今川義元像

信長公記 今川家

守護を担ぎ義元と会見~戦国初心者にも超わかる信長公記第25話

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今回は「建前」がキーワード。

前半:織田信安との対立
後半:三河守護※1と尾張守護の会見

というように、まるで違う話題になっています。

早速、前半から見て参りましょう。

※1底本の『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)表記に従っております

 

正眼寺が砦にされる前に

まず前半の舞台は
長良川の戦い
斎藤道三が討死した後のことです。

織田信長に敵対した織田信安(織田伊勢守家)との間で小競り合いが勃発。
清洲の近くにあった「下津の郷」(現・愛知県稲沢市)の正眼寺を、信安が砦に改造しようとしているという噂が立ちました。

地形が険しい――ゆえに軍事的価値が高そうだ。

そんな風に判断されたようですが、いざ敵の拠点が完成してしまうと、これを取り除くのは困難なことになります。

信長はいち早く動きました。
清洲の町人を集めて正眼寺の藪を切り払わせ、見通しを良くしてしまおうと考えたのです。

町人たちだけでは、いざ信安方に襲われたときに抵抗もできないので、護衛の兵をつけました。

ある町人が数えたところによると、騎馬が83前後だったそうですから、歩兵等を含めてもそんなに大人数ではなかったのでしょう。

 

敵は3,000の全軍でやってきた!?

一方の信安方も即座に反応。
なんと3000近い兵を出してきたといいます。

後に信安の息子・織田信賢がほぼ同じ数の兵を出して信長と戦っているので、この数字はおそらく信用できるでしょう。

つまり、砦を造ろうかどうかという時点で、ガチの戦と同じような兵を出してきたわけですから、信長方は大ピンチ。
とはいえ、その程度でやりたいことを諦める信長ではありません。

急いで町人たちと足軽の人数を増やし、町人には竹槍を持たせて急ごしらえの兵に見せかけ、なんとか信安方をあしらうことに成功します。

「体裁を繕った」というとイメージが悪くなりますが、古い時代から「兵数を実際よりも多く見せる」というのは立派な戦術の一つですしね。

夜に篝火を増やすとか、わざと炊煙をあっちこっちで上げさせるとか、方法もいろいろあります。
武将の個性が見えるポイントとも言えるでしょう。

正眼寺の件が具体的に何月何日に起きたことなのかは書かれていませんが、次の話題が弘治二年(1556年)4月上旬のことなので、ほぼ同時期と思われます。

 

義元が抱える三河守護との会見に臨む

後半は、当時の東海道における勢力図がうかがえる話です。
今川義元の斡旋で、三河の守護・吉良義昭と、尾張守護・斯波義銀(よしかね)の会見が行うわれることになりました。

斯波義銀/wikipediaより引用

義昭は今川家に、義銀は信長のもとにいたので、要は「神輿(みこし)の見せあい」です。
もちろん、会見当日には義昭には義元が、義銀には信長が付き従いました。

と、ここで子供のケンカみたいないさかいが起きます。

当時すっかり権威が吹き飛んでいたとはいえ、吉良氏も斯波氏も足利氏の分流であり、家格が非常に高い家です。
実力がなくても、誇りだけは二人とも持っていました。

ついでにいうと、今川氏も吉良氏の分家にあたるので、やはり家格は高いといえます。
織田氏は彼らのようにハッキリとした出自ではなく、かなり格が下がる……というか、「どこの馬の骨だ」みたいな扱いでした。

後に尾張国外の敵と戦った際、各地の大名が信長を田舎者・軽輩とナメてかかる(そして負ける)のも、この「家格」の影響によるものです。
実力と家格が見合わない時代だということは、誰もがわかっていたはずなんですけどね。

 

席次で揉めに揉め

そのため、義昭と義銀の間で
「どちらが上座になるか」
「他の者の席次はどうするか」
という点で揉めに揉めたのです。

この言い争いはかなり深刻で、なんと会見当日までケリがつきませんでした。

会見は三河の上野原(愛知県豊田市)で行われることになっていたのですが、席次が決まらないと屋内でやるわけにもいかないわけで……。

そのため、互いの軍勢に陣を張らせ、それぞれがその前に床几(※)に座り、互いに10歩程度近寄って顔をチラッと見るだけで終わりという、なんとも締まらないものになってしまいました。
これでは会見というより、大げさな遠足ですね。

とはいえ、父の急死というやむを得ない事情で信長のもとに来た義銀が、この会見でいわば社交界デビューをしたことになります。

信長は義銀の権威を高めるためか、清州城を義銀に譲って、自分は北に移りました。
神輿の格が高ければ高いほど、自分が兵を出すときの口実にしやすいですからね。

体裁よりも実益を重んじる、信長らしい行動といえるでしょう。

こんなカタチで今川義元との接点があったのも興味深いですね。
普通は桶狭間の戦いだけで終わりのようにも思えてしまいますから。

なお、今川義元については以下の記事に詳細な人物伝がございます。

長月 七紀・記

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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link

 



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