セヴァストーポリ包囲戦/wikipediaより引用

ロシア

ロシア・クリミア半島侵攻の歴史 不凍港を求め続け各国とドンパチ!

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歴史と地理は、切っても切れない結びつきがあります。

特に顕著なのがロシア史ではないでしょうか。

ロシアと戦争といえば、宿願とも言える不凍港。
国土が極寒の地にあって海が凍ってしまい、一年中、船を使える港を求めて他国へ侵略を仕掛けているわけですが、では「そもそもどこの海なら凍らないのよ?その場所どこなのよ?」ってなわけです。

というわけで、本日はロシア周辺の地図をご覧頂きながら進めて参りましょう。

 

 国土は広くても北極圏やツンドラばかり

「おそロシア」だの「情報統制」だの「国のトップが元暗殺者」だの。
コワいものの代名詞扱いされているロシアですが、昔の人の身になって考えてみれば、哀れなお国でもあります。

国土は広くても半分近くが北極圏やツンドラで、冬になれば国外へ出ることもできない。

鉱物やガスなど資源が豊富とはいえ、価値が見出されたのは近年の話ですし、そもそもロクに輸送することもできず、モノがあるのに売りに行けないというもどかしい状態が続いていたわけです。

技術が進み、飛行機や鉄道などの発達で輸送については解消に近づいたとはいえ、やはり時間はかかっても大量輸送に向いた船=航路=不凍港を欲しがるのは”理論としては”間違ってはいません。

だからといって北方領土は譲れませんけどね。

 

1853年3月28日クリミア戦争の勃発

ロシアから見た場合、不凍港を得るために直接手を出すとなると、攻めるべきところは数ヶ所に限られます。

西側のフィンランドやバルト三国など北欧方面、東のオホーツク海方面(北方領土)、そして昨今イヤな意味で話題になりがちなクリミア半島です。
カスピ海は”海”ってついてますけど湖ですからね。

ややこしい話なのでニュースを見ていてもワケワカメになりますが、昨日今日といった近年の問題ではありません。

今回は現在のクリミア問題にも繋がってくる、1853年(嘉永五年)3月28日に勃発したクリミア戦争に注目です。

 

ロシア帝国とオスマン帝国に挟まれて

クリミア半島は、ウクライナの南方・黒海に突き出たところです。

GoogleMap上ではクリム半島と記されますね。

ロシアから見た場合、最も近い不凍港。
当時ここは、二つの大国に挟まれた地域でした。

一つは言わずもがなロシア帝国、もう一つはオスマン帝国です。

18世紀までは拮抗した状態が続き、露土戦争(1787年〜1791年)でロシアが勝ってからは徐々に天秤が傾いていきました。
これがオスマン帝国凋落のキッカケになったともいわれています。

結果、クリミア半島はロシア帝国のものになり、勢いづいたロシア側は更なる南下を目指しました。というか、クリミア半島だけでは不凍港を手に入れたことにならないのです。

地図をご覧いただくと一目瞭然のように、クリミア半島から黒海に出たところで、その先にあるのはオスマン帝国の首都・イスタンブール。
つまり、オスマン帝国を完全にやっつけてしまわないと、ロシアの悲願は達成できません。

というわけで、ロシア帝国は「やってやんよ」とばかりに南下を進めます。

 

英仏サルデーニャが手を組みロシアを阻む

しかし今度は、オスマン帝国とのタイマンとはなりません。

「ロシアの南下だと!? 冗談じゃねえ!」と感じた某海賊紳士の国(英国)が音頭を取り、フランスと手を組んでオスマン帝国側に味方したのです。
後にサルデーニャ王国(イタリア統一の中心になった国)も参加しました。

結果はロシア帝国の負け。
このため南下政策の矛先を東アジアに向けることになり、中国(清)に手を出し、さらに日露戦争に絡んでくるわけです。

ロシアって防衛戦には強く、打って出ると一気に勝率が下がる印象ですよおね。まぁ防衛戦の勝ち方も焦土戦術+冬の寒さだから……。

単純に数だけで見ても4対1ですので数の暴力とも受け取れますが、ロシアにとってはもう一つ決定的な敗因がありました。

産業革命の進捗です。

産業革命といえばもちろんイギリスであり、工業力や輸送能力はもちろん、銃火器もとっくに革命済みでした。

フランスも別の革命でいろいろあったとはいえ、装備は整っていました。
オスマン帝国はまだ近代化の途中でしたのでなんともいえないところですけども。

サルデーニャ王国の装備については詳細不明ながら、イタリア統一戦争中にガリバルディが銃を集めたという記録があるので、少なくとも扱いに慣れていたことは確実でしょう。

 

一方的な戦いになるかと思いきや意外にも

一方ロシアの装備は、まさに前時代の遺物といってもいいものでした。

とはいえ、英仏軍も地元の地理に疎かったので予想外の苦戦をしていたそうですけれども。
なぜ事前に調べなかったというか、オスマン帝国から教えてもらえばよかったんじゃ……てか、連携って難しいですよね。

しかも化学兵器使ってもケリがつかないわ、慣れない気候で病死者が続出するわで、装備では圧勝してたはずなのにまさかの苦戦に陥ります。イギリスに至っては一番遠くから来ていることもあり、軍費がかさみすぎて本国の財政が破綻する有様でした。な、何を言っているのか(ry

ちなみに、サルデーニャ王国軍が来たのはこの英仏両国軍がボロクズ状態になったタイミングだったので、非常にありがたがられました。

そりゃイタリア統一にもちょっとは協力したくなりますやね。

19世紀までバラバラな国だった「イタリア統一運動」の流れをスッキリ解説!

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このタイミング狙ったカヴールさんやっぱりすげえ。

 

バルカン半島が火薬庫ならばクリミア半島は導火線?

こうしてクリミア戦争は終結に向かったのですが、講和条約の中身はといえば「皆ボロボロだから、戦争前の状態に戻そうね!」(超訳)というまさに誰得なものでした。

しかし、約20年後には、再びロシアとオスマン帝国の間で戦争になったり、共和国が作られたり、第二次大戦時には対ドイツ戦の主戦場になったり、クリミア半島はほとんど平和の訪れることのない土地柄になってしまいます。

バルカン半島が俗に【ヨーロッパの火薬庫】と喩えられるならば、クリミア半島も導火線というか火種というか火元というか。

これは歴史というより地政学の観点ですけども、半島国家は大陸側の強国と海の向こうにある国に挟まれるのが必然なので、独自路線を保ち続けるというのは難しいんですよね。一方に併合されても他方との最前線になっちゃいますし。

昨今のクリミア問題は海の向こうではなく、地続きになっている国同士の話なのでまた変わってくるかと思いますが、どうなることやら……。

 

カーディガンはこの戦争で生まれた

さて、この全方向誰得な戦争では新しく生み出されたものがいくつかありました。

クリミア戦争は上記の通り、どこの軍も苦戦だったので、それまでにはなかったものが多数考えられたのです。

例えば、カーディガンはこの戦争で負傷した兵士があまりにも多かったため、イギリスのカーディガン伯爵ジェイムズ・ブルデネルが「前が開くセーターなら手当しやすいだろう」と考えて作らせたものだといいます。

ここだけ聞くといい人に思えますが、局地戦の一つ・バラクラヴァの戦いで無謀な突撃を敢行、部隊の約四割を死なせた人でもあったりします。
現代の軍事用語で言えば全滅です。

しかも本人は生き残ってるのが何ともいえません。
ノーブル・オブリゲーション(貴い身分のものこそ国に尽くすべきとする考え方・戦時に最前線へ行くことなど)はどこいった。

 

クリミアの天使・ナイチンゲール登場

また、野戦病院の環境改善が行われたのもクリミア戦争がきっかけでした。

正確には、フローレンス・ナイチンゲールたちが野戦病院のトイレなど、徹底的な衛生管理を進めたことによるものです。

ナイチンゲール/wikipediaより引用

これらの対策により野戦病院での死亡率は42%から5%まで下がったそうで、ナイチンゲールは「クリミアの天使」と呼ばれるようになりました。夜回りを欠かさず、上流階級の出身であったことから「ランプの貴婦人」とも呼ばれていたとか。

それまでどんだけ汚かったのかとも言いたくなりますが、院内の感染症だけでなく破傷風や出血多量による死者も多かったのでしょう。

病院内での死者が多かった理由としては、当時のヨーロッパに入浴の習慣がなかったこともおそらく一因かと思われます。
シャワーが発明されるのはもっと後。
イギリスで入浴が法律で奨励(!)されるようになるのはクリミア戦争から20年後の話です。

一応理由はいろいろあるんですが、普段、入浴しないのが当然となると、負傷した兵の体を清拭していたかどうかもかなりアヤシイですよね。

あまりこの手の話を続けるとヨーロッパが嫌いになってしまう方がいるかもしれませんので、この辺にしておきましょう。

明治政府は「西洋スバラシイ!西洋文化バンザイ!!」という方針でした。

が、こうしてみるとむしろ日本のほうが優れていた点も多々ありますよね。
自国に対する贔屓目といえばそれまでですけども。

長月 七紀・記

【参考】
クリミア戦争/wikipedia
カーディガン/wikipedia
ナイチンゲール/wikipedia

 



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