大河ドラマ『光る君へ』では陰陽師の安倍晴明が活躍し、同じく大河『鎌倉殿の13人』では破戒僧・文覚や、頼朝の弟・阿野全成の祈祷が注目されていました。
では戦国時代は?
合戦前に寺社へお祈りに行く――そんなシーンはドラマや映画でもお馴染みですよね。
そうした寺社で吉凶を占うのは、兵士たちを鼓舞するためでしょう。
「我々には神がついている!」
主君が自信満々にそう叫べば、なんとなくその気になるのもわかりますが……それでも実際、占いはどこまで有効的だったのか? どんな戦国大名や戦国武将が占いを信じていたのか? と疑問も湧いてきます。
ここでは織田信長・朝倉孝景・豊臣秀吉・徳川家康がどんな風に利用していたか。その実例を見て参りましょう。
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否定派代表はやっぱりこの方
ルイス・フロイスにきっぱり「占いや迷信を信じない」と書かれている織田信長が占い否定派の代表格といえるでしょう。

織田信長/wikipediaより引用
しかし、ここでフロイスの示す「迷信」とは「キリスト教にそぐわない風習全般」という可能性もあります。
信長は、神仏を信じる人のことやまともな聖職者・寺社についてはその活動や思想などを否定していないんですね。
なぜ武将たちは占いを好んだか?
当時は五行思想や吉方位・凶方位などによって「戦を始めるのに適した日がある」という考え方がありました。
五行思想とは「万物は火・水・木・金・土の5種類の元素から成り立っており、互いに優劣関係や均衡がある」という中国由来の考え方ですね。
以下のように
・木が燃えることによって土が生まれ
・その土の中から金(鉱石)が作られ
・金が地表に出てくれば表面に水がたまり
・その水が新たな木を育てる
自然の循環から来たものとされます。
このように良い循環が生まれる関係を”相生(そうじょう)”といい、好ましい・相性が良いとみなされています。
一方、逆の考え方もあります。
・水が火を消し
・木が土の養分を吸い上げ
・土によって水が濁る
・金(金属でできた刃物)が木を切り倒す
・火が金(金属)を溶かす
このように相手を滅ぼす関係を”相剋(そうこく)”と呼んで縁起が悪いとみなします。
戦においては敵を滅ぼすことが目的なので、敵に対して相剋となることが望ましいわけです。
そのため、占いによって
・味方の大将と敵の大将が五行のどれに当てはまるかを調べ
・相剋の状況を作れるような日取りを選んで攻め込むべき
という考えがありました。
「戦国武将が合戦前に占いをさせた」とか「当時の軍師は呪術師・占い師だ」と言われるのは、こういう戦略の立て方があったからなんですね。
一応、理論で決めていて、気分とか当てずっぽうではありません。
戦国時代には、これを「気にしすぎじゃないの?」と切り捨てる考えの人も次第に出てくるようになりました。
盲信を戒めた朝倉孝景
占い否定派、もう一人の代表が朝倉孝景ですね。

朝倉孝景/wikipediaより引用
彼の家訓である『朝倉孝景条々』にはこうあります。
・勝てるような戦や攻めきれる城攻めのときに、吉日や方角を調べることに手間取って好機を逃すのは惜しい
・いかに吉日でも荒天の日に船を出したり、勢いのある相手に小勢で挑んだりしてはならない
いやはや、その通りですね。
眼の前に弱っている敵がいた場合、吉日なんて探している場合ではありません。
逆に、占いの結果が良かったり、吉日だからって、無茶ばかりしたら簡単に滅亡してしまうでしょう。
孝景は以下のような一文も記しており、
占いで悪い状況だとしても、八幡神や摩利支天に祈り軍を励ませば勝利を掴むこともできるだろう
人々が信じている神仏の存在までは否定しておりません。
占いと信仰心は別物――信長と同様の見方をしていたことがわかりますね。
「最後の最後に思い切るべきときには、神の加護があると信じて突き進め」
それぐらいの感覚ですかね。
ヨーロッパにも「天は自ら助くる者を助く」ということわざがありますので、この考え方はかなり古い時代からあったのかもしれません。
では次に、秀吉と家康の対応を見ておきましょう。
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