今回のお話は、時系列的には前回23話の直後。
【長良川の戦い】で斎藤道三が討たれ、信長が戦場から撤退する話が中心です。
端的に言えば、義龍が勝つワケですが、たまったもんじゃないのが道三救出に出向いた織田軍です。
周囲は敵だらけになってしまったのです。
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蘭丸の父・可成も膝下を斬られ
斎藤義龍は道三の首を含めた首実検を終えた後、織田信長が布陣している方角にも兵を向けました。
既に信長軍も戦闘を開始していたところに、義龍本隊が加わってより激化。
信長軍のうち数名が討死し、側近の森可成(よしなり)も、馬上で戦っているうちに膝下を斬られ、退かざるを得なくなります。
膝をやられると馬上で踏ん張っていられませんし、落馬して戦闘を続けていたら格好の的になって、そこから崩れるということも考えられる。
息子の森蘭丸があまりにも有名なので、父である可成は世間的な知名度が高くありませんが、彼は間違いなく信長軍の名将の一人です。また、森可成の次男・森長可(ながよし)も猛将として戦国ファンには知られていますね。
義龍に攻められ、織田軍が不利になりつつある中、ここで信長に「道三討死」の報が届きました。
助ける相手がいなくなってしまったのですから、援軍の意味も消滅。
もはや戦を続ける意味もありません。
そのため、信長はすぐに全軍撤退の指示を出しました。
「俺が殿(しんがり)を務める!」
難しいのはここからです。
いきり立った敵が目の前にいる――そして、今まさに戦闘真っ最中なのです。
敵に背を向ければ一斉に襲いかかられ、落命する危険性も高い。
しかも、布陣場所が川の近くであり、撤退するには非常に厳しい条件が整っておりました。
そこで信長ははどうしたか?
多くの将兵を逃がすため、なんと、自ら
「俺が殿(しんがり)を務める!」
と言い出し、自分を乗せた舟一艘だけを残して、全軍を撤退させたのです。
殿とは、軍が撤退するときに最後尾になる部隊のこと。
後備え(あとぞなえ)や殿軍(でんぐん)とも呼び、織田家においては後の「金ヶ崎の退き口」が非常に有名ですね。
金ヶ崎の退き口とは、織田・徳川連合軍が朝倉義景を攻めた時、背後にいた浅井長政に裏切られて撤退することになった敗戦で、このときの殿は豊臣秀吉や明智光秀が請け負いました。
あるいは関が原の戦いで有名な、島津義弘の「島津の退き口」も殿の変化形といえるでしょう。
敗戦での撤退は厳しく、その中での殿は、言わずもがな命を賭した役割。
それを大将の信長自らやるというのですから、にわかには信じがたいような決断です。
三国志の張飛じゃないんだから
「退き口」は、犠牲を減らすため、ごく少数の兵力で行われます。
大軍を相手に、時間を稼ぎつつ、できれば自らも死なないように敵を食い止めるのですから、並大抵の器ではこなせません。
しかしその分、やり遂げたときの恩賞や、世間からの評価は絶大となります。
自ら殿を引き受ける武将もおりますが、さすがに信長のような国主に近い立場の人が、自らやるケースはごく稀でした。
このとき「信長が殿を自らやった」という話はよく知られているのですが、「舟一艘で」という点はあまり話題になりません。
歴史上どころか、物語でもあまりないシーンでしょう。
似たような話ですと、三国志の張飛ですかね。
【長坂の戦い】で主君の劉備を逃がすために「橋の前で仁王立ちして曹操軍を足止めした」という話があります。まぁ、張飛は君主ではありませんが。
美形揃いと言われる織田弾正忠家の当主・信長。
しかもこのとき22歳の青年ですから、まるで絵画のような光景だったでしょう。
無事に撤退するも混乱は広がる
源平の頃ならともかく、いかに信長の姿が勇壮だったとしても、敵も味方も固唾をのんで見入るような時代ではありません。
当然、義龍軍は信長の首を取ろうと、騎馬で船へ殺到しました。
しかし、信長が馬に向かって鉄砲を撃たせたため、義龍軍は怯み、それ以上は追おうとしなかったとか。
それを見て信長は直ちに舟を漕がせ、無事に殿の役を終えました。
舟には信長と狙撃手数名、そして漕手がいたはずで、殿はやはりほんのわずかだったことになります。
船での撤退は計算のうちだったにしても、なんというクソ度胸でしょうか。
こうして、信長軍の撤退は無事に成功しましたが、混乱は広がっていきました。
信長が尾張平定に動くことができたのは「舅である道三が援軍に来ることもあり得る」というバックがあり、周囲への威圧ができたからです。
その大きな後ろ盾がなくなったため、またしても尾張の内部で不穏な動きが見られるようになりました。
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