永正11年(1514年)2月12日は、中国地方の代表的戦国大名・尼子晴久が誕生した日です。
毛利元就の話をするときに大内家と一緒に出てくるため、何となく聞き覚えのある方が多いのではないでしょうか。
他の戦国大名と同じく、幼名と初名と最も有名な名前が違うのですが、わかりやすくするため「晴久」で統一しながら、その生涯を振り返ってみましょう。
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尼子晴久/wikipediaより引用
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父と兄が相次いで亡くなり家督を継いだ尼子晴久
尼子晴久は永正11年(1514年)、出雲(現・島根県東武)の戦国大名・尼子家の次男として生まれました。
当時は晴久の祖父・尼子経久の代です。
ゆえに順当に行けば、晴久から見て祖父→父→兄と家督が継がれていく流れですが、兄と父が続いて亡くなったため、晴久が祖父から家督を継ぐことになりました。
まだ若い晴久は祖父からの指示を受け、周辺の大名とときに争い、ときに和睦して家を守っていきます。
ただし、ずっと祖父の言いなりというわけでもなく、家督を継いだ翌年には大内家の持っていた石見銀山などを攻略し、金策と領地の拡大などにも注力。
結果、播磨(現・兵庫県)まで勢力を伸ばすことに成功しています。
さらに西の九州では、大友家が、近江に逃れていた十二代将軍・足利義晴(十三代・足利義輝と十五代・足利義昭のトーチャン)を援護しようと考えていたため、これが大きな障害になります。
そして晴久が30代半ばになると、天敵となる相手との対決が始まります。
毛利元就です。
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毛利元就/wikipediaより引用
元就の手腕を警戒した経久は「軽挙を慎め」
毛利家は、元就の前の代までは尼子家の傘下でした。
しかし、家督相続のゴタゴタが終わった際、もう一人の中国の雄・大内家に帰属します。
祖父の尼子経久は、元就の手腕を警戒して「軽挙は慎め」と諭しましたが、既に周辺の豪族を傘下に収めて自信満々だった晴久は祖父の助言を聞き入れません。
大軍を率いて毛利家の本拠・吉田郡山城へ攻め入りました。
毛利元就は冷静に籠城戦を展開します。
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毛利の本拠地として知られる吉田郡山城(日本100名城の一つ)
士気を保ちながら、圧倒的な大軍を相手に、粘り強く大内家の援軍を待ったのです。
一方、尼子軍は元就に翻弄され、士気も戦力もダダ下がり。
多数の家による連合軍であるがゆえに指揮系統が混乱し、さらには背後から大内軍に叩かれて、散々な結果に終わってしまいました。
この時、大内家から派遣されたのが、後に主である大内義隆を滅ぼす陶晴賢だったというのがまたなんとも……。
さすが戦国時代、どこもかしこも人間関係がドロドロしてますね。
この大敗により、尼子家に協力していた豪族も大きく力を削がれたり、大内家に寝返ったり、嫌なフラグが立ち始めました。
やがて尼子家も経久を亡くし、晴久に忠告できる人がほぼ皆無になってしまいます。そして……。
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