慶長二年(1597年)6月12日は、毛利元就の三男・小早川隆景(こばやかわ たかかげ)の命日です。
次兄の吉川元春と共に毛利宗家を支えた”毛利両川”の片方としてご存知の方も多いでしょう。
同時に、元春が武で、隆景には知のイメージを抱かれる方も多い気がします。
しかしその一方で、あまり知られていないと思われるのが隆景の最期。
秀吉の天下取りにうまく乗じて毛利宗家を支え、秀吉のゴリ押しで小早川秀秋を引き取るも、関ヶ原の戦いでは秀秋の名ばかり目立ち、隆景の行方を聞くことがほとんどない。
それは一体なぜなのか?
小早川隆景の生涯を振り返ってみましょう。

小早川隆景/wikipediaより引用
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元就と正室・妙玖の第三子
小早川隆景は、毛利元就と正室・妙玖の第三子として天文二年(1533年)に生まれました。
小早川家に入ったのは、天文十三年(1544年)のこと。
支流とされる竹原小早川家に跡継ぎがいなくなってしまったため、婚姻関係のあった毛利家の男子が求められたのでした。
兄の吉川元春が割と物騒な経緯で吉川氏を掌握したのに比べると、かなり穏便な経緯ですね。

吉川元春/wikipediaより引用
その後、天文十九年(1550年)に小早川宗家・沼田小早川家にも男子がいないという事態が発生。
最後の沼田小早川家の当主・小早川正平(まさひら)の娘と隆景が結婚して、家をまとめ上げることになりました。
時代の流れによる政略結婚でありましたが、後に「問田大方」と呼ばれるようになったこの女性と隆景は、とても仲睦まじい夫婦だったそうです。
残念ながら子供には恵まれなかったものの、この経緯で夫婦間に何もトラブルがなかったというだけでも万々歳でしょう。
下手に対立すると、竹原・沼田の両小早川家の家臣たちにまで派生しかねません。
こうして無事に小早川家をまとめられたこともあって、天文二十四年(1555年)にはかの有名な【厳島の戦い】で父・毛利元就の作戦に従い、大勝利に貢献しました。

毛利元就/wikipediaより引用
当時の隆景がまだ20代前半だったことを考えると、うまくいきすぎているほどの経過ですね。
隆景の性格的にそれで奢るようなこともなかったと思われますが、弘治三年(1557年)にはこれまた有名な「三子教訓状」を父から受け取っています。
この手紙に対する三兄弟の反応は詳しく伝わっていないものの、ここからの言動からすると、みな深く心に刻んだと思われます。
足利義輝から“中務大輔”を与えられ
小早川隆景は永禄四年(1561年)、十三代将軍・足利義輝によって”中務大輔”という官職を与えられたことがあります。

剣豪将軍と呼ばれた足利義輝/wikipediaより引用
当時のご時世ですので実情のない名誉職のようなものであり、隆景もそう思っていたようで、書状にこの名乗りを用いたのはほんのわずかでした。
本来の中務大輔は、朝廷で最も重要なお役所とされた中務省の実質的な長官です。
その上に親王が”中務卿”として就任するのが本来の形ですが、適任がいない場合は空席とされていました。
これだけでも充分に高い身分であり、中務大輔の位階は正五位上相当とされています。
武家にはほとんど与えられなかった位階――つまり義輝は、隆景をかなり高く評価していたということです。
ついでにいうと、当時の父・元就は従四位下・陸奥守でしたので、隆景と一段回しか差がありません。
当時の義輝はやっと京都に戻れたところでしたし、大内氏を下していた毛利氏をガッチリ味方にしておきたかったのでしょうかね。
東奔西走する隆景
永禄六年(1563年)8月に長兄の毛利隆元が死去。

毛利隆元/wikipediaより引用
さらに元亀二年(1571年)に元就が亡くなってからは、残された甥・毛利輝元を支えるため気合を入れ直したことでしょう。
小早川隆景は序列をとても大切にする人だったので、甥っ子だからといってナメてかかることはありませんでしたが、しつけと教育はしっかりやっていました。
輝元がごねるときには容赦なく折檻したそうです。こわい。
また、この間、永禄八年(1565年)に京都では【永禄の変】で足利義輝が殺害され、その弟・足利義昭があちこち放浪した末に織田信長を頼り、永禄十一年(1568年)に念願の上洛。
その後、義昭は、信長と仲が決裂して元亀四年(1573年)に京から追放されるというビッグイベントが起きていました。
天正四年(1576年)になると、ある意味、輝元よりも厄介な駄々っ子・足利義昭が毛利氏を頼ってやってきています。

足利義昭/wikipediaより引用
最初毛利家では「嫌です」(超訳)という態度を取っていました。
しかし、義昭が勝手に来てしまったので、仕方なく味方することになっています。
義昭は朝廷から将軍職を解任されたわけではなかったので、毛利氏が担ぎ上げようと思ったなら、もっと大々的に旗頭にできたはずなんですよね。
それをしなかったということは、やはり毛利氏でもこんな風に考えていたのでしょう。
「一応、上様扱いはしといたほうがいいけど、どう考えても織田に勝てないよね」
「元就様も『我が家は天下を狙うな』って言ってたし」
むろん将軍様ですから、毛利を頼って来られてしまったからには粗略にもできませんし、信長がいずれ西方へ目を向けるのも時間の問題。
そんな流れもあり、毛利は織田家と対立することになっていきました。
義昭によって”信長包囲網”に引きずり込まれたともいえます。
そこで小早川隆景はじめ毛利家はどう動いたか?
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