永禄3年(1560年)5月19日、まだ若い織田信長が、大大名の今川義元を討ち取る――そんな世紀の番狂わせ【桶狭間の戦い】が起こりました。
もはや説明が不要なほど、有名なこの合戦。
詳細についてはナゾが多く、今なお研究が進められていますが、本記事では『信長公記』の記述をベースに戦いの流れを振り返ってみたいと思います。
いずれの説にしても『信長公記』の描写を参考にしているケースが多く、無視しては通れないからです。
では、早速、見て参りましょう。
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今川軍2.5~4.5万 vs 織田軍3~5千
桶狭間の戦いとは、どんな戦いだったか――。
兵力だけ見れば
◆今川軍2.5~4.5万
◆織田軍3~5千
と、いずれの説を見ても圧倒的に織田が不利です。
そのため従来は、義元に気づかれずに進軍した織田軍が、突如、襲いかかって勝利した【奇襲説】が主流でした。

今川義元に襲いかかる毛利新助と服部小平太(作:歌川豊宣)/wikipediaより引用
そうでないと数字上の釣り合いが取れないからです。
しかし、その後は「割とガチでぶつかったんでは?」という正面攻撃説なども有力になってきます。
合戦は単純な数字で測れない――。
確かにその通りで、信長と一緒に今川へ突撃した兵のクオリティ(強さ)と同時に、大軍だった今川軍の構成メンバーも考慮せねばなりません。
今川軍は数万といえども雑兵・足軽の類が多く含まれております。
一方、信長が率いた織田軍は数が少なくても精鋭揃い。
信長には、何時でも何処へでも連れていける馬廻衆が当時700~800名いたと目され、実際、国内での戦闘を繰り返していました。
父の織田信秀が亡くなってからの織田家はバラバラで、身内争いに翻弄されていたからです。

織田信秀/wikipediaより引用
そうした戦いで活躍した馬廻衆のメンバーは、武家の次男・三男以下で構成されています。
要は、戦闘に特化した戦いのエリートたちであり、相手が今川の雑兵であれば正面から突き崩すことは不可能ではないでしょう。
特に織田家では
といったメンバーがいて、この二人は大河ドラマ『麒麟がくる』でも信長に「精強な武士」として紹介されておりましたね。
「背後を襲った」とは書かれていない
鍛え抜かれた武士がどれほど強かったのか。
例えば、馬に乗っていただけでも戦闘力がケタ外れになります。
かつて「日本の馬は小さくて重さに耐えられないから戦場で走り回るの無理、武士は降りて戦う」といった見方なども語られたりしましたが、史料から騎馬で突撃したことは間違い無さそうです。
実際に日本の在来種・木曽馬を走らせた様子を見ると、その凄まじさがご理解いただけるでしょう。
例えば以下の動画がそうです。
「蘇った騎馬武者」
普段はおっとりの木曽馬。
しかし!
本気出したらスゴい!!
甲冑を身に纏った総重量90㎏の武者を乗せて約時速40㎞で突撃!
正に侍の馬武者の鎧がバタバタしてないのに注目!
上半身が揺れないのが和式馬術特有の騎乗方法です。ドン引きの迫力ですね。#紅葉台木曽馬牧場 pic.twitter.com/vahwDkvXnO
— 甲冑装束騎乗会 (@in20876533) May 26, 2020
このような迫力で突撃されたら、半農の兵士などひとたまりもない。
だからこそ信長は、常日頃から馬と水泳の訓練を欠かさなかったと言います。
親衛隊である馬廻衆も同様だったはずで、いざというときには躊躇せず突撃したはず。
実は『信長公記』でも、方角や位置関係については曖昧ながら、
「背後を襲った」
というような奇襲的な表現は記されておりません。
進軍ルートも複数の説があり、ここでは『信長公記』の記述にそって話を進めていきます。
まずは当日のドンパチが始まるまでの下準備から見ておきましょう。
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