人の生死を数で判断すべきではありません。
が、為政者にとってはそういう視点が必要になることもあります。災害や戦争などの非常時です。
現実的に「全員死ぬよりマシ」→「ならばより多く生き残れるように」という状況は起こりえますし、歴史的には幾度もそういう場面が繰り返されてきたでしょう。
今回は人類最悪のあの犯罪で、もしもそれが実現していたら……というお話です。
1924年(大正十三年)3月28日は、ソ連議会でユダヤ自治州の設置が可決したとされる日です。
20世紀でユダヤ人関連というと、やはりちょび髭ヒトラーの行ったアレコレが思い浮かびますが、その一方で他国においてユダヤ人に関する救済方策が試みられていました。
日本も独自に進めていたのです。
残念ながら「計画だけで終わったもの」「実行はしたものの効果が見込めなかったもの」ばかりですが……今回はそういったものをまとめて見てみましょう。
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・ソ連「ユダヤ自治州」
スターリンの方針で、ソ連領内のユダヤ人をまとめて移住させる計画が立てられていた時期がありました。
アムール川沿岸の中国との国境地帯にあり、ユダヤ人の文化を存続させるため、イディッシュ語の学校やコミュニティもあったといいます。
しかし、1930年代後半になってスターリンが方針を変え、ユダヤ人も大粛清の対象となり、文化だけでなく人命的にもユダヤ人は迫害されるようになりました。
現在ではユダヤ文化復活を期して、イディッシュ語版の新聞やラジオ番組が作られているそうですが、該当地域におけるユダヤ系人口は2%程度だそうです。
そりゃあ、ほとんどの人は大粛清から逃れるべく出ていったでしょうからね……。
・日本「河豚計画」
日独伊三国同盟を結んでドイツを手を組む一方、日本政府では「八紘一宇」=「すべての民族は兄弟である」という建前があり、ユダヤ人の迫害には反対でした。
そこで、満州国内にユダヤ人自治州を作ろうというのがこの「河豚計画」です。
計画名は「ユダヤ人の受け入れは益も大きいが、河豚の調理のように、一歩間違えば日本の破滅を招く」ことから来ているのだとか。
彼らは財産家も多く、日本の味方につけられれば大きな利益があると考えられたのです。
また、同時にアメリカのユダヤ系資本を誘致し、満州の開発をさせようとしていました。
「ユダヤ人の安全を保証する代わりに、公共事業を監視つきで請け負わせよう」というわけです。ここだけ聞けばwin-winといえなくも……ないですかね。
想定では1万8000~60万人規模の移住を見込み、インフラ整備などが行われていました。
居留地内では自治や教育・文化の自由を認めることで、ユダヤ人の好意を勝ち取ろうとしていたようです。
密かに監視することも考えられていましたが、まあそれは当時の日本国内でも似たようなものですしね……。
しかし、戦争が始まるとドイツの感情を損ねないことが重視され、大々的な動きにはなりませんでした。
満州国経由で南北アメリカ大陸に行こうとしたうち、ごく一部のユダヤ人が満州に留まりながら、当初の想定よりはずっと少ない数字に終わっています。
また、1933年にハルビンでユダヤ系ピアニストの殺害事件があり、このときの日本側の対応がユダヤ系の不信を招くようなものだったことも悪影響を与えました。
この事件によって満州から上海に移動した者も多かったそうです。
また、アメリカ政府に警戒されてしまったことも、頓挫の一因になったと考えられています。
ドイツからは、おぞましい実験や虐殺・強制労働計画が持ちかけられ、日本政府によって拒絶されました。
上海にゲットーを作ることは強いられましたが、ナチスドイツ勢力圏内のものに比べれば緩やかな規制だったようです。とはいえ、決して良い生活ではありませんでしたが。
こういう経緯があったから日本政府としては杉原千畝のことも暗黙の了解だったのかもしれません。
戦後の外務省の対応については……うん。
・英領ウガンダ計画
1903年にイギリスで持ち上がった計画です。
当時、帝政ロシアでユダヤ人迫害(ポグロム)が起こっており、そこから逃れてきたユダヤ人に対して、イギリスの持っていたアフリカ植民地の一部を提供しようというものでした。
しかし、ユダヤ人にとっては故郷であるパレスチナでの母国建国が最終目標だったため、物議を醸しています。
「母国建設までの応急措置」として賛成票が反対票を上回り、ウガンダ高原への視察まで行われます。
これは結局頓挫してしまいました。
ライオン他の危険動物が多いこと、現地住民であるマサイ族と白人たちとの確執など、複数の理由があったのです。
まぁ、マサイ族からすれば「白人が来たと思ったら、またわけのわからん奴らが俺たちの土地をかっさらおうとしてやがる! 許せん!」となるのは当たり前の話ですよね。
ウガンダは赤道直下ではあるものの、平均標高1,100mという高所のため、比較的気候は穏やかで過ごしやすいところなんだそうです。条件さえ揃えば、かなり住みやすいところなんでしょうね。
・マダガスカル計画
英領ウガンダ計画がボツになった後、ドイツで持ち上がった計画です。
実は、例のちょび髭がユダヤ人の強制移住先としてマダガスカル島を検討していた時期がありました。
意外ですかね。当初のちょび髭は「ユダヤ人の絶滅」ではなく「ヨーロッパから全てのユダヤ人を追い出す」ことを目標にしていたのです。
マダガスカル島は当時フランスの植民地であり、同国を傀儡化した後のドイツにとっては手駒みたいなものでした。
そのため、一時はマダガスカル計画のほうが本命とされていたようで、ワルシャワ・ゲットーの建設が一時中止になったほどです。
あまりイメージが湧きませんが、マダガスカル島は世界で四番目に大きな島で、実に日本の1.5倍ほどの面積があります。
強制移住とはいえ、マダガスカル計画が実行されていれば、収容所よりもマシな生活ができたでしょう。
もちろん、その場合もドイツの監視はついていたでしょうし、一気に人口が増えることで、諸々の問題は起きるでしょうけれども。
しかし、現実にはいくつかの誤算により実現しませんでした。
マダガスカル計画の実行は、「ドイツがイギリス侵攻を成功させ、イギリス海軍の船を接収すること」が前提だったからです。
つまり、イギリスの船をぶんどってユダヤ人の強制移住にあてようとしいう魂胆。
これがバトル・オブ・ブリテンでイギリスが制空権を保ち、ドイツが根負け状態になったことで、そもそも前提が崩れてしまったのです。
また、イギリス軍と自由フランス軍がマダガスカル島を奪取したことで、計画は完全に頓挫しています。
これらのうちのどれか一つでも実現していれば、ユダヤ人や彼らに与したとされる人々の犠牲は減っていたかもしれません。
IFをいえばキリがありませんが、現実があまりにも悲惨なのでそう思わざるをえず……。
長月 七紀・記
【参考】
ユダヤ自治州/wikipedia
満州国/wikipedia
英領ウガンダ計画/wikipedia
河豚計画/wikipedia