佐々成政

佐々成政/wikipediaより引用

織田家

反骨の戦国武将・佐々成政53年の生涯~信長の側近から大名となり秀吉に潰される

100万石もの家あれば、歴史の彼方に葬り去られる一族もある――。

武士の浮き沈みがハッキリ分かれた戦国時代。

中でも反骨の気魄を見せながら、天正16年(1588年)閏5月14日に散ったのが佐々成政です。

徳川家康の決定に異を唱えるため、あの時代に【真冬の飛騨山脈越え(さらさら越え)】という、自殺行為なエピソードが残されていたり。

秀吉に対抗する武将としてフィクションでも度々取り上げられたり。

激情型のエピソードで何かと目立つタイプですが、いったい史実の佐々成政とはどんな人物だったのか?

その生涯を振り返ってみましょう。

佐々成政/wikipediaより引用

 


佐々成政の出自は不明 父の代から織田家に仕え

佐々成政の生年は、正確な年月日は残されておらず、天文五年〜八年(1536〜1539年)頃と考えられています。

1534年生まれの信長より少し下の世代ですね。

他の戦国武将の多くと同様、祖先について詳しいことはわかっていません。

ただ、少なくとも父の代から織田家に仕えていたのは確かなようで。

稲生の戦い(1556年)】や【桶狭間の戦い(1560年)】など、信長が若い頃の戦にも、佐々成政は兄二人と共に参加したとされています。

しかし、これらの戦で兄たちが相次いで戦死したため、永禄三年(1560年)に佐々成政が家督を継ぎ、比良城主となりました。

その後は信長vs斎藤龍興の【森部の戦い】などで戦功を挙げるなど、織田家の成長と共に出世を果たし、永禄十年(1567年)には黒母衣衆くろほろしゅうの一員にもなっています。

織田信長/wikipediaより引用

 


信長側近「黒母衣衆」だった

「母衣衆」というのは、この場合、信長直属の使番のことです。

佐々成政が所属していた黒母衣衆と、前田利家などが務めていた赤母衣衆がありました。

この二つの部隊、正式な立場はほぼ同格でした。

しかし実際は、黒母衣衆のほうが年長者が多く、心情的にはこちらのほうが上に見られていたようです。

他の織田家家臣が「黒母衣衆の人たちは覚えてるけど、赤母衣衆のほうは誰がいたんだかよくわからない」などと述べたこともありました。

まぁ、単に、その人にとっての印象の差かもしれませんが……。

母衣(ほろ)というのは古くからある武具の一つで、鎧の背中側に幅の広い布をつけ、風でふくらませるものです。

母衣のイメージ(室町時代以降は布を広げるための骨組みも作られた)

背後からの弓や投石による攻撃を防いでいました。

戦国時代には赤や黄色など、目立つ色の母衣が好まれるようになり、それ故に使番の装備として定着したのです。

そういう大事な役目に抜擢されたということは、信長の信頼が厚かったということにもなりますし、成政も日頃から主君をリスペクトして付き従っていたことが窺えますね。

 


織田家の主要な合戦で活躍

永禄十一年(1568年)。

信長は足利義昭を室町幕府の将軍にするために上洛しました。

その頃から佐々成政も、自分の部隊を率いるようになっていきます。

1551年に家督を継いだ信長は、尾張一国を治め、隣国美濃を奪うまで約17年もの月日を要しました。

上洛後も、周囲の警戒心が強まったようで、合戦に継ぐ合戦の日々。

特に足利義昭が信長に反旗を翻し、織田家が四面楚歌になってからは、佐々成政も戦地へ駆り出される日常を送ります。

足利義昭/wikipediaより引用

以下のように、信長の主要な戦に参加し続けました。

特に鉄砲隊をうまく指揮したといわれていて、長篠の戦いでは鉄砲奉行という役を任されています。

この時代、”奉行”というのは”隊長”と似たような意味です。

佐々成政ら屈強な家臣団の活躍だけでなく、信長の強運もあってか。

1573年に武田信玄が没すると、四面楚歌だった織田家の周辺もようやく落ち着き、1575年【長篠の戦い】で武田勝頼を完膚なきまでに叩きのめすと、織田家はいよいよ他国への本格的侵攻を進めて参ります。

成政もご多分に漏れず、天正三年(1575年)9月から、北陸方面の責任者となった柴田勝家の目付役として、越前に赴任することとなりました。

成政が北陸に縁が深いのもこうした経緯からでした。

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