大河ドラマ『豊臣兄弟』で注目される「金ヶ崎の退き口」。
波乱万丈だった織田信長の生涯で最も危険だったとされ、史実では元亀元年(1570年)4月26日から始まりました。
同盟相手の浅井長政に裏切られて絶体絶命の窮地に陥り、越前から京都まで命からがら逃げ出したのです。
金ヶ崎城を起点にした撤退戦だったことから【金ヶ崎の戦い】とか【金ヶ崎崩れ】などとも呼ばれたりしますね。
それは一体、どんな撤退戦だったのか?

金ヶ崎城址の麓にある金崎宮
さっそく振り返ってみましょう。
朝倉よ、京都にいるから挨拶に来いや
金ヶ崎の退き口は、織田信長の戦いの中でも一風変わった特徴を持っています。
一般的に信長というと、殺戮のイメージや桶狭間の戦いのように劇的な戦いを思い浮かべるかもしれませんが、この合戦は「退き口」という呼び名がついている通り「撤退するときの戦い」でした。

織田信長/wikipediaより引用
当時、信長は同盟相手の徳川家康と共に、北陸の朝倉家を攻めておりました。
朝倉家の当主・朝倉義景に「今はワシが室町幕府の守護者だから、京にあいさつに来い」という命令を出していたものの、義景が無視し続けていたからです。
大河ドラマ『麒麟がくる』では、ユースケ・サンタマリアさんが絶妙な演技をされていましたね。
にしても挨拶を無視しただけで戦争とは一体何事?
現代人ならそんな風に感じるかもしれませんが、要は攻める口実でしょう。
当初、織田軍は若狭の武藤友益を攻める予定で出陣し、途中から進路を東へ変えて越前へ侵攻したのです。

朝倉義景/wikipediaより引用
まさか浅井が裏切るなんて……
かくして朝倉家の北陸各所を攻め取ることにし、実際に攻略していった信長。
まず手筒山城を攻略すると、翌日からは金ヶ崎城、そして疋壇城(ひきだじょう)へ。
その先、木ノ芽峠を越えれば朝倉氏の本拠地……と、ここで事態は一変します。
妹・お市の方の嫁ぎ先であり、北近江を治めていた浅井家(浅井長政)が、突如、織田家を裏切って挟み撃ち攻撃を仕掛けているという報告が入ったのです。

浅井長政/wikipediaより引用
実は、信長はお市の方を長政に嫁がせる際、「婿殿のお付き合い先である朝倉家には攻めこまない」という約束をしていともされます。
そもそも浅井家では長政長男の浅井万福丸を一乗谷へ人質として送っており、その屋敷もありました。
浅井氏は北近江の戦国大名というより強力な国衆というような立ち位置でもあり、実質、朝倉の傘下にあると考えた方が自然。
つまり先に約束を破ったのは信長となります。
そのため、浅井家の当主・長政は「妻の実家をとるか、朝倉をとるか」という板挟みになっていました。
長政個人としてどう思っていたかはわかりませんが、家臣たちや父親の久政は「先に約束を破ったのは信長のほうなんだから、こうなった以上戦うべき!!」という意見。
長政はこれを抑えきれず、背後から信長を攻めることにしたのです。
お市が小豆袋を送った逸話は作り話
信長は当初、「浅井家裏切り」の報を信じませんでした。
信長自身が浅井家との同盟を喜び、当時、婿方が負担することになっていた結婚費用を織田家のほうが払っていたくらいでした。
「これだけ礼を尽くしたのだから、浅井家は織田家の見方である」と思っていたのです。
しかし、長政は朝倉家を選びました。
長政が、信長ではなく朝倉を選んだ理由については、以下の記事に考察がございますのでよろしければ後ほどご覧ください。
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信長が浅井長政に裏切られた理由がスッキリわかる|近江の複雑な国家運営に注目
続きを見る
最初は信じなかったものの、度重なる報告により誤報である可能性がなくなったと判断した信長は、完全に包囲される前に北陸から撤退することを決めます。
このときの俗説として「お市の方が両端を縛った小豆袋を送り、”織田家は袋のネズミである”ということを暗に伝えた」という話もありますね。

お市の方/wikipediaより引用
信長の事績を詳細に記した『信長公記』(著:太田牛一)では一切触れられておらず、『朝倉家記』などでの後世の創作と考えられています。
「お市の輿入れに際して付けられた織田家の家臣が、信長へ直接連絡を送ったのではないか?」
そんな見方もありますが、長政が信長との敵対を決めた以上、街道も監視され、そう容易く連絡は取れなかったと『豊臣兄弟』の時代考証・黒田基樹氏が指摘されています。
いずれにせよ、こうした経緯で信長は撤退を選び、朝倉家はそれを追撃となったわけです。
殿を務めたのは秀吉に光秀などで家康は?
結果から言えば、信長は助かりました。
無事に京都へ戻れます。でないと本能寺の変までの諸々が起きなくなってしまいますしね。
それよりも、この戦の見どころは結果よりも経緯。
信長が安全圏に逃げるまで、織田家の名だたる諸将がそれぞれ違った点で大活躍しているのです。
まず挙げられるのは、豊臣秀吉や明智光秀、池田勝正たちが務めた殿(しんがり)の功績でしょう。
殿とは、撤退戦のときに最後尾を請け負い、敵の追手を食い止めたり振り切ったりする部隊のことです。
戦場においては最も危険な任務とも言え、例えば長島一向一揆のときには美濃三人衆の一人である氏家卜全が一揆衆の攻撃を受けて犠牲になっています。
そんな危険な役割を秀吉自ら願い出るとは――講談などでは秀吉が自ら殿を願い出たという話もありますが、実際には信長が命じていたようです。
また、明智光秀や蜂須賀正勝などもこのとき殿を務めたとされています。

明智光秀(左)と豊臣秀吉/wikipediaより引用
殿は大将の命を預かる大切な役目といっても過言ではありませんから、普段の接しようはどうあれ、信長が光秀を信頼していたこともわかりますね。
徳川家康もここにいたという説がありますけれども、配下ではなく同盟相手だった徳川家がそこまでするか?というと疑問が残るところです。
まして、普段から信長は家康に対して別格な扱いをしていますし、大名が生き残ることの意味も十分理解しています。
家康が申し出たとしても、気持ちだけ受け取って別ルートで逃げさせた、という方が自然ではないでしょうか。
まぁ大河ドラマだと家康の見せ場にもなり、秀吉らと共に撤退戦を映した方が面白くはなりますよね。
本来であれば池田勝正が3千の兵で殿(しんがり)を請け負ったとされていますので、最も重要だったのは勝正なのですが……。
久秀の説得
一方、信長自身は10人ほどのごくわずかな供を連れ、一路、京都(経由して岐阜城)を目指しました。
問題は、途中、朽木元綱という武将の勢力圏を通らなければならないことです。
朽木家もまた浅井家と浅からぬ縁がある家でしたので、場合によっては信長を捕まえて浅井家に差し出すこともありえます。
どうしたものか……と迷う信長を、意外な人物が救ったという話もあります。
戦国の梟雄として知られる松永久秀です。

2020年3月に高槻市の市立しろあと歴史館が発表した松永久秀の肖像画/wikipediaより引用
『麒麟がくる』で吉田鋼太郎さん、『豊臣兄弟』では竹中直人さんが演じ、俄然注目度の高まっている武将ですね。
久秀は「朽木を説得して、穏便に通れるよう図らいましょう」と申し出ました。
織田家の総力が結集
久秀はこの時点でも油断ならない人物として認識されていましたが、弁が立つのもまた事実。
信長は思い切って、久秀に交渉を任せます。
どうやって元綱を説得したのかまでは記録にありませんが、結果として久秀の交渉は成功し、信長一行は無事岐阜へ落ち延びることができました。
つまり、金ヶ崎の退き口は、
「戦闘以外の面でも織田家が総力を結集した」
出来事だった言えるでしょう。
ただの運やなりゆき、といえばそれまでですけれども、隠れたオールスター戦と見ることもできるのではないでしょうか。
【長篠の戦い】や【本能寺の変】ほどのインパクトはありません。
しかし個人的には「信長について映像・小説などの創作をするのであれば、ぜひ気合を入れて作っていただきたいシーンだな」と思います。
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【参考文献】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)






