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【プチャーチン】
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本国はクリミア戦争、帰るに帰れない外交交渉
そして予告通り船を乗り換えられたはいいものの、上海で
「ロシアとオスマン帝国が戦争を始めました(キリッ」
という背筋の寒くなるニュースを耳にします。
いわゆるクリミア戦争です。
オスマン帝国には(珍しく手を組んだ)イギリス・フランスが味方しており、いかにロシアでも一筋縄でいかないことはわかっていました。
もし本格的に介入してくれば、プチャーチンの帰り道になる航路が使えなくなる恐れもあります。
プチャーチンはこうして、遠く離れた本国の事情を後追いしながら交渉を進めるという無理ゲーをやるハメになってしまったのです。
常人なら命惜しさに逃げ帰ってもおかしくないところですが、彼は実に真面目な上優秀な外交官だったので、この難題に最後まで取り組みました。
しかし決意を固めて再び来日したプチャーチンを、文字通り、天地ごとひっくり返すほどの異変が襲います。
嘉永7年11月4日(1854年12月23日)の安政東海地震です。
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このときプチャーチンの乗ってきたディアナ号は下田(静岡県)に停泊しており、船も船員も甚大な被害を受けました。
プチャーチンや中枢となる人物は幸い無事ながら、下田の家屋が9割以上も壊滅という有様だったため、交渉は一時中断となります。
ロシアではほとんど地震が起きませんし、プチャーチンに同行していた司祭は
「まるでバベルの塔の崩壊を見るようだ」
とまで書いていますから、その恐怖はより大きかったことでしょう。
しかしプチャーチンは下田の様子を見て「何か手伝えることはありませんか?うちの船には医者もいますし、救助に人手が要るでしょう」と幕府側へ名乗り出たのです。
「私の妻は美人なので心配なんですよ」「私も……」
現に彼らは住民の救助に成功し、医師も彼らを診察して数人の命を救うことができました。
この人道的な態度に、幕府は少しずつプチャーチン一行への態度を軟化させていきます。
また、交渉に当たった川路聖謨(かわじとしあきら)とプチャーチンは気が合ったようで、それも交渉に一役買ったようです。
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川路が「私の妻は江戸でも評判の美人なので、一人で家にいさせるのが心配なんですよ」と冗談を飛ばすと、プチャーチンも「私も何年も妻を放っておいているので心配です。お察しください」(アナタがたが早く条約を締結させてくれればそんな心配要らないんですけどね?^^)と和やかにイヤm……もとい、切り返しているほどです。
ジョークに本音を織り交ぜつつ、気長に交渉を進められたのは互いの人格を認め合っていたからでしょうね。
二人の努力の甲斐あり、最初の来日から1年半ほど経った1855年2月7日、日露和親条約が無事結ばれました。
後々これに対する追加条約を経て、1858年には日露修好通商条約も締結します。
プチャーチンの無理ゲーは、ようやく無事に終わったのです。
大破したディアナ号はというと、交渉の間、伊豆戸田村(へだむら・静岡県沼津市)で修理をしていたのですが、和親条約の直後に荒波で沈没してしまいました。
どこまで運がないんだプチャーチン……。
彼はすぐ帰国することができず、新たな船の完成を待つことになります。
下田の住民以外も知っておきたいイイロシア人
幸いディアナ号の中から運び出せた荷物の中に西洋船の設計図があったため、これを戸田村の船大工に渡して作ってもらえることになりました。
現代からするとこれまた結構なムチャ振りですが、幕府側としても「作り方教えてもらえるんならぜひウチで!!」とやる気満々だったようです。
新しいものを見るとやってみたくなる・改良したくなる技術者魂が爆発したのかもしれませんね。
こうして利害の一致した日露双方で協力し合い、突貫工事によって同じ年の春には代わりの船を作ることができました。
プチャーチンが納得できるほど出来は良かったようで、感激した彼は新しい船を「ヘダ号」と名付けます。
ロシア語でも「ヘダ」って発音できるんでしょうか。
ヘダ号に搭乗したプチャーチンは、シベリアのニコラエフスクという港に着き、その後は陸路で首都・サンクトペテルブルクへ。
以降も、日本からの留学生に便宜を図ったり、ロシアに日本公使館ができたときには諸々の渡りをつけたり、急速に西欧化していく日本に惜しみなく協力してくれています。
明治維新後に外国人として初めて勲一等旭日大綬章(日本で一番名誉ある勲章)を贈られたのは、下田での救助だけでなくこうした国としての恩に報いたものだったのでしょう。
彼は叙勲後、2年ほどしてパリで亡くなりましたが、最後まで親日を通しました。
プチャーチンの死後に娘のオーリガが来日し、遺産から戸田村へ100ルーブル(ざっくり換算で現在の1500~1500万くらい)が贈られています。
彼女も日本には好意を持っていたようで、当時発足したばかりの日本赤十字などに寄付を行いました。
この縁と感謝を忘れず、今でも戸田村にはディアナ号の錨(昭和五十一年引き揚げ)やオーリガの使った日用品などが、プチャーチン父娘との縁と共に保管されているそうです。
人種も文化も何もかも違うお隣さんですが、ロシア帝国と日本にはこんな繋がりもあったのです。
プチャーチンがもっと知られていたら、紳士の枕詞はイギリスじゃなくてロシアになってたかも……というのは言い過ぎですかね。
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長月 七紀・記
【参考】
白石仁章『プチャーチン (新人物ブックス)』(→amazon)
国立国会図書館リサーチ・ナビ(→link)
プチャーチン/wikipedia