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【佐々成政】
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埋蔵金伝説も! さらさら越えの真実は?
成政は体制を立て直すべく、空いていた鳥越城(河北郡)に入って守りの体制に入りました。
しかし、彼が再び攻勢に出る前、織田信雄が秀吉と和睦を結んでしまったことで、またもや状況が急変します。
この戦い、家康にとっては「信長の息子である信雄を支える」という大義名分で成り立っていました。
よりにもよって信雄が秀吉と和睦してしまっては、戦の前提がなくなってしまうのです。

織田信雄/wikipediaより引用
信雄に協力する形で参戦していた家康も引かざるを得なくなり、成政を始めとした他の武将たちも同様。
佐々成政は抗戦を続けるべく、真冬の飛騨山脈などを越え、浜松まで自ら出向いて家康に協力を訴えました。
しかし、にべもなく断られてしまいます。
【さらさら越え】と呼ばれる有名なエピソードですので、ご存知の方も多いでしょうか。
新暦における1月下旬、寒さと雪の厳しさが最もキツいときに、標高2,000〜3,000mの北アルプスを越えてまで家康に会いに行った――という、にわかには信じがたい話です。
※黄色の地点から出発して、紫色の2箇所を通過、赤色の浜松城へ着き、家康に直訴した
近年では、
「当時50歳前後だったはずの佐々が、現代の装備でも厳しいこのルートを、厳冬期に超えられたとは考えにくい」
などの理由で、別ルートを通った説も出てきていますね。
例えば、
「佐々成政らが通ったのは標高2342mのザラ峠ではなく、もう少し南で標高も低い安房峠(1790m)ではないか?」
というものです。
行きと帰りで別のルートを使ったのでは? という意見もあるようです。
まぁ、それでも十分に半端ない根性だとは思いますが。
また「佐々成政は家康の説得がうまく行ったときのために、途中で軍資金を隠していた」という【埋蔵金伝説】もあります。
これは同じく北アルプスの鍬崎山(2089m)付近の集落に、「佐々成政が隠した埋蔵金のありかを示している」とされる里歌が伝わっているからです。
朝日さす 夕日輝く鍬崎に 七つむすび 七つむすび 黄金いっぱい光り輝く
というものだそうですが……。
【七つむすび 七つむすび】の部分以外はただの風景描写とも取れますし、朝日と夕日が一緒に出てくるあたりに違和感といいますか、暗号めいたものを感じることもできますね。
軍資金という大切なもののヒントを、部下でも家族でもなくただの村人に託した――ってのは少々現実味が薄れるような気がします。
埋蔵金についてはさておき【佐々成政が自ら家康に会いに行って説得しようとし、失敗したこと】は事実かと思われます。
成政はこの後も諦めず、しばらくの間は秀吉に反抗的な態度を取り続けていました。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
秀吉御自ら富山城へ
織田家の跡継ぎを封じ込め、徳川家康とも手打ち(実質勝利)をした豊臣秀吉。
次なる天下人のポジションをほぼ手中に収めたと言ってもいいでしょう。
そんな秀吉に対して、いつまでも反抗的な態度を取る佐々成政は、次なる粛清の対象とされてしまいます。

長宗我部元親/wikipediaより引用
天正十三年(1585年)8月、自ら進んで佐々成政の富山城を攻め始めます。
富山城は、近くを流れる神通川の水を利用した、「浮城」と呼ばれる防御力の高い拠点だったため、秀吉も力で攻めきろうとは思わなかったようです。
秀吉軍が富山城近辺で野営していたときに台風が直撃しており、荒天による将兵や物資のさらなる損失を懸念したのかもしれません。
この時点では、まだ九州征伐も残っていますから、成政一人の攻略で多くの時間や人員、物資をかけるわけにもいかなかったでしょう。
一方の佐々成政にしても、立てこもるだけではいずれ攻略されることを悟り、攻城開始から7日後に降伏を申し出ています。
剃髪して僧衣をまとい、初めて恭順の意を示したとも。
それでも当初の秀吉は、成政を処刑しようとしていたそうです。
幸い、織田信雄が口添えをしてくれて、一命は助けられました。
もともと信雄に裏切られたようなものなんですけどね。まぁ、本能寺直後の混乱期ですからしゃあないっすな。
肥後国人一揆
佐々成政の領地は越中東部の新川郡以外を没収とされ、妻子と共に大坂へ住まわされました。
大坂では、御伽衆の一員になっております。エライ人の話し相手になる人のことです。
秀吉は元大名や信長の家臣&弟などを降した後、よくこの役職に据えていました。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
御伽衆には商人や茶人などもいたため、その方面に興味がある人にとっては、良い職場だったかもしれません。
が、成政のような生粋の武将だと、合う・合わないが激しかったでしょうね。
佐々成政が詠んだとされる歌もいくつか残っているので、そういった話題で慰められていたら良いのですが。
また、成政は家臣の武辺話を聞くのが好きだったそうですから、似たような境遇の武将と友情が生まれていたかもしれません。
天正十五年(1587年)、九州征伐の頃には許され、武将として参加。
このときの功績で肥後の大部分を与えられ、佐々成政は大名に復帰しました。
九州は全体的に地元国人衆の勢力が強いため、秀吉は統治にあたり、佐々成政にいくつかの条件をつけたとされています。
・国人の領地はそのままにすること
・三年間は検地をしないこと
・一揆防止に努めること
内容だけ見れば、一瞬「マトモな内容では?」と思ってしまうかもしれません。
しかし、成政の立場にしてみれば、たまったもんじゃありません。
多くの家臣を連れて行くわけですから、彼らに十分な禄を与えるためにも検地をしなければ割り振りができないのです。
そこで検地を強行した結果、国人の強い反発を受け、一揆が起きてしまいます。
【肥後国人一揆】の始まりでした。
最期は法園寺で切腹
佐々成政はこれを力尽くで抑え込もうとしました。
しかし、かなりの苦戦を強いられ、結局、近隣の小早川隆景(筑前)や立花宗茂(筑後)らの援軍でようやく鎮圧に至ります。

絵・小久ヒロ
秀吉は激怒です。
このときは毛利家の僧侶・安国寺恵瓊が助命を願い出るのですが、結局、許されず、佐々成政は天正十六年(1588年)閏5月、法園寺(尼崎市)で切腹させられました。
享年53。
※1536年生まれとした場合
辞世は次の通り。
この頃の 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今破るなり
鉄鉢には二つの意味があります。
一つは、僧侶が托鉢に使うための鉄製の鉢です。
もう一つは、兜の頭を覆う部分の飾りで、鉄製です。
戦国期の武将であり、一度は出家している佐々成政ですから、どちらの意味でも間違いではなさそうですね。
「この頃の厄妄想」というのは、近くは肥後国人一揆に関する不運や不始末、長くみれば本能寺の変以降の不遇などでしょうか。
正解は成政の胸の内でしょうけれども、無念さがうかがえる辞世です。
なお、佐々成政の肥後統治失敗については、近年、2つの見方が出てきております。
・最初から秀吉は成政が失敗するのを見越していて、それを口実に成政を始末するつもりだった
・秀吉はこのとき既に朝鮮出兵を視野に入れていて、成政の能力を信用し、兵站となりうる肥後を任せようとした
他、本能寺の変が起きた際の動きや、さらさら越えの真偽及びルート、側室・早百合(さゆり)伝説など、今後の研究でひっくり返りそうなところが多々ある武将です。
できれば、好ましい部分が多く見えてくると良いですね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
花ケ前盛明『佐々成政のすべて』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
佐々成政/wikipedia