長宗我部元親

長宗我部元親/wikipediaより引用

長宗我部家

土佐の戦国大名・長宗我部元親の生涯~四国統一を成し遂げながら失意の中で死す

1599年7月11日(慶長4年5月19日)は長宗我部元親の命日である。

家督を継いだときは土佐国の中の一領主に過ぎなかったこの元親は、わずか一代で四国全土をほぼ統一。

その功績、毛利元就武田信玄と並べたくなるほどだが、後世においてその名はそれほど轟いていないように見受けられる。

一体なぜなのか?理由を考察してみると……。

四国をほぼ統一しながら、信長と秀吉に屈してしまう中途半端な展開。

島津軍との不本意な戦いで嫡男の長宗我部信親を喪い、その後、自身が抜け殻のようになり、暗君のような振る舞いを重ねたこと。

そして失意のうちに亡くなり、大名として長宗我部家を残せなかったことも影響しているのであろう。

実力はありながら悲運が重なってきたとしか言いようがないが、言い換えれば非常に人間臭く、得も言われぬ魅力があるのも確か。

本記事で、長宗我部元親の生涯を振り返ってみよう。

長宗我部元親/wikipediaより引用

 


ルーツは大陸からの渡来人 姓は「秦(はた)」

長宗我部元親を輩出した長宗我部家は、もともと土佐国人の一勢力であった。

ルーツは大陸から日本に渡ってきた渡来人であり、姓を「秦(はた)」とするのが通説である。

秦氏の遠祖は秦の始皇帝とも言われ、元親は公文書において「長宗我部宮内少輔秦元親」と記しており、元親以外の長宗我部一族も代々「秦」を名乗っていた。

「長宗我部氏系図」の初代は秦能俊(はた よしとし)である。

大正時代に編纂された『更級郡記』には、1156年保元の乱崇徳上皇側についた秦能俊が敗戦後、当時の拠点であった信濃を去り、土佐の「長岡郡曾我部」に隠れ、これが長曾我部(長宗我部)氏の祖となったと記述されている。

江戸前期に長宗我部の元家臣が書いた『元親記』には

「秦能俊が土佐の国司となり、土佐に三千貫を拝領する綸旨を受けて盃を賜った」

とある。

秦能俊が天皇より頂いた盃には「酢漿草(かたばみ)」の葉が一つ浮かんでおり、秦能俊はそれを飲み干し、以降その酢漿草を長宗我部家の紋としたとの伝承があり、「七酢漿草(ななつかたばみ)」が代表的な家紋となった。

七酢漿草は軍旗としても用いられている。

長宗我部氏家紋「七つ酢漿草」/photo by 百楽兎 wikipediaより引用

 


土佐に広がる7つの勢力で最弱だった

時は過ぎ、元親の曾祖父にあたる18代長宗我部雄親(かつちか)の時代。

このころ土佐には7つの勢力がひしめいていた。

・長宗我部(長岡郡)

・本山氏(長岡郡)

・津野氏(高岡郡)

・大平氏(高岡郡)

・安芸氏(安芸郡)

・吉良氏(吾川郡)

・一条氏(幡多郡)

彼らを「土佐七雄」と呼び国内の勢力を分かち合っていたが、家格・勢力には大きなバラつきがあった。

圧倒的なのは、京都から下向した元五摂家(藤原氏)の一条氏で、国力は一万六千貫(一貫は約2石)。

その他の勢力が4~5千貫の領地である中、長宗我部は最弱の3千貫であった。

元親の祖父にあたる19代長宗我部兼序(かねつぐ)は、一条氏や中央政権の細川氏と懇意にしていたが、これが土佐の他豪族から反感を買う。

永正五年(1508年)には、本山氏をはじめとした諸豪族の連合軍に岡豊城(おこうじょう)を落とされ、すべての領地を奪われてしまった。

このとき連合軍3000人に対し長宗我部軍は5~600人ゆえにやむを得ない敗戦。

兼序は自害し、長宗我部家はいったん滅亡するが(生き延びた説もあり)、嫡男の千雄丸(後の長宗我部国親)は一条氏を頼って幡多郡中村へと逃れ、10年後に同氏の仲介で城と旧領を回復した。

城と領地を取り戻すも、10年の歳月は長く、長宗我部家の旧臣の中には他家に仕えている者もあった。

せっかく家を復活させることができたのに、少ない家臣では諸豪族と戦う事はできない。

そこで国親は、経済基盤作りと兵力の増強に着手し、農民の中から見所のあるものを武士として登用し家臣団を再編していくことにした。

これが、土佐独自の軍事システム【一領具足】の基礎となった。

一領具足とは、平時は農民として生活し、領主から招集がかかると素早く馳せ参じられるよう、一領(ひとそろい)の具足(鎧・刀)を田畑に置いて農作業をしていたことから呼称されたと伝わる。

 


内気でひきこもりの「姫若子」と呼ばれ

大永二年(1522年)。

長宗我部国親が19歳で正室を娶ると、2年後に長女が生まれた。

その後なかなか子が出来ず、天文八年(1539年)になってようやく誕生したのが嫡男の長宗我部元親である。

幼名は弥三郎と称し、長らく待っていた待望の跡継ぎ。

これが幼い頃は、あまり期待の出来ない人物だと評されていた。

江戸中期に記された軍記物『土佐物語』(長宗我部家の興亡を描く)に、幼いころの記述がある。

「元親は背が高く色白で、器量は良いが、必要なこと以外はほとんど喋らない。人にあっても会釈をせず、いつも屋敷の奥に引きこもっている」

戦国大名の子に相応しくないとして「姫若子(ひめわこ)」と揶揄され嘲笑の的だったのである。

父親も「嫡男がこんな有様では当家も終わりだ」と深く嘆いていた。

なんせ岡豊に戻った国親は孤立無援であった。

そこで、まずは岡豊から半里の近郊にあった吉田城の吉田周孝(たかちか)と同盟を締結。

周孝は国親の叔母の婿にあたる人物で、国親より年長かつ策士であり、相談しやすい人物であった。

国親は周孝の進言に従い、善政を敷き国力を高め、時節を待った。

そして天文12年(1543年)から、近隣への侵攻に着手する。

天文13年(1544年)、土佐の安定を考えた一条氏の勧めで仇敵・本山家に長女を嫁がせると、天文16年(1547年)には天竺氏の大津城(高知県・高知市)を落とし、その勢いで介良(高知市)、下田、十市(南国市)、池(高知市)の各城を攻略した。

十市・池城攻略の際は、最終的に自分の娘を十市城主・細川宗桃(そうとう)の嫡男であり、池城城主であった細川頼定に嫁がせ傘下に入れている。

土佐中央部を手中に収めた国親の勢いは止まらない。

弘治2年(1556年)、本山氏の支城に対して攻撃を開始。

弘治四年(1558年)には、弱体化した香宗我部家に三男・親泰を養子に出し、自陣営への取り込みに成功した。

このあたりは毛利元就が息子を吉川家、小早川家に養子に出し家を乗っ取った方法に似ていおり、国親の手腕のほどが窺える。

香宗我部親泰は、後に兄である元親をよく助け、四国統一に大きく貢献する名将であった。

 

「長浜の戦い」初陣で評価が一変!

天文24年(1555年)に本山茂宗が死去すると、国親は同氏への攻勢を強める。

これに対し、跡を継いだ本山茂辰(しげとき)は長宗我部の兵糧を配下の住民に略奪させるなどして、一気に高まる両者の緊張。

先に破ったのは国親だった。

略奪の報復として本山氏配下の長浜城を攻撃し、これを陥落させる。

一方の本山茂辰も、長浜城奪還のため2,500の兵を率いて出陣し、長宗我部勢は1,000の兵力でこれを受けることとなった。

両軍は永禄3年(1560年)5月27日、長浜戸の本で激突!

長宗我部と本山の命運をかけたこの戦いは、同時に元親の初陣でもあった。

数えで23歳という、かなり遅い初陣である。

しかも戦いを前にして、家臣に「槍の使い方を聞く有様」で周囲を大いに不安にしたが、いざ合戦がはじまると元親は突如「姫」ではなく「鬼」に変貌するのであった。

『土佐物語』(訳は後述)

覚世の子息弥三郎元親十八歳、今日初陣成りけるが、いかがしてか味方を離れ、戸の本の西の方に、廿騎計にて控へ給ふ。吉良の士是を見て、願ふ所の幸なりと、大窪美作・其子勘十郎・吉良民部・宇賀平兵衛・長越前・河村四郎左右衛門を始めとして、五十騎計に驀直に打つて掛る。元親少しも疑議せず、鑓取て近付き、敵三騎、弓手馬手に突伏せ、大声を挙げて、「昨日までも互いに肩をならべ膝を交せし同僚ぞかし。爰に引退きて、何の面目有りて再び人に面を合わすべき。夫武士は、命より名こそ惜しけれ。一足も引くべからず」と駆出で出で下知し給へば、元よりはやりをの若者共、此詞に励まされ、黒煙を立てゝぞ打合ける。

簡単に訳せば、こんな感じだ。

「元親は何故か味方の部隊から離れて二十騎ほどで控えていた。

これを見た本山軍はチャンスとばかりに五十騎ほどで討ってかかった。

しかし元親は、これを少しも恐れず、槍を取って敵三騎を突き伏せ、味方を激励した」

人気の戦国漫画『センゴク』でも、元親は何だか不思議な人物として描かれていたが、いざ合戦となるや鬼神の働きを見せ、姫若子が「鬼若子(おにわこ)」となっていた。

この【長浜の戦い】は数の上で劣勢だった長宗我部が勝利し、本山茂辰は浦戸城へと逃げ込んだ。

『元親記』にも、元親が五十騎ほどを指揮して乱戦の中を突き抜け、劣勢だった長宗我部の軍を形勢逆転させたとある。

突然の息子の活躍を見て、国親は頼もしく思ったことだろう。

ここから親子で土佐統一へ……と簡単にはいかない。

本山軍を打ち払い、本拠地に引き上げた国親はそのまま病床につき20日ほどで死去してしまったのである。享年57。

死に際して国親は元親にこう伝えた。

「私は父の敵である本山を討つことを本望としてきた。

だから本山を討つ以外に私への供養はない。

私が死んだら世の習いなので7日は喪にふせ、それが過ぎたのなら喪服を脱ぎ甲冑に替え軍議を行え」

姫から鬼へと変貌を遂げた息子に、全てを託す価値があると安心したことだろう。

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