
幕府はアメリカへの対応でてんやわんや。
そこへ別の国から「うちとも付き合ってもらえませんか?」と言われても、誰にどこでどんな返事をしていいのかすら決めかねる有様です。
しかも、江戸から遠い長崎にいるなら「とりあえず、ほっとけ」となりますよね。
こうしてプチャーチン一行は長崎で散々待たされます。
しかも追い討ちをかけるかのように、十二代将軍・徳川家慶(いえよし)が亡くなってしまい、幕府の中はますます混乱に陥りました。
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待ちかねたプチャーチンは何度も催促しますが、効果がありません。
いつまで待てばいいのかもわからない上、本国からは「近々イギリス・フランスと戦争になるかもしれないからよろしく!」なんて不穏な知らせも届くわで、温厚な彼もついに黙っていられなくなります。
「船を乗り換えてきますから、それまでに交渉できる人を用意しておいてくださいね?^^」と、あくまで紳士的な捨てぜりふを残して一旦上海へ引き上げました。
地球半周の航海で、最初に乗ってきた船にかなりガタが来ていたのは事実だったからです。
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