天正十四年(1586年)11月15日は、吉川元春が亡くなった日です。
毛利元就の次男かつ勇将として知られますが、元服後に吉川家へ養子に出ているため「毛利元春」と呼ばれることはほとんどないですね。
御馴染みのエピソード「三本の矢」(ただし創作)では真ん中にあたる人物。
父のもと、あるいはその死後も、毛利家を支え続けた重臣とも言えるでしょう。
では実際にどんな活躍があったのか?
若かりし頃から元就の中国地方制覇に貢献した吉川元春の生涯を振り返ってみたいと思います。
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初陣は11歳(忠勝でも12歳)
吉川元春が生まれたのは、享禄三年(1530年)。
母は元就の正室・妙玖(吉川氏)でした。
次男でありながら、正室生まれということで前途は洋々。
元春は生来かなり勇敢な性格だったようで、元服前の数え11才で「父ちゃんオレ戦に出たい!」と言って無理に初陣してしまうような武将でした。
このときの合戦相手は尼子晴久で、吉田郡山城の戦い(1540-1541年)となります。
ちなみに、家康の配下で最強武将として名高い本多忠勝は、12才で初陣しています。
それを上回る早さだったんですから、元春のヤバさ……もとい、殺る気がわかりますね。
家臣・熊谷信直の娘と結婚するぞ!
また、吉川元春は
「オレ、自分の嫁は自分で決めるから!」
と勝手に縁談を進めてしまうほど、決断と行動の派手な人でした。
時は戦国時代ド真ん中。
大名やその家族の結婚は当人同士だけでなく、家と家とを結びつけてより戦を有利に運ぶための手段であります。
にもかかわらず自分一人で決めてしまったのですから、ヘタな相手だったら元就もキレていたことでしょう。
しかし、実際はそうなりませんでした。
元春が選んだのは、家臣・熊谷信直(くまがい のぶなお)の娘。
家臣の娘さんを妻にするのは割と普通のことです。
ところが、です。この娘さんの口コミが大変よろしくなかった。
「あのお嬢さん、顔さえ良ければねえ……」
「あんな顔の人はこの世に二人といないだろうよ」
などなど、今なら確実に炎上しそうなほど「お顔が残念」という評判が立てられていたのです。
見目麗しき夫人を迎えれば、いずれ生まれてくる娘も美貌の女子となり、良家との政略結婚がうまくいく可能性があります。
不美人でも子供が産めれば万々歳ですが、わざわざ美人を避ける理由にはなりません。
元就も首を傾げ、元春の真意を問いただすことにしました。
「俺の嫁がブスだと? だがそれがいい」
「かくかくしかじかなんですけど、元春様はどのようにお考えで?」
使者がそう尋ねると、吉川元春は意外な答えを返します。
「いや、オレも別にブス専ってわけじゃないんだよ。
でもさ、女は顔だけじゃないじゃん? 家の中をまとめてもらうのに顔は関係ないし。
それにさ、美人だったら浮気とか家臣の視線とか気になっちゃうけど、不美人だったらそんなことないじゃん?
信直だって『ウチの娘はブサイクって言われてるから、嫁の貰い手がないんじゃないか』って心配だろうしさ、そこでオレがもらえば喜ぶだろ?
これなら一石三鳥じゃん!?」※会話文はイメージです
といったような理由を述べたのです。
元春は元春なりに、きちんと「大名の嫁取り」を理解してのことだったわけですね。
これには元就も「さすがワシの息子じゃな」と納得し、希望通り元春はこの娘をもらうことができたのでした。
もっとも、この「わざと不美人を嫁をもらった」という話は三国時代の諸葛亮をはじめ、日本でも明智光秀や高橋紹運(立花宗茂のお父さん)、時代が飛んで近藤勇など、様々な人に似たような話があります。
というわけで創作の可能性も高いのですが、おそらく
「元春はこのように、目先のことや自己満足を排して判断できる人だった」
ということを示しているのでしょう。
こうして元春は無事に熊谷信直の娘を妻として迎え、彼女は”新庄局”と呼ばれるようになりましたが、実際に不美人だったかどうかはハッキリしていません。
一説には、疱瘡(天然痘)を患ったことがあったため、その痕が顔に残ってしまい、噂が広まっただけの可能性もあります。
明智光秀の妻・明智煕子についても同様の話があり、戦国エピソードとしてはいかにもといったところ。
「疱瘡は見目定め」なんて言葉もあったくらいですから、特に女性の場合は将来への影響が大きかったことや、それを気にしない男性が一定数いたことなどを示しているのかもしれません。
いずれにせよ新庄局(しんじょうのつぼね)と呼ばれるようになった元春の妻が、戦国武将の妻として優れていたのは確かなようです。
夫婦仲も円満で、四男二女の子宝にも恵まれています。
なにより元春が生涯側室を持たなかったのがその証拠でしょう。
いくら正室で子供を六人産めたとしても、ふさわしい性格と能力がなければ、側室に取って代わられてしまうことは珍しくありません。
さらに「元春のヨメは男みたいな手紙を書くのう」なんて元就に苦笑されたこともあるそうなので、大人しいタイプではなかったと思われます。
そのあたりも元春とは気が合ったのかもしれません。
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